僕の知人が女を買おうとしたの。うんと若い娘で美人だから、百ドルだって : : : 」 「それは又高いわね」 「うん、そいつも高いとは思ったんだけど、日本人って旅に出ると気が大きくなるんだってね。 それで承知したら、まだ十六、七に見えるか細いような少女を連れて来た」 「それが百ドル ? 」 「彼も、さすがにこんな子供じゃなあ、と思ったけど、約束だから百ドル払おうとしたら、そ の娘を連れて来た男というのが、実は実の父親で、百ドルくれるんなら、どうぞこの子を連れ てって下さい。その方が、この子もちゃんと食べられてしあわせです、って言ったんだって」 「そ , つい , っ話、けっこ , つあちこちにあるわよ」 あわ 「その人は驚いて、とんでもない、人買いはご免だって言って、慌てて返したそうだけど、今 になって惜しいことしたなんて言ってるんだ。あんな美人、連れて来て、銀座でバーを出させ りやよかったってき、」 っておど 「冗談じゃないわ。ガフキーの出てる末期的な肺結核だったかも知れないじゃない かしてやった方がいいわ。そういう人には」 「ま、それは別として、どんな子でも貰うなんて聞くと、僕なんか : 「トーマスさんとこの養子は男の子が多いくらいよ。それに会ったらわかるわ。トーマスさん おもわく ってのは強い人なのよ。人の思惑なんか、てんでどうでもいいの。貰うなら、可哀相な子ほど ししそういう子こそ、自分が貰わなきや、貰い手がなかったんだからって思えるのね」 こっとう 「骨董の目ききみたいな人だね」
受話器を置いた時、貞春はしかし徭子に心のうちを見すかされているような気がした。実は 貞春は大久保婦長に、もし「運よく」丹羽明子に母乳が出なかったら、赤ん坊には無理して飲 ませないよ , つに一一 = ロったのである。 一度、乳を含ませると、赤ん坊を離したくなくなるのは目に見えている。可愛くなった頃に、 はたが取り上げることになったら目も当てられない。だからトーマスさんという人が、貰って くれるということなら、赤ん坊の母も祖母も、あまり子供には触れない方がいいのだ。 しかし、そういうかたわら、貞春は憂鬱なのであった。女は赤ん坊を生めば乳が張ってくる。 ひるがえ 赤ん坊の声を聞いただけでも、道端の物干におしめが翻っているのを見ただけでも、満潮の ように乳は張って来る。これは止めようとしても止められないことなのである。その自然の溢 れるような生命の力を、できるだけ無視するようにと、貞春は看護婦たちに命じて来たのだっ 筧徭子からの返事は、十分後にはもうかかって来た。 「今、早速トーマスさんに連絡とったらね。赤ちゃんのお誕生おめでとう、待っていました、 って言ったわよ」 徭子は言った。 系「本当かね。これが発展途上国だったら、僕うんと気を廻すとこだけどね」 一貞春は、素直に感謝して礼を言う代りに、嫌味を言った。 万「それ、ど , つい , っこと ? 」 「僕は外国知らないから、ホラ吹かれたのかも知れないけど、北が入って来る前のベトナムで、
貞春は机の前に腰を下ろし、ばねの効く椅子を後へのけそらすようにして背のびをしながら、 まだ小倉一家と、その赤ん坊のことを考えていた。一五五〇しかなかった末熟児が、三六〇〇 グラムもある、しつかりした赤ん坊になって帰る。あの子はどんな子になるであろうか。総て 人並みに、学校の成績に悩んだり、オートバイをぶっとばしたり、ギターを買って欲しがるか も知れない。 貞春は娘を持っている癖に、まだあまり女の生活はよくわからなかった。香苗はスカートは 欲しがらないが、金魚や漫画の本はよく買ってくれ、と言う。そして時々、座っている貞春の 後から、首っ玉にかじりついたりする。玖美子の娘も、その程度にはなるであろう。いやあの 玖美子はしつかり者だから、案外典型的な教育ママになって、娘をめちゃくちゃに締め上げて、 学校秀才に仕立てるかも知れない。 