であった。香苗の結婚の時に、母親のことが支障になるなら、それは運命と思えばいい った。そんなことを気にせずに、野辺地香苗と生活を共にしてくれるという青年だけが、 ? りはこの世で縁のある人物なのである。 貞春はその土曜日の午後、広重に手伝わせて、エンドメトリオーシスと呼ばれる子宮内膜」 の疑いのある患者を二人、たて続けに手術した。一人は三十五歳で、四カ月前までピルを飲 , で、こが、その後、不正出血があり、その上生理痛が次第に激しくなってきたものであった。 もう一人は三十二歳で既に二児があるが、最近になってディスパレゥニア ( 性交痛 ) がひ くなったものである。最初の患者は、「この荒廃した地球ではとうてい子供は生めない」と、 かえ う思想の持ち主だから、かりに子宮全摘出ということになっても、却ってもう避妊の面倒が 4 くていい、くらいに考えている。しかし若い方の患者は、夫婦共々子供好きで、第三子を欲 , がっているだけに「もしかしたら子宮を取ることになるかも知れませんけどね」と事前に言」 ねばならないことは、貞春にとっても苦痛であった。貞春は例によって、「なあに、子宮な′ て、奥行がたった七センチくらいしかない小さな臓器ですからね。そんなものあったってなノ せりふ たって、大したことじゃないですよ」と言いたいところだったが、その科白は、今日の患者 ( どちらにも通用しないので、黙っていることにしたのだった。 開腹してみると、地球に希望を見出せない患者の方は、フローズン・ベルヴィス ( 凍結 ゅちゃく 盤 ) と呼ばれるように、子宮や付属器が骨盤腔に癒着して、可動性を失っている状態だった ( で、貞春は念のため一部組織片をとって、バイオプシー ( 組織検査 ) に廻すことにした。 のうしゅ 二番目の、子供の欲しい方の患者には、いわゆる卵巣チョコレート嚢腫が見られた。骨盤
「双角子宮だったら、去年、三人くらい聞きました。僕はまだ当たりませんけど。それで彼女 は生むことにしちゃったんですか。よく旦那が納得しましたね」 「旦那はいないらしいんだ。子供は、つまり彼女一人の子供さ」 「なるほど」 「だから、今日は、そういう理由があるんで、君のじゃまにならない程度に顔出すことにさせ てもらうよ。向こうの気分もあるだろうしね」 「僕は先生にいてもらうと助かりますよ」 「君が診てくれてるんなら、ほっときゃいいんだけど、まあ、そうも行かないから、一応顔出 して来るよ」 「お願いします」 貞春はまず病棟の記録室兼宿直室に行った。すると外来の中屋敷が、今日はあの力もちの岩 そろ 波と当直らしくそこに顔を揃えていたので、貞春は、 「ちょっと新庄さんの様子見て来るから、一緒に来てくれないか」 と声をかけた。 「ど ) , つです・ ? ・」 新庄玖美子の病室に入ると、貞春は、つきそいの母親にとも玖美子にともなく尋ねた。 「どうもいろいろお世話さんになりまして : : : 」 しつかり者らしい母親は頭を下げた。 「さあ、もう少しで、奥さんにも孫が生まれるということだな」
「それで、子供が出るまでに何日くらいかかりましようか」 夫の直方は尋ねた。 「まあ、三日、と思っててくれませんか。経産婦でないから、子宮ロは開きにくいですし、傷 つけないようにやらないといけないですからね。三日目に、本当に陣痛をつけます」 「そういう処置は、当人にとってはかなり苦しいもんなんでしようか」 貞春は、鉛筆のお尻でカルテをトントンと叩いこ。 「これはね、一種のお産なんですよ。ですから、丸つきり痛みがないようじゃ、子供は出て来 ない。でも個人差はありますしね。できるだけ楽なようにするために、日数をかけるんですか 「それではどうぞよろしくお願い致します」 貞春はまず病室に行って、身の廻りの整理をし、服装も着がえてから、外来に下りて来るよ うに言って、夫婦を去らせた。 