サッチー中毒 世の中、明けても暮れてもサッチーサッチーだ。日本にもどえらい女が出て来たものだ、 でんだっき ひやく と今更のように感心する。今までも悪女といわれる女は高橋お伝や妲己のお百などいろい ろと出ているけれど、こういう「鉄仮面」ははじめてではないか。悪女は裁けるけれど、 鉄仮面は裁けない。 「ノストラダムスの空から降ってくる大王の代りに、怪女が現れたんじゃないでしよう ともっともらしく感想をいう人がいる。何かにつけて世相を論評せずにはすまないイン テリ女性を自負しているらしいことが、その薄い唇と口調に表れている人だ。 「あるイミに於いてサッチーは現代の象徴といえるかも」 と一人でいって一人で頷いている。 そうかと思うと、毎日のように電話をかけて来て、サッチーがどうしたそうよ、こうし たそうよ、と私に報告する友達がいる。私も人後に落ちずテレビは見ているから、いちい ち報告してもらわなくても知っているのだ。だから、「そうらしいわね」とか「うん、知 ってる」「そうだってね」などと返事をすることによって、いちいちいってくるな、うる さいよ、という気持を伝えようとするのだが、向うはそれを無視して ( 気がついていない のではなく、テレビの見聞をしゃべりたい一心からあえて無視しているのだ、と私はニラ んでいる ) 、 123
知ったのだ。五十二といえばそうか、と思うし、また四十二といわれればそうなのか、と も思う。まったく日やけして屈強な身体つきの漁師は、年格好の見当がっかない。 ところで缶ビール一本を飲み乾したノブは、 「そんならおっかちゃんが待ってるから帰るべ」 といった。 「おっかちゃん ? おっかちゃんてなにさ ? 」 レ」一訊ノ \ レ」、 「ケッコンしたんだもんな、おれ」 といった。 「えーツ、ケッコン ! 」 「そうだよー」 といってノブは帰って行った。アベさんに訊くとノブにはコイビトが出来、いろいろあ った末にコイビトと一緒になったのだという。 そのコイビトは四十八歳の人妻だった。しかも夫はノブが時々乗っていた遠洋漁業の船 の乗組員だった。遠洋に出ると実人りがいいので、彼ら夫婦は町に近いマンションに住ん でいた。漁業仲間の祝いごとや集会などで、ノブはその男のおっかちゃんとも顔見知りだ
「 : : : それでサッチーは少年野球のオーナーもしてるんよ」 「うん、知ってる」 「それでとにかく怒鳴るやら殴るやら」 「そうらしいわね」 「少年らのお弁当を検分するんだって。中身を見たり」 「お弁当見たら親がわかるというんでしよう」 と話を先取りするが諦めず、 「そしてね、監督やらコーチの分も作らせるんだって」 「そういう話だわね」 「それでいて自分は料理なんか何も出来ないんだって。うちにいる時のお昼ご飯はたいて てんや 「てんどんとか、店屋ものをとるんでしよう」 ついに彼女は、 「あなた、よく知ってるわねえ : : : 」 と諦めて電話を切った。やれやれ、これでもうかけてこないだろうと思っていると、夜 に人って態勢を立て直したのか、 「もしもしイ」 124
とかかってきた。 「わたしね、テレビ見てて発見したことがあるのよ」 「発見」といわれると、「知ってる」「そういう話ね」「そうだってね」は利かない。仕方 なく「なに ? 」という。 「サッチーのおでこ、コラーゲン人れてノ。ハしてるというでしよう ? それで注意してテ レビ見てたら、おでこに横皺が三本人ってるのと、皺はないけどボコボコしてるのと、そ れからスベスべと平らな時と、三種類あるのよ」 毒 うーん、それは知らなんだ。 中 「それで考えたんだけど、コラーゲンばっかりしてると、コラーゲンがあちこちで固まっ チ て、それでボコボコになるんじゃないかしら」 「うーん」 皮女はここぞと声をはり上げ、 口惜しいがそれは初耳だ。彳 「気がついてなかった ? 」 と得意げだ。 「それは気がついてなかったけど、しかし、あのコラーゲンのお医者さん、自分の顔にも コラーゲンした方がいいんじゃないかしらん」 ハと笑い、それが私なりの逆襲のつもりなのであった。 125
それが昔の教育だったんです。これが教育だ、と思ってやったわけじゃないけれども、 自然の教育というものだったんですね。 学校で鉄棒から落ちても、少々のケガだったら放っておきましたよ。子供の方もいちい ち親にいったりしない。 ところが、今はどうです。若いお母さんたちは、子供がケガをすると大さわぎをする。 だから先生も生徒の安全に気を配ることばかり考えてる。 ・、教師の責任だ、学校の責任だ、やれ告訴だ、謝 子供が鉄棒から落ちてケガをした : ち れという騒ぎになる。そして教師や学校の腰が引けて、ケガをしそうなことはやめようと 供 子いう消極策になっていく。 本 鉄棒から絶対に落下しない方法があるのを知ってます ? 鉄棒を使わなければいいんです ( 笑 ) 。これは冗談ですが、学校の先生は、だんだんそう考 えるようになってくる。少しでも危険なことはやらせないようにする。 でも、そんなことをしたら、かえって危険ですよ。子供は、落下し、ケガをして、初め て鉄棒の使い方がわかるのに、その機会を奪ってしまうんですからね。 こうして今のお母さん方は、一所懸命に子供から生きる力を奪っているんです。 167
