な雑誌 : ・ そう言えば、しばらく前、わが家へお泊りになった、京都の大学の先生が、し きりに、その雑誌の話をしていらっしやるようでした。 「ほんとうに、映画の好きな人たちは、なんとしても続けてくれと言うけれど、 資金がなくて、これ以上、やってゆけない。君に、ゆずりたい、なんとか、東京 でやってくれ」 そう言っておられたことを、思い出しました。 どうしてもやりたい、あれこそ、ほんとの映画雑誌だ、僕の 「僕はやりたい、 一生の仕事にしたい、たのむ、たのむから、手伝ってくれ : : : 」 あなたは、もう、まるで夢中でした。 「雑誌を : : : あなたが : : : 」 「え ? やりたいってーーーなにを ? なにをやりたいの ? 」 : ほら、あんたも知っているだろうーーーあの、立派 「雑誌ーー『映画芸術』・ 『映画芸術』誕生
『貝のうた』を読んでくださった先生から、「ぜひ : : : 」というお招きがあり 以前から、花森先生のファンだったあなたのお許しで、暮しの手帖社へ行っ たのでした。そのときのインタビー記事「妻なれば : : : 」も、あなたは気にい っていたのでしたね。 : いかにもお忙しそうな先生に、おそるお 翌朝ーー暮しの手帖社へ電話して : そる、映画芸術社の危機をお話すると、 「とにかく、すぐ、二人で来るように・ そう言ってくださ「たときの、あなたの喜びよう : : : すぐ、飛んでゆきました よね。 事務所で、編集の人たちに囲まれていた先生は、 「まだ、ひるめしには早いから、すいているだろう」 涙 と、私たちを銀座のおすしゃの二階へ連れてい「てくださいました。先生のご女 ひいきの店です。
ていると、決して、うまくはゆかないもの : : : しまいには、別れることになった りします。私たちが、なんとか、つづいたのは、あなたの、映画芸術社の仕事を 中心にしたからかも知れません。 あなたは、「今度ーーー溝口先生の本を出すことにした」 はじめての、単行本を出版ーーというので、たいへんな張り切りようでした。 骨髄性白血病で亡くなられた映画監督ーー巨匠、溝ロ健二先生は、雑誌『映画芸 術』をずっと愛読してくださってーー私が、先生の映画に出演していたとき、お っしやったものでした。 「あれは、、、 も雑誌だよ。経営の方もいろいろ、たいへんだろうけれどね。む ずかしければ、年四回ーー季刊にしてでも、つづけてもらいたいね。旦那に、そ う言いなさい」 そしてーーその仕事が終ったとき、わが家と、映画芸術社に、それぞれ、先生 ご愛用の京都の番茶の大きな缶を、届けて下さったのですよね。演出家から、も 106
静かな部屋で、あなたは必死に、最近の『映画芸術』のことを訴えました。 お茶をのみながら、聞いていらっしやった先生は : : : あなたが、話し終って、 フッと溜息をつくのを見て、おっしゃいました。 「 : : : 仕方がないねーーやめなさい」 「え ? やめるって : : : 」 先生は、 あなたは、意味がわからなかったー・ーー私も : 「そうーーやめるよりしようがない。あきらめなさい、『映画芸術』を手ばな しなさい」 私たちは呆然としました : : : あの大切な『映画芸術』を手ばなすなんてーーーも のも言えなかった : 先生は、そんな私たちに、 、昨今のあの 「私は、以前、あんたの『映画芸術』を愛読していたんだが 雑誌 : : : あれは何ですか。ああなった訳が、今のあなたの話でよくわかった。こ 126
りました。 でき上がった映画は、まわりの期待どおりで、あなたも賞めていましたよね。 姉芸者をやった京都の俳優さんも上出来 : : : 私は、降りてよかった、とホッとし たものでした。 その翌年だったかしら : : : あなたのすすめで、めずらしく、撮影所の。ハ 1 に出席した私が : : : 脇役の、さんと片隅で雑談していたのです。ホラ、よく、 大学の先生など、やるさん : : : あなたもちょっと、ごひいきでしたね。彼が、 ちょうど、私たちの傍を通りかかった監督のさんに、 「先生、たまには僕もっかって下さいよ」 と、愛想よく、声をかけたんですけれど : : : 先生は、にべもなく、 「せつかくだけど、僕はインテリ俳優は嫌いなんだ、僕のすること、なすこと、 腹の中で笑っているとわかっているからね、気の小さい監督はオロオロしちゃう 女優の仕事と献立日記