正直なところ、中期の中絶というのはあまりやりたくないものである。何と言っても、数分 で済む初期のものと比べれば、比較にならないくらい大変だし、もっとはっきり一一一一口えば、順調 なお産より、はるかに手数がかかる。 おぐらたかこ まことに皮肉なことなのだが、その日十一時少し過ぎに、ト倉孝子という患者が、早産の徴 候を訴えて入院して来た。妊娠二十九週目で、まだ八カ月に入ったばかりである。孝子は、三 しゅうとめ 浦市の米屋の嫁さんで、入院には姑がっきそって来た。 「先生、何とか保ちませんでしようか」
なついん 「門司さん、じゃあ、ます、同意書に、お二人で署名、捺印して下さい」 すべ 貞春はできるだけさりげなく、夫婦の前に書類をさし出した。それは中絶手術をする総ての 患者に書かせるもので、優生保護法、第一四条第一項第四号に該当するので、人工妊娠中絶を 行うことに同意する、という趣旨であった。 「あなた書いて下さい。私は子供を堕ろしたくなんかないんですから」 夫婦から眼をそらしていた貞春は、早希子の声に改めて眼を上げた。 「そんなことを言ったって、めいめいが書くようになってるんだから」 夫はおどおどしたように言った。 「僕はどちらでもいいんですけどね。そういうことについては、きちんと意見の調整をしてお いて下さいよ。処置を始めてから、あれは私の意志ではありませんでした、などと言われても、 困りますからね」 しかし、結局、夫が「配偶者」欄に先に署名捺印したので、早希子も後から渋々「本人」欄 に名前を書き、夫のさし出した認め印を押した。 「門司さん、あなたの場合、普通のお産と違いますからね。子宮ロは今が一番開きにく い時期 なんです。だから時間をかけてね、三日間くらいかけて徐々に開いて行かなきゃならない。そ れで、今日と明日はラミナリアというのを入れる処置をしますからね。それが自然に子宮口を 開くことになりますから」 普段、患者にはあまり説明をしてやらない貞春だったが、 暗い表情の門司早希子を前にする と、せめてそれくらいのことは言ってやらねば可哀相なような気持になった。
ないんですよ。ただ親の方の心理だけは、何例か見て来てますからね。ややわかるような気が 、と思 することはある。まあ、初めは病気でも何でもかわいい。生きていてくれさえすればいし う。そのうちに、或る日ふと、この子がいなければ楽になるのに、と思う。看病というのは、 体力と経済力を要しますからね。誰でも或る日疲れて来るんですよ。 もちろん中には、どんなにひどくても、この子が死んだ方がいいとか、死んでくれたらいい とか思ったことは一度もなかった、という人もいる。僕はそういう人たちが、お体裁屋で嘘を ついてるとは言わない。疑ってはいるけど、そう思える人もいるかも知れない。 しかし、たいていの人は違いますね。やがて親たちは奇形の子を憎むようになる。憐れと知 りつつ、愛さなくなる。なぜかと言えば、子供がいつの間にか自分たちの加害者になっている からですよ。人間は自分を犯す者は、たとえそれが親でも子でも憎むようになってますからね。 そうやって自分を守るんでしようかね。 ですからこの問題はこういうことじゃないですか。子供を加害者にしたくなかったら、親が 加害者になるほかはない。子供が加害者になるより、子供の存在の尊厳と魂のために、親が加 」、つ 害者になって子供を被害者にする方がいい。憎んで失うより、惜しんで殺した方がいい いう考え方が、しいか悪いかは別として確かに世の中にはあるんですな」 「実は、私、子供に名前をつけてしまったんです」 中西映子が言った。 「それはまた手廻しがよすぎましたな」 貞春はさらりと言った。