偶然、今日退院する二人の子供たちのそれぞれが、一時は生命を断たれるかも知れない時に 貞春は居合わせたのであった。その場の空気がきわめて日常的であったことを、貞春は知って いる。つまり産婦人科の医者でなくても、誰でも人間は、人の命を断っことさえ、何気なくで きるというわけである。しかし又、ふと思いなおしたり、偶然の力が加われば、人間はいとも たやすく、生命を与える立場にも廻れるのであった。 何もかも、これでいいのだ、と貞春は思おうとした。ありがたいことに、人間は神ではない ののだから、このような無定見も許される。 かんだか タ 貞春の考えがそこで中断されたのは、玄関の方に、よく内容の聞きとれない甲高い人声が聞 こえたからだった。潮風の強い この明るい農村では、時々、何でもないことでも、けたたま
ドアを開けて入りながら、貞春は、赤ん坊が生まれるのを待ちながらモーツアルトのレクイエ ムを聞いていた自分をおかしく感じた。 」こ、ほんの少し、眠りに入るためのウイスキーをストレートで飲 貞春は二階の寝室に行く前し んだ。人間が生まれることが果たしていいことなのかな、と貞春は思いながら央く酒を味わっ た。言い訳がましくなるが、自分は神父や筧徭子から見れば人間の生命を断っことにも働いて 来たが、生命を送り出すことにも手を貸して来た。誰もが子供が生まれることはめでたいと言 うし、命を与えることは尊い職業だと言う。確かに一応も二応もそうなのだが、貞春の中に、 時々この世は生まれた以上、数十年を耐えねばならぬ強制的な時間と映ることもまた否定でき ないのであった。 貞春は間もなく眠ったようだったが、体の中に目覚時計が内蔵されているみたいに午前八時 にはもう起き出し、すぐ病院に電話をかけた。すると田中利子にも、午前四時四十五分に三八 〇〇という男の子が生まれており、総ては順調で、広重も今は少し眠っているということだっ 「三階に入院してた、あの : : : 」 この頃時々人の名前がはたと出なくなる。年のせいかと思わざるを得なかった。 「馬場さんですか ? 」 「そう、痛みはどんな具合 ? 」 「まだ、二指ということでしたが」 「じゃあ、広重先生に頼んでおいても大丈夫だな」
するから、けっこうな休養をとったものだと思った。 「先生、新庄さんがそろそろ全開に近くなりますから、おいで頂きたいということですが」 岩波啓子の声であった。 「はい、わかった」 あくび 貞春は大欠伸をして玄関の方へ出て行った。中屋敷と岩波は、今夜は文字通り徹夜になるだ ろう。計画出産をしないと、この通り労働条件が悪くなるのだが、貞春は何か特別の理由のな い限り、あまり人為的な手を加えたくなかった。 新庄玖美子は既に分娩室に入っていた。陣痛の間隔は二、三分で、五十秒くらい持続するよ うになっているから、自然、痛みから解放されて休む間もなくなっているのである。 「新庄さん、初産としては、着々進んでるよ」 貞春は一応自分で様子を確認しながら言った。 「そうですか。もう、うんと長い間、経ったような気がしてます」 「今、広重先生に麻酔うってもらうからね。あと、一、二回痛いのを我慢してよ」 広重がしようとしている仙骨麻酔というのは、仙骨部の硬膜外腔に麻酔薬を注入して、下半 身の痛覚を麻痺させる方法である。これは笑気を吸入させるのと違って、産婦の意識ははっき ちかん りしているし、膣ロも充分に弛緩するから、娩出期がかなり短縮される上、生まれて来る子供 も麻酔の影響を受けることが少ないので、いわゆるひどいスリーピング・ベビーになることも という理論もある。しかしこれらのやり方には総て一長一短があり、つまりはその医者 の馴れている方法が最もいいのだと、貞春は思っている。広重は玖美子を向こう向きに側臥位