は働き者なのである。始終漁に出ている。ノブの方はぶらぶらしていることが多いから、 時間的にはノブに利がある。 ある日、遠洋に出ていた旦那からおっかちゃんに電話がかかってきた。今、帰って来た、 船が着いたのがクシロだから、これからそっちへ向っても夜の八時になるだろう、という 電話である。おっかちゃんはすぐさまノブに電話した。 「すぐ来てくれ。八時には帰ってくるんだよ」 ノブはとるものもとりあえずおっかちゃんの待っマンションに走った。おっかちゃんは もう布団を敷いて待っている。ノブはそこへ飛び込んだ。 それからどれくらいの時間が経ったか私は知らない。 「そこへ人って来たんだな、旦那が」 アベさんはいった。旦那は二人の仲を怪しんで、策略を弄したのだ。 「とにかくテラスへ逃げろって女がいって、ノブは裸のまんまテラスへ隠れたけど、すぐ 見つかって、殴られたり蹴られたりしたんだ」 と、またしても話がおおざっぱである。 「それでノブはフリマラで逃げたんだ : : : 」 それでは殴られたり蹴られたりした後、フリマラで逃げ出すまでの状況がわからないじ ゃないか ! いったいおっかちゃんはその間どうしていたのか。
私は笑い話にしようとしたが、いつもはすぐにのってくる e 子なのに、この問題だけは 真剣なのである。 そのうち献体という方法があることに気がついた。献体の手つづきを取っておけば、遺 骸を引き取って冷凍庫に人れてくれる。それなら生き返る心配はないのだ。ところが e 子 はいった。 「それ、死んだらすぐ、人れてくれるやろか ? 」 「さあ ? すぐというわけにはいかんでしようが」 「ひとまず遺体安置室とかに置かれるんでしよう ? 」 物 情「まあ、そうやろね。なんぼなんでも、魚が釣れた、ホレ、急速冷凍というようなわけに はいかんわ」 「それ困る」 「困るというてもしようがないよ。ええやないの、どっちにしても数時間なんやから」 「けどその遺体安置室で生き返ったら困る。ドアに鍵がかかってたら、出るに出られんや ないの。おまけに隣のべッドに見も知らん屍体が目工剥いていたりしたら : : : 」 「殺人やないから目工剥いたりしてないから大丈夫」 「殺人やなくても目工剥いて死ぬ人いるかもしれんわ」 わろ 「中には笑うてるのもあったりして・ : ・ : 」
「まったくノブは変ってるんだ」 とアベさん。変ってるのはノブだけじゃない、と私は思う。 私が東京へ帰る前の日、アベスー。ハ ーへ行くとノブの家には「孫」が来てる、という話 だった。「孫」とはおっかちゃんの、嫁に行った娘の子供なのだという。日曜日なので娘 は夫と子供連れで遊びに来たのだ。 娘はノブが自分の父親のカタキであること、父親に蹴られたり殴られたりしてフリマラ で逃げたいきさつを知っているのだろうか ? おっかちゃんは娘にノブとの関係を何とい 福って説明したのだろう ? の説明してもしなくても、知っていても知っていなくても、ことがこうなったから、娘は 夫と子供を連れて遊びに来るのである。 ノブは孫の菓子を買いにアベスー。ハ ーへ来ていた。ついでにビールを飲み、 「とうさん、頼むよ」 といって帰って行った。 ノブの幸せはいつまでつづくか、わからない。「幸せーなんて、ノブもおっかちゃんも そんなこと、考えもしないのだろう。
太 いやはやいやはやという感じで私は世の流れを見ている。この頃の流れの目まぐるしく 島 浦急なことといったら、歎く間も怒る間もありやしない。 浦島太郎は竜宮城へ行って帰って来たら、 毎 「もといた家も村もなく 道に行きかう人々は 顔も知らない者ばかり」 という有様になっていた。私は竜宮城なんぞへ行っていない。もう一二十年もひとっ所に じっとしているのに、当今は日々、帰って来た浦島太郎の気分になっている。 思えば十年ばかり前になるだろうか。ファクシミリというものが登場して、編集者から、 「ファックスはありますか」と訊かれるようになったあたりから怪しくなってきた。ファ 毎日が浦島太郎
んな」といって立ち上り、 「ビール、まだ残ってるぞ。飲んで待っててくれ」 とテントを出ていった。 松は一人で裂きイカを食べてはビールを飲んでいたが、一ダースのビールがなくなった ので、焼酎に手をつけた。蚊取線香のついでに、もう七、八本ビールを持ってこいといえ ばよかったと思いながら、焼酎を飲んでいるうちに、何やら腹がシクシクしてきて下り模 様になってきた。草っ原で出してしまおうとしやがんだが、待ってましたとばかりに裸の かわや お尻を目がけて蚊が襲ってくる。これはたまらね、と思い自分の家の則へ向って走った。 腕時計なんてものは生れてから持ったことがないから確かな時間はわからないが、社長 が立ち去ってから二十分ほど経っている。我が家の木戸を開けると、そこは土間でそこか ら上った手前と奥に二間ある。暑いからどこもかしこも開け放していて、土間から奥の部 屋まで見通しである。だが電気は消えている。 電気は消えていても勝手知ったる我が家だ。土間を上り、厠へ行こうとしてふと気がっ いた。奥で人の気配がする。空気がざわざわと動いている。かみさんは一人で留守をして いる筈である。とりあえず松は手前の部屋の電気をつけた。 すると、その明りが届くか届かぬかのあたりに、重なりもつれ合っている影が浮き出た。 目を凝らした次の瞬間、もつれ合う影の動きはひたと止った。よく見るとそれは社長とか