ると、まあ、あんな母親でもいてよかったのだと感謝すべきなのだろう。 うつ病の子供はどんな症状を見せるか。 かんしやく 「不安、逃避、癇癪、頭痛、吐気、病気でもないのに腹痛、けんか、学校の試験に失敗、 いうのが小児期うつ病で認められる症候である。両親に密着すること、或いは両親との戦」 ( 子供は親を失うことを恐れ、彼らの気に入りたいと願っている ) は、喪失感、絶望、頼り さを暗示していると思われる。時おり、うつ病児は、自分を認めてもらいたいとか、助けて一 しいとやっきになって、逃走や盗みを繰り返すことがある。 デブレッションが持続的で積年の病となっている場合、うつ病児はふつう、友人関係が貧 である」 それでと、いったい、どうしたらいいんだ、と貞春はひとりごちながら目を走らせた。 「小児期に、ごく稀であるが、自殺に成功できたり、または図ろうとすることがある。この 殺末遂は非常に重大であり、加療者は子供及び家族に率直に言明すべきである。《自分の人 に対する責任》が各人に強調されねばならない」 ここのところは、ちょっと翻訳調なので、はっきりわからないが、 これは「生んだ以上、 も親らしくしろ」ということであり、子供には「自殺すると、死ぬのはお前なんだそ」と申 1 渡すことかな、と貞春は思った。世の中には自明の理と思われていることで、意外と徹底し一 いない点がたくさんある。性行為はその瞬間から親になる可能性を持つものだということを 識していない若者もけっこういるし、親に対しておどしがきくと思っている甘え性の忍耐心 ない子供は、自殺を匂わせると親がおじ恐れて自分の要求をいれてくれるということは知っ
316 総てわかっていたことなのだ、と貞春はぶらぶらと歩きながら思った。 貞春はこうなることがわかりながら、古河安子と子供を帰したのである。帰るという以上、 というのは口実である。近藤医院へ行けといい、 国立病院や他の医者に行 拘束する力はない、 った時の申し送りを書いて渡したのも、逃げ道である。彼らがどこへも行く気がなかったこと は殆んど確実にわかっていたのだ。 貞春は、つい先刻、貞春によって名前を与えられた恵を抱いた。絞殺の跡もない。外傷もな かった。栄養状態は良くはないが、あのザクロのような裂けたロから、ともかくも乳を流しこ んでいたというのは本当だろう。一日生きれば生きるほど、親たちの生活を経済的に締め上げ ねが る子供を、親たちは生かそうとしながら、その死を希った。いや、生きていてもらってはどう にもならないと思いながら、あの子を見れば反射的にみなぎるように張って来た乳を、飲まさ ずにはいられなかったのだ。古河夫妻はあの子に、生きることと死ぬことと、両方を望んだ。 そこまでははっきり分析して考えていたかどうかは別として、彼らはそのように行動した。 そして貞春も同じであった。生きるようにし向けることが任務と思いつつ、子供が早目に急 を引き取ることを望むのが、愛だとしか思えなかった。もし恵が、貞春の子だったら、貞春は もっと努力して生かし続けたかも知れない。 しかしそれは自分には、金も設備もあるからであ る。そして医学が、このような子は、恐らく半年以上は生きないと体験的に裏づけているから こそ、自分は安んじて生かしたに過ぎない しかし、古河夫婦はそうではなかった。子供が一日長く生きれば、それだけ夫妻は子供にか かりきり、老人を生かすために金を払わなければいけなくなる。