、と一 = ロうんです。知恵遅れでもいい。長生きしなくても 「映子が初めは、ダウン症の子でもいし 二十歳で死ぬものなら、我々夫婦にはちょうど、 しいかも知れない。その子を見送って死 ねますから、と言うんです」 「なるほど」 「言葉なんか喋らなくていい と一一 = 日っ 自分の子だというのをずっしりこの手に抱ければいし んです。今は猫を抱いておりましてね。猫もあったかいけど、これが自分の子だったら、とい つも思ってた、と言うんです。その子を二十歳なら二十歳まで、しあわせに生かすことを目的 に生きましょ , っと : 「しかし八木原先生は、多少の現実をお話し下さいましてね。軽ければ二十歳まで、いやもっと 長く生きるだろう。しかし心臓もダメ、消化器の奇形も出ている、急性骨髄性白血病を伴うと いうことにでもなれば、子供は手術を何回も受けたり、治療としても辛い思いをしなければな らなくなる。見ていられなくて、この子のために早くお引き取り下さい、と親は祈るようにな るものだとおっしやったんです」 さっき 夫の中西五月の話によると、夫婦は昨夜もまだ、迷いながら海に向かい合っていたのであっ た。自分の生命を受けつぐものの存在は、今映子のお腹にいる子だけである。たとえその子が 一つ目であろうが、手の三本ある奇形であろうが、夫婦が我が子と思えば我が子なのである。 その子がロもきけず、眼も見えず、一人前の人間らしい知能の働きがなくとも、その子を抱い て温もりを肌に感じられれば、そこに映子は自分の生命の延長を感じることができる、と言っ
の世のことを、何一つとして本気に信じてもいなければ、あまり善意に考えてもいないのに、 子供たちにだけ希望をかけられるというのは、何というおかしな話だと貞春は思った。しかし とうする方法も今の自分にはないのであった。 それ以上、、、 翌週、貞春が真弓のためにしたたった一つのことは、彼女を知り合いのドクターのいる国立 のび 野比病院の精神科に連れて行ったことであった。真弓が頑強に拒否するかと思ったが、そうで もなかったので、貞春はほっとしていた。 「少し休んでおいでよ。あそこは海の傍で静かで、環境が申し分ないよ。僕も休みに行きたい くらいだ」 貞春は妻に言った。都を養女にやる時も、「僕が行きたいくらいだ」とロ走った。いつでも、 違った環境に、半ば本気で憧れが持てるのである。 妻が診察を受けている間、貞春は外来の建物の外へ出て、海の匂いを嗅いでいた。妻でなけ れば、憐れな生活を送る女もいるのだな、と思うだろう、と思った。憐れまれること、労られ ることだけが生き甲斐で、どうして生きて行ったり年老いたりするつもりなのだろう。 真弓は本当に病気というわけではない。 しかし数週間、入院させてもらうくらいの病名はっ 意くであろう。入院してよくなるわけではないが、身上話を聞いてもらうことが元来大好きな女 だから、精神科の診察を受けられることは、一種の楽しみだということはわかっているらしい 殺貞春としては、その間、手のかかる子を託児所に預けたような感じである。ずっと預けっ放し 期にしておくことはできないが、そうして、この人生の時間を稼いで、何とか事の本質をごまか
うちはそういうふうには子供育てたくないね。暖房も冷房ももちろんなし。生まれる時だっ て、自分で苦労して生まれて来られるだけの力があればよし、そうでなけりや、赤ん坊のうち にだめになる方がいし 、と、わたしや思うんだ」 貞春は、、 しくらか経緯を知っていたので、深く理由は訊かず、ただ数種類の検査の手続きだ じゅんでん けを取ったが、お腹の子は当人が言う通り、果たして骨盤位の中でも最も多い純臀位の逆子 であった。 「逆子はまともには、生まれんですかね」 「そんなことはないですよ。大ていの赤ん坊はちゃんと生まれるようになってるんです。ただ 例外はありますが」 後川はその「例外の例」を訊くかと思ったが黙っていた。 