ちょっと長いプロローグ / 私が老いについて考え始めたわけ ちょっと長いフロローク / 私が老いについて考え始めたわけ 子どもの頃から、早く大人になりたかった私は、三十三歳になる今まで、年をとることが 嫌だと思ったことは一度もありません。 学生のうちは、親に食べさせてもらいながら箱庭のような世界で生きているのが嫌で、と にかく早く自分で食べていかれるようになりたかった。そして、二十四歳で看護婦になっ て、親に頼らず一人暮らしを始めてからは、「まだ若いからね」の一言で全て許されること が嫌で、早く三十代になりたいと願ってきました。 とにかく早く前へ、前へと進んで、一過性でない、確かなものを手に入れたい それが私の、十代から二十代を通じて流れていた思いでした。 きどう そして、念願の三十代に入って肩の力も抜け、自分の生き方が軌道に乗っているなと実感
ら、あれこれ思い悩んで暗い気持ちになることもあるのではないでしようか。 しかし、実際に、亡くなっていくお年寄りを見ていると、確かにそれは誰しもが悩むこと いよいよの時になれば、どうにかなるものなん だし、ある程度の心づもりは必要だけれど、 だな、とも思うんです。 それはなぜかといえば、まず、長期間の寝たきりや痴呆といった、要介護の期間を経て亡 もちろん、 くなるお年寄りというのは、世の中で大騒ぎされているほどには、多くはない。 こうしたケースでの家族の苦労はただごとではありませんから、もちろんこれへの対策は最 優先の課題ではあるでしようが、だからといって、全ての人がっきっきりの介護を要する長 い期間を経て亡くなるということでは、決してありません。 多くの人は、年をとって病気がちになりながらも、そこそこ動き、そこそこ人の手を借り ながら、暮らしていくことができます。そして、いよいよ深刻な病気になったら、病院に入 り、そこで最期を迎える こうした例のほうが、割合としてははるかに高いのです。 たいたい、マスコミで話題になるお年寄りの姿というのは、異常に元気な人か、とてもば 224
うは言っても、日常的に使う化粧品と言えばシープリーズだけ、という私は、ただの無精も のかもしれませんが。それでも、めちや美しく生まれていたら、私だって : ( な 5 んて こともなかっただろうな、と、悟ったのは、三十になってから。無精ものは、しよせん無精 ものですよね。きっと ) 今でも、もうちょっと華奢になりたいとか、顔が小さくなりたいとか、そりゃあ望めばき りありませんが。そのことにエネルギーをかけるのは基本的に無駄だと思っているから、別 に努力はしません。 ( やつばり、無精もの ) だって、この顔だから、縮れつ毛だから、生まれた私の哲学だって、やつばりあるんです もん。美しいほうが、若い頃はもちろん得。きっと、年とってからも、得。でも、その差 は、年とるごとに小さくなることだけは、確か。あまり外見に手間ひまかけず、中身を磨 き、楽しく生きていけば、プスって意外に、コストパフォーマンスが高い生き方ができるん じゃないでしようか。 社会は、美人の味方。でも時の流れは、プスの味方。人間の、損得のバランスシートは、 こんなふうに釣り合うものなのかもしれません。 きやしゃ 180
第一部親の老いをめぐる 10 のケース・スタディ 親の老いは、子どもへの最後のプレゼント そんなふうに考える今日この頃、私と親たちの関係は、これまででいちばん円滑で、趣 深いものになっています。いろんな危うさを抱えた今であっても、やつばり今がいちばんい そんな気持ちに少しずつなってきました。強がりに聞こえますかフ でも、人間が生きていくには、強がりだって時には必要なんですよ、きっと。 " 嫁の立場〃を辛くする周囲の無理解 ニ十代後半から介護に明け暮れた友 先日、小学校時代の友人から電話がかかってきました。 彼女と最後に会ったのは、確か小学校の卒業式。小学校を出ると親の転勤のため、北の街 へと越していった彼女とは、それきり会うことはなかったのです。 お互い小学校時代の顔を思い浮かべながら、話している当の本人たちは三十路の女同士と おもむき
無理な延命は、高度医療の弊害として批判が大きいところですが、その裏にもやはり、 という肉親の思いは確かに存在します。 〃とにかく息さえしていてくれればいい 医療サイドからのごり押しはもちろん否定されなくてはなりませんが、全ての家族が〃も う寿命なのでけっこうです〃とあっさり諦める世の中も、気持ちが悪い。やつばり、未練が あったり、じたばたしたり、割り切れないがあっての人間なのではないでしようか。 その意味で私は、亡くなっていく人よりも生きていく人に目を向けなければ成立しない、 脳死での臓器移植というものに、大きな抵抗を感じます。多くの人は素朴なヒュ 1 マニズム からそれを肯定するのも分かるのですが。私から見ると、あれって、ものすごい効率主義に え見えるんです。 を 「無理な延命をするな」という一方で、「移植してでも生かせ」といわれる矛盾。その状況 老 の で、私たち医療者は日々悩みながら仕事をしています。 私 の そして、その悩みへの答えの出し方は、人それぞれ。 来 そこで私なりに出した答えが、外から人の命に価値づけしないことであり、生きているこ 部 とそのものを素朴に肯定することでした。 第 241