「それで、どなたのどこがお悪いんですか」 貞春はついにたまりかねて、本筋に入ろうとした。 にどこも亜くないんです」 え、別 「こだ、主人がまた横浜勤務になって、この四月からこっちの実家へ帰って来たんですけど、 そうしたら、急に、先生に中絶してもらった子の夢ばかり見るようになったもんですから」 それは、こっちの守備範囲じゃないよ、と思ったが、貞春は一応相手に尋ねた。 「どんな夢をごらんになるんですか ? 」 「中絶した子が出て来るんです。男の子で、二つくらいの感じです。その子が、子供らしくな い眼でじっとこっちを見ながら、《どうして僕だけ》って一言うんです」 「その他には言わないんですか」 「何も言いません。いつもそれだけなんです」 貞春はじっと相手の顔を見つめた。泣いてもいない。動揺の色さえなかった。 「奥さんは、中絶したことに、罪の意識を持っていらっしやるんですか ? 」 しいえ、そんなこと、あんまり考えたことなかったんです。あの頃、主人の父が脳溢血で倒 れて、植物人間みたいになっていました。私が妊娠したらしい、と言うと、主人の母は、《今、 の 旺こんな時に子供を持つなんて》って機嫌悪かったんです。私もそんな中で子供生んで育てられ 百るとは思っていませんでしたし、姑から言われて、納得して堕ろしました。後でまた、事実、 子供持てましたし」
311 「私は誰 ? 」 で、貞春は子供が生きていると思おうとした。抱きかかえている母親の腕の中の子に、貞春は 聴診器を当てたが、心音は聞こえなかった。それから、貞春は懐中電灯をとり、こういう場合 の手順の一つとして、瞳孔の反応を見ようとしたが、 眼球がないのだから、それも不可能だっ た、と思い返した。 「今は呼吸はないようですね」 貞春は言った。 「うちを出た時は、まだ時々思い出したように息してたんですけど」 「でも今、心音は全く聞こえないよ。今、心臓マッサージをしてみますけどね」 もろ 貞春は寝かせた子供の胸を何回かきつく押した。もっともこういう子は骨も脆いことがある ろっこっ から、肋骨の折れそうなことはできなかった。 これは芝居なのだ。いや、或いは儀式なのだ、と貞春は思った。貞春自身、子供の蘇生を信 じていない。そして又、ここにいる総ての人々が、子供が生き返ることを祈っていないのかも 知れない。 よみがえ 心音はもちろん、甦っては来なかった。 「古河さん、あれから、小児科へちゃんと連れて行ったの ? 」 「それが、行こうとは思ってたんですけど、私もやつばりまだ、体がしつかりしなくて、お手 洗いで貧血起こして倒れたりしたし、もう少し経ってから、と思ってたんです」 「僕はご主人に早くお会いしたかったんですがね」 貞春は古河氏に言った。
は、どちらかと言えば優形の二枚目風の美男と、ジャクリーン・ケネディに似たがっちり型の 女房である。外国人の年齢というのはよくわからないが、恐らく夫の方もまだ、四十代の初め だろ , っと田つ。 「この方がそうなの ? 」 「そ , つ、ロウリー。こ亠入妻」 「僕、わからないから通訳してよ。初めまして、どうそよろしく」 貞春は、日本語で押し通すことにした。 客らが客間に通ってソフアに座った時、貞春は率直に言った。 「驚いたなあ。こんな若いのに、もう養子するの ? 子供好きなら自分で生めばいいのに、と 思うけどね」 一切の表情の変化も見せずに、徭子はそれをロウリー夫妻に伝えてしまった。すると、夫の エドモンド・ロウリーは笑いながら、それに何か答えた。 「何て言ってるの ? 」 「自分の子供も与えられたら持ちます、って。だけど、貰う子供たちは、それとは全然、別の 道意味だからって」 「なるほどね、じゃあ、僕の方の言いたいこと伝えてよ。子供は女の子で、親は山陰の旧家だ 向 と一一 = ロっているから、恐らく・後に にけど、両親共に高校生だった。生んだことを世間に隠したい、 タなって名のり出たりはしないと思う。それから、僕はにしくて、何も手伝えないから、養子に 1 関する手続きは全部そっちでやってもらいたい。そのために、実の親とタッチする方法に関し