中西 - みる会図書館


検索対象: 神の汚れた手
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1. 神の汚れた手

を除いて、かなりの程度、叶えてやることはできる。 貞春はしかし、久しぶりに、八木原とは仕事以外の話をして、間もなく電話を切った。 自分が義理堅くないことを、貞春が再び痛感したのは、その午後、中西映子が久しぶりに診 察室に入って来るのを見た時だった。 「いや、この間はけっこうなものを頂きながら、お礼も申し上げなくてすみませんでした」 貞春は恐縮して謝った。 卵巣造影の検査が終わった後で、中西夫妻からは、貞春あてにカーディガンが一枚贈られて 来たのである。「洋行」したこともなく、身のまわりを一向に構おうとしない貞春は、その小 妻の真弓に言わせれば、 豆色のカーディガンを軽くて着やすそうだな、と思っただけだったが、 それはワイン・カラーという色であって、フランスでも有名なメーカーのものだというのであ った。つまりそれはいつも貞春が着ているようなデ。ハートのバーゲン・セールで数千円の代物 ではなく、軽く数万円もするのだというのである。 《勿体ないな。来年から着よう。ナフタリンをしつかり入れておいてよ》 貞春はそう言っただけで、ついつい礼状一つ書かないでいたのだった。 しかしその品物を贈られたことで、貞春も中西夫妻も、これで一応、この問題は終わり、と 大いう感じを共通に持っているような気がしていたので、貞春は中西映子の顔を見た時、少々意 外だった。理由もなく、貞春は、彼女は何かクレームをつけに来たに違いない、と思った。当 ザ ナ 節の医者共の中には、患者パワーに脅えているのもけっこう多い。同じ正しい診断、同じ処置 を施しても、必ずよくない結果を生むケースが僅かながらあることは自明の理である。そうい かな

2. 神の汚れた手

その翌日の午前、中西夫妻が診察室に現れて初対面の挨拶をした時、野辺地貞春は、 「ずいぶんお早く来られましたね。筧さんにせき立てられたんじゃありませんか」 と逆に同情した。 「いや、私共の方で、一日も早く、と申し上げました」 さっき 夫の中西五月が言った。名刺によると「株式会社タイヨウ常務取締役」と書いてある。 中西は大きな眼をして、どちらかというとベビー・フェイスだった。歩く時に、右脚が曲らな いらしく、棒をつき出すような恰好をする。 妻の映子は、髪を長くして肩に垂らし、華やかな顔立ちをしているが、笑うと眼が細くなっ て、への字眉になる。二人はよくあるタイプで、同い年にしては、夫の童顔のせいで妻の方が 雪年上に見える。 淡貞春はこの点でいっか大失敗をしたのである。癌の疑いのある七十代の老女につきそって 山ていた男を、息子だと思って喋っていたら、それは二つ年下の夫だったのである。それ以来、 貞春は、患者の家族関係については、用心の上にも用心するようにし、相手が喋るまでは、 山の淡雪 えいこ しゃべ

3. 神の汚れた手

うした機能障害によって、造影剤が入らないことは、決して珍らしいことではないのである。 そうするとまるで卵管自体に欠陥があるように写真には映ってしまう。 ふと気がつくと、中西映子がばろばろ泣いているので、貞春は弱ってしまった。理由は何で あれ、眼の前で女に泣かれると、男は反射的にやましいような気分になるか、他人にそう思わ れやしないかと恐れるものらしい 「ご主人に電話なさりたいんでしよ。どうぞこの電話をお使い下さい」 貞春は、相手のエネルギーの矛先を転じようとした。 しいえ、外の公衆電話からかけます」 「どうぞ、そんなに遠慮なさらんでいいですよ」 「でも、主人は今日、東京におりますの」 「じゃ、東京におかけなさい」 貞春は笑いながら受話器を取って相手に渡した。 「では拝借致します」 貞春は、立ち上がって背のびをした。 「あ、おねえさま ? 」 東京の電話に出たのは、中西氏の姉か嫂かと思いながら、貞春は映子の声を聞いていた。 「主人は、出かけてますの ? そうですか、いえ、ちょっと知らせたいことがありまして : いえね、あのう、私、赤ちゃんができたらしいんです」 できるだけさりげなく言おうとしているらしいのに、中西映子の声には、波のように押し寄 ほこさき