機をとると、 いきなり、言ったものです。 「金が足りなくて困ってるんだ : : : すぐ、〇〇万円、届けてもらいたい」 カッとした私は、思わず、 「お金は、おくりません : : : 私にとって、大橋恭彦は一人で、 もいのです。二人 は要りません」 そのまま、ガチャンと切りました。気がついたら、まわりの人たちが呆気にと られて見ているので、恥ずかしかったけれど : : : でも、ほんとうです。私のあな つも、そう思っていました。 たは一人でいいのです その頃の撮影所では、巨匠の仕事が終ると、 いっしょにお食事をする習慣があ りました。でも私はーーー先生のときも先生のときも、お先に失礼して帰りま プロデ 1 サーが「そん したーーあなたと、夕飯を食べる約束でしたから : なことをすれば、先生たちは、二度と仕事をくれないだろう」と、心配してくれ ましたけれどーーでも、私は、それでも、 しいと思っていました。あなた一人がい かね 102
みようか ? 」 そう言い出したのはー・ーあなたでした。 「『暮しの手帖』を、あれだけの雑誌にするまでには、ずいぶん、いろんなこ とがあっただろうからね。あんたは、一度、逢ったのだから、電話してみてくれ 二カ月ほど前のことでした。 私が、花森先生におめにかかったのは、つい あの晩、 「貞女の涙」 : こんなとき、 しテ . も どうしたらいいかーー花森安治先生に相談して 124
それから一週間ほどして、花森先生のお呼び出しで、暮しの手帖社へ行ったあ なたはーー意気揚々と帰ってきました。 先生が、 「君と二人で、新しい映画雑誌をつくろうじゃないか。暮しの手帖社に応援さ せるから経済的なことは心配いらない。それなら、奥さんもきっと賛成するだろ と、おっしやったということ。あなたは、もうすっかり、その気になっていま 『テレビ注文帖』より 『テレビ注文帖』より
私が、なにやかや , ーー雑文を書くようになったのは、殿のすすめだった。 ちょっとしたことから、半生記『貝のうた』を出版したあと、暮しの手帖社の 花森安治先生のおすすめで『私の浅草』を書くはめになったがーーーあのときも、 そののちも、つづけて身のまわりのことを書くように、しきりにはげましてくれ たのは、殿だった。 花森先生は、 「ものを書く男は、たいてい、女房が筆をもつのをいやがるものだがーーーおた くの旦那は、やさしいのかね」 そ、つおっしやっこ。 たしかに、やさしかった。多分、六十歳になって、初めて筆をもった妻を、な そう思ったのだろう。 んとか、応援してやりたい なったが、殿は、それでも、家人がいし 、、つことだった。 逝ってしまったあなた
題名は「老いの道づれ」・ : ほんとに、永い旅の道づれでしたものね。 ロ絵には、編集の高林寛子さんのすすめで、二人が寄り添った写真ーー篠山紀 信先生が、ご好意で撮って下さったもの : : : を載せました。照れやのあなたが私 といっしょに写っているのはほんとに、これ一枚 : : : 私たちの大切な写真です。 篠山先生が、ロ絵にすることを央くお許し下さったのはほんとうにありがたいこ とでした。 本のカバーは、あなたのお骨を包んである風呂敷と同じ : : : あれは、あなたが、 でしよう ? とても気に入っていましたものね。 あなたの八十八歳のお祝いも、盛大にやるつもりだったのだから : : : ) じゃあ、そ、つしましよ、つね ( うん、 いいだろう。ご苦労さん。でき上がるのを楽しみにしているよ ) あとがき 19 ろ