「今、看護婦さんが練習法を書いた紙をあげて、こつを教えますからね。毎晩十五分か二十分 ずつ腰をあげて胸を低くする姿勢をとってすぐ横に寝るというやり方をして下さい。そうする と、大ていの場合、赤ちゃんはちゃんとした位置に戻りますからね。それからレントゲンを一 度とらなきゃいけないけど」 ばうとく 貞春はそう言ってから後川氏がレントゲンなどは神を冒漬するものだと言うかと思ったが、 案に相違して黙っていた。この体位変換のための一種の体操は胸膝位側臥位法といい、胎児が 自然に回転して正しい位置におさまるように助ける方法である。 「ご主人にお伺いしますが、どうしても普通に赤ちゃんが生まれて来ない場合、どうします ? お母さんが危険に陥るようなことが、ないとは言えませんが」
と押し頂いた。その時、電話のベルが鳴り、家中、誰もいなかったので、貞春はノてて、 相模工業の若主人に、「じゃ、明日からの工事、頼みますよ」と言い捨てて、電話ロへ出た。 「貞春さん ? お呼び立てしてすみませんでした」 筧徭子であった。 「大した用事じゃないんだけど、ロウリー夫妻が、都ちゃんを連れて、明日の夜、ちますっ て。もっともロウリーさんの仕事の都合でヨーロツ。ハ回りで帰るらしいけど。ドクーによろ しく言ってくれ、っていうことだったわ」 「そう。洗礼式というのは無事済んだの ? 」 「ええ、あの翌日にね。神父さまがおでこに水かけるんだけど、都ちゃん、眼をしてても、 泣きもせずに、じっと神父さまや私たちの顔みてるの。こんな子、珍らしい って神父さ もおっしやるのよ」 かんなん 「苦労してるからだよ。『艱難汝を玉にす』なんて言ったら、今の時代に笑われやうけど あれ本当だね。玉にしたかったら、子供をもっとしごいてもいいのよ」 「玉にならないことがわかってる子が多いから、しごけないんじゃない ? 」 貞春は喜んでくつくっ笑った。 「筧さんて、実に本当のこと言うね。あんまり本当のことって滑稽なのはどうしてかなあ」 その翌日の夜、宗近神父から電話があった時、貞春は一瞬、混乱に陥り、例の田夏子が よいよ神父の所に行ったかと思ったが、考えてみれば、クリスチャンでもない患が、貞春 一言に動かされて、いきなり教会へ行くことも考えられなかった。
ハスも一日に一番近い o 町から来るのが四本くらいでしてね。そのバスに乗 0 た客は、それ こそ一人残らず顔を覚えられていたもんです。ですからお腹の大きい女や、赤児 いた母親 が、海岸でバスを下りて、今度は手ぶらで帰 0 たりしようものなら、皆が訊かずには置かなか ったもんです。『やや児はどうしたかね』と。 しかし辻本さん、今は自家用車の時代です。いつでもどこからでも、人目にふれに来られ る。そして来る時は抱いていた赤児が、帰りにはいなくな 0 ていても誰も気がっかよい》 その人は、私の心を察したように言葉をついだ。 《月の夜など、ここの海岸は長いですよ。波と岩が噛み合 0 て、そこにただ月だけ、人間のや ること総てを見通しているという感じの浜がある。 私はそういう例がたくさんあ 0 たとは言いません。ただ、人間、本当にやろうと 0 えば、そ ういう形ででも子供の始末はできる、 0 ていうことですよ。そういう時には、赤児骨なんて、 貝殻になっちまうんじゃないですかね》 O 町の N という寺にある水子をまつる合同の墓に連れて行 0 てくれたのも、そのであ 0 た。 墓の傍らには、真新しいよだれかけをかけた石の地蔵さまが祀 0 てある。墓には、一一こむほど の香煙が立ちこめていた」 そこでカメラマンは撮影を始めた。辻本氏はいつもの通り傍に控えている。 「その翌々日、私たちは取材を終えて東京に帰 0 て来た。現像ができて来たフィルのラッシ ュを見ていたカメラマンが言った。 《辻本さん、ちょっと見て下さいよ》