4. 神の汚れた手

「きれいなもんだなあ。工業製品じゃないでしよ。手工芸品の味があるね」 「ベルーの銀細工なのよ。銀なんて、錆びるし、気がきかない話だけど、手作りの感じに惹か れてしまったの」 しいですよ。僕、銀のものは錆びても気にしないことにしてるんだ。湿度の多い海の傍に住 んでると、錆びる方が自然だしね。それに黒くなっても、銀には銀の味があるよ。でもベルー にも行ったの ? 」 しいえ、飛行機が下りた時、空港で買ったのよ。本当は、もう少し大きいのがあったんだけ ど、映子さんとこで赤ちゃんが生まれるというから、そっちに上げることにしたの」 「あれはねえ、全く、僕の失態で : ・・ : 」 「失態どころか、中西さんとこじゃ、貞春さんを、神さまみたいに思ってるんだから、遠慮し ない方がいいわよ」 「しかしね、意図せずにしたことで、相手に文句言われると、我々としちやばけっとすること あるでしよう。それと同じで、何もしてないのに、礼を言われるのも、具合の悪いもんだよ ね」 「構わないのよ。私たちは祈る時に、罪を許して下さい、と一言うんだけど、その時、意識して って祈るのよ。だから、それを 大犯した罪と、無意識のうちにやった悪と両方を許して下さい、 レ裏返すと、偶然そうなったことも、やつばり貞春さんのお手柄なのよ」 ナ「そうかなあ」 「中西家じや大変なのよ。中西氏は脚が悪いこともあって、あの年になっても家中のペットで ひ

5. 神の汚れた手

リン用の注射筒で、この粘液をとり、ガラス板の上に乾かして見ると、神父の言う「無言の壮 麗なるドラマ」が、堂々と展開しているのがわかる筈なのである。 つまり、もし健全に排卵が行われていれば、顕微鏡下の粘液には、羊歯のようなものか、そ の中心に十字架状の結晶が現れる。これは食塩分やグルコーゼやムチンなどの成分なのである。 「ちょっとご主人、ごらんになりますか」 看護婦が「プラス三度です」と言ったので、貞春は中西の方を向いて言った。 「頸管粘液の標本をとると、こんなふうに見えるんです」 貞春は、ちょっと顕微鏡を覗き込んでから中西五月に場所を譲りながら言った。 「ほう、きれいなもんですね」 ひ 中西は顕微鏡の視野に惹きつけられたらしい姿勢のまま呟いた。 羊歯状の結晶というものは、実に厳しいばかりのみごとなバターンを示していた。これが、 雑然として、とまどい、嘘をつき、疲れたり眠ったりする人間の組織の一部なのかと思う。そ れは銀色に輝いた、鋭い芦の葉を思わせるような模様が重なっており、人間の生が、決して思 いっきでも偶然でもなく、まさに何者かの整然とした計画のもとに創られ動かされているとし か思えないような、みごとさであった。 「こういうふうに見えるのは、よろしいんですか ? 」 女房の見合い写真は見たことがあっても、その頸管粘液の組織を見た男はめったにいないで あろう。女の美醜を決めるのはなかなかむずかしいもので、女たちが痩せたがっているのとは 反対に、かなり太ったのでなければいや、という男や、女は脚の短い方がいい という好みま あし

6. 神の汚れた手

し、それだけに、。 とれほど相手が愚かであろうとも、今となっては、貞春はとうてい彼女を見 捨てることができないのであった。 爽かな朝が明けて、貞春が翌朝、病院の方へでかけて行く時も、無論、真弓はまだ帰宅して +6 、よゝっこ。 . し、ナ′、刀子′ その朝、一番に入って来たのは、不妊症の治療に最後の望みを賭けている中西映子であった。 「先生、ごぶさた致しまして。お蔭さまで今月は、体の調子もよろしいものでございますか 映子の検査は、初めの滑り出しほどには、順調に進んでいなかった。中西氏の母親が骨折し て入院したので、映子が東京の病院につきそいに行かねばならなくなったのである。中西氏の 方には異常が見つからないので、貞春としては、映子の方の卵管の検査をやりたかったのだが、 この検査は、生理が終わってから、排卵日までの間、という制限がある。 姑のつきそいも、夫の姉妹に任せられるようになったので、映子は本当は先月その検査を受 けたかったのだが、あいにくと風邪をひいて熱を出してしまった。風邪ひきくらいなら、伺っ ても大丈夫でしようか、という問い合わせが電話であったので、貞春は、無理をしないで、一 カ月お延ばしになったらどうですか、と言っておいたのである。 卵管というのは、卵巣から出て来た卵が下りて来る道に当たるのだが、そこに障害があって は、精子と出会うことができないので、それがどの程度きれいに通じているかを、ヨードの入 った造影剤を外子宮口から注入して、骨盤内の様子をレントゲンで撮影するのである。もっと も、貞春は今日すぐ、映子の卵管撮影をするつもりはなかった。このテストの前には、血沈を