いからーとことに力を抜いて生きるわけでもない。 確かに、自分の短命を予期したかのように頑張って生きる人も中にはいますが、短命だか ら頑張るのか、頑張るから短命なのかは、難しいところ。こればかりは、それぞれの人がい しことでしょ一つ。 ちばん辛くないように、救われるように考えていけばい ) ようせつ 長生きがめでたがられると思えば、夭折の天才がたたえられるのはこの世の常ですが、お おかたの人の人生は、そのひろ—い中間のところにあるのだと思います。 短命な人も長生きな人も、死という人生の終わりは、生きてきたことのたまたまの結果。 やつばり人間は死ぬまでちゃんと生きていくようにしないとなあ、というのが、今の実感で す。 もっと言えば、私は最近、そんなふうに人が生きていくことの価値をあれこれ考えること 自体が、実は無意味なのではないかと思うようになっています。 なぜなら人間は生きている限り、誰かを幸せにしたかと思うと誰かに迷惑をかけたり、その 価値なんてまるで定まらない存在だから。さらに言えば何を幸福と思い何を迷惑と思うかも、 受け手によって変わるので、その評価自体も、たまたまの要素で大きく動いてしまいます。 240
第一部親の老いをめぐる 10 のケース・スタディ り、多少は選択肢が増えるでしようが : 限られた財源でより多くの人の老後をよくするためには、施設で少数の人を手厚く見るよ りも、在宅支援だ、という考え方が、最近では多く聞かれるようになってきています。福祉 の充実イコ 1 ル施設の充実、と簡単に考えられた時代は終わったと思った方がいいでしょ ーマンションという手もあるでしょ それでも、金に糸目をつけないというならば、シルバ しられなくなる所もある う。しかし、あれだって、本当に手がかかるようになった時には、ゝ ので要注意。介護が必要になったら、老人病院に移されたが、マンション自体の契約金は返 してもらえない、などというトラブルは、後を絶ちません。 もちろん中には良心的な経営をしているところもあるのでしようが、簡単に選ぶことがで きないことは、確か。意地悪なことを言うようですが、良心的な経営をすればするほど儲か らないのが医療・福祉の仕事。良心的な施設はその分、倒産の危険だって抱えているとも言 えるんです。 ) くらい。何より、これ その意味では、先行きずっと安心の施設はないと思ったほうがいし 101
「私自身が、北海道の田舎の生まれで、たまたま東京に出てきてた、ってだけだから。田舎 もん同士が都会で知り合って結婚して、いずれは田舎に帰るつもりだったのよ。だから、四 国に行くことは私にとってそれほどたいへんなことじゃないの。北海道よりも暖かくて過ご しやすいかな、なんて思うくらい。都会生まれの都会育ちの人がいきなり田舎に行くのと違 うんだから さぞかしたいへんな決断だっただろうと、ねぎらう私の気持ちを見すかすように、響子さ んは言いました。 確かに、私は両親もいわゆる田舎がない人なので、田舎で暮らすということの具体的なイ メージは全く湧きません。 さらに言えば、東京で生まれ育ってずっとそこで生活している私にとっては、東京から出 るなんて、想像もっかないこと。三十年以上だいたい同じ生活圏で暮らしているのですか ら、遠距離の転居それ自体が、未知の世界なのです。 しかし、地方出身で東京に出てきている人であれば、転居はすでに経験しているわけで す。また、東京での暮らしが合う人ばかりでもないはず。
ろばろな人かの両極端に分かれるんですよね。でも、九十歳でゲートボールができなくて も、水泳ができなくても、家の中を歩くのに支障がなければ、それなりの暮らしはできま す。 もちろん、どんなに少ない割合だったとしても、そちらのケースに入ってしまう人は必ず いますから、「こういう例が多数だから、大丈夫」とは、決して言えませんが。それでも、 痴呆、寝たきりで介護が長期戦になる例が決して多数派ではないのだと知ることは、今の状 況ではちょっといい情報ではないでしようか。 そして、このように年をとった時に起こりうることを具体的に考えた結果、私は、「誰の え という結論に至りました。 世話になるか」をベースに物事を考えても仕方がない、 を だってまず、年をとった時に、どの程度の世話をどの程度受けなきゃならないか、なんて 老 の まるで分からないこと。確かに、一人暮らしか、世話を引き受けてくれる家族がいるかで、 私 求められる元気度には多少差がつくでしようが、一時も目が離せないような状態になった時 それを引き受けられる家族なんて、そうそういませんよ。 部 だから、生活全てが全介助になったら、その時はその時。その期間は、長いかもしれませ 第 2 2 5
調べ、かつ一年に一度検診を受ければ、完璧と言えるでしよう。 子宮に関しては、自分では調べられないので、やはり検診に行かなければなりません。こ おっくう れが、億劫なのは私もよく分かるところですが、やはり命には換えられないと思って、受け ることをお勧めします。 男性も女性も、四十代はまだまだ元気で、医者いらずの人は本当に、全く病院とは無縁の 生活を送っています。それだけに、検診でも受けていないと、病気を見つけるチャンスは、 なかなかありません。 よく二病息災」といわれますが、確かに、一つくらい慢性病を持っている人のほうが、 え採血やレントゲンなどの一般検査も定期的に受けるため、病気が早く見つかりやすいもの。 を また、そうした具体的なこと以上に、病院に行くことが日常生活に組み込まれている結果、 の異状があれば早期に受診することも、「一病息災」がいわれるゆえんだと思います。 の 実際、病気知らずの人にとって、病院の敷居って、ものすごく高いものでしよう ? でも 来 それでみすみす大病に発展してしまうのは、とてもつまらないことだと思います。 部 特に四十を過ぎたら、何か心配があれば病院へ行く、という流れは自分の中で受け入れた 第 195