7. 神の汚れた手

う場合、昔は当人の運がない、という言い方をしたり、体がその処置に耐えなかったのだ、と いう考え方をしたりしたものだが、この頃の患者は、死んだのは総て医者の責任だ、としか言 ふそん わないから、貞春のような不遜な態度の悪い医者でさえも、反射的にこういう反応を示すので ある。 「ど , っされました」 「実は、あのテストをして頂きましてから、少し調子が悪くなりまして : : : 」 果たして中西映子は言った。 「生理がなくなってしまいましたし、それから、今まであまり経験がなかったんでございます 帯下が殖えた、というのである。バリウムを飲んで胃の検査をした後だって、お通じの色が 変わるのだから、多少の後遺症は当たり前だと思ったが、そのうちに体もだるくなるし、熱っ ばくなって、遂に寝こむ日が多くなってしまった。 「主人が、もうお前だってそろそろ更年期なんだから、それくらいの変化が出るのは当たり前 だろう、と申しますので、騒ぎ立てて伺うの恥かしかったんでございますが : 顔色は悪いが、そこで、初めて特徴のあるヘの字眉の下の眼が笑いでいよいよ細くなった。 「そんなことはありませんよ。調べてみればわかることなんですから」 「それから先生、筧さんが昨日お戻りになっているのご存じでございますか ? 」 中西映子が言った。

8. 神の汚れた手

貞春は照れかくしのように言った。 中西映子が再び呼ばれて入って来た時、貞春は、 「いやあ、中西さん、大変なことになっちゃったよ」 と笑った。 「】で、いますか」 「まさか、おめでたですよ」 「嘘ばっかり」 「だから、僕も困ってるんですよ。こないだお諦め下さい、なんて言ったばかりでしよう。そ の舌の根も乾かぬうちに、こうなったから、僕、今、非常に損をしたと思ってるんですよ。こ んなことならもう少しあやふやに引き延ばしておいた方が、名医に見えたのに」 「じゃ、本当なんでございますね」 「わりとあることなんですけどね。ああいう検査の後でよく、こういうことが起きるんです 貞春は言い訳がましく言ったが、 今度の妊娠については実際に二つの可能性が考えられたの ということである。 である。一つは、テストそのものが、卵管を通す働きをしたかも知れない、 もう一つは、映子の卵管は機能的には、初めから正常だったのかも知れないが、造影剤が入ら なかったのではないかという可能性である。これは必ずしも貞春の技術上の失策ではなく、神 経質な人などによく、造影剤を入れたりするとテューバル・スパスムスと呼ばれる卵管痙攣を 起こすことがある。それを予防するために鎮痙剤を与えはするのだが、自律神経失調によるこ けいれん

9. 神の汚れた手

ていう感じで・ : ・ : 」 「だから、いけないのよ」 さえ、 貞春は徭子の一一 = ロ葉を途中で遮った。 「こんなこと言うと、僕、医者らしくないって笑われるけど、その人、生き方が律義でない 「ど , っして ? ・」 「やつばり、僅かばかしのお金でも、額に汗して働いて、夜は、子作りに精を出す、というと ころで、初めて、律義者の子だくさん、ということになるのよ。僕の体験ではそうなんだよ」 しかし、貞春は、早合点なきめつけ方をしたわりには、まだ見ぬ中西という夫婦のことを、 好奇心をもって聞いていた。好奇心は、好意というわけにはいかないが、決して悪意ではなか つつ ) 0 夫婦は大学時代の同級生で、夫人は、脚の悪い夫に対して、半ば同情的な思いをもって結婚 したらしい という噂もあった。徭子は、夫婦を昔から知っているというわけではなかったが、 最近、知人と小網代のヨット・、 ーに行った時、中西夫妻に紹介され、それがきっかけで 二人は、このホース ・バック・ヒル ( 馬の背中の岡 ) の家も訪ねて来たのであった。 「何なんですか、その夫婦は、かって一度も医者に診てもらったことないんですか」 「少しは、あるんですって」 「少しはね」 「結婚して二、三年目に、、 こ夫婦が別々に診てもらって、それで、めいめい、どこにも異常は

10. 神の汚れた手

貞春は、やはり、心の中に引っかかっていることを、ロにせずにはいられなかった。 「中西さんという筧さんの知人の奥さんが妊娠したことは : 「聞きました」 「検査をやりましてねえ。卵管が通っていないからだめだと宣告を下した直後にできたんです。 検査の時に使った造影剤が卵管を通してしまったか何かわかりませんが : 「しかし、それはおめでたい結果じゃありませんか。中西家では先生を神さま並みに考えてい るんだって筧さんは言っておられましたよ」 「計画的だったら鼻高々だったんですがね。そうしたのは僕じゃない。神父さん向けに言うと、 神ですな。もっとも診察料は僕が取り込みましたけどね」 貞春は笑った。 「いいじゃありませんか。神は大ていの場合、お金はいらないんですよ」 「それはまあ、ロをぬぐって僕の功績と考えることにしました。ところが最近また一つ、起き 貞春は心底を見すかされるのがいやだったので、それが「今日」それも「つい先刻」起きた ことだとい , っ点だけは、こまかしておいた。 大「一月の末、僕は、或る患者に中絶の手術をしたんですよ。よく覚えていませんが、五週目か 六週目くらいで、ずいぶん早かったんじゃないかと思う。だから掻き出したものが、まだ多少 ナはっきりしない状態ではありましたけど、僕は失敗したなどという自覚は全くなかった。筧さ んに怒られますけどね、計算してみると神父さん、僕は多分通算で二千例から三千例その手の