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検索対象: 老親の看かた、私の老い方
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1. 老親の看かた、私の老い方

第二部未来の私の老いを考える これま、ゝ 。しくら個人が頑張って努力しても、なかなか越えられないもので、実際私自身、 こうした女性を分断する格づけを否定しながらも、実際いちばん気楽に心を許せる友人の多 くは、子どものいない夫婦になってしまいます。 いろんな意味で、自分のことに精いつばいで、時間的にも精神的にも余裕がなく、似た立 場の人と群れるのが、せいぜい。よほどエネルギーがないと、三十代までの人間関係は、こ こで止まってしまう気がします。 かくして、私もこのような経過で、順調に昔からの友だちを減らしてきました。 救いは、今も仕事を通じての友人が増えていることですが、それでも、やはりエネルギー をそこにかける気持ちがないと、自然消滅は避けられません。仕事を通じて仲良くなり、し ばらく連絡を取っていたのに、疎遠になってしまったという旧友も、それこそたくさんいる んです。 そして最近、こうした人たちと旧交を温めるようになったきっかけは、実はパソコン通 信。私の人間関係のほとんどを占める文系バ 丿丿の友人の多くは、最近になってパソコン にはまり、とにかく電子メールを誰かに出したいと、年賀状やら名刺やらを、きっと引っぱ 18 ろ

2. 老親の看かた、私の老い方

んね」 響子さんの言葉に、私は返す言葉がありませんでした。 すでに専業主婦として家庭にいる女性でも、やはり新たに介護の担い手となるのは本当に たいへんなこと。さらに夫が転職をしていて仕事で手一杯ともなれば、孤立無援の状況にな ってしまいます。 はけん また、ヘルバーなどを頼もうとしても、現在のところ、専業主婦がいる家庭への派遣は消 ふんとう 極的な自治体がほとんど。個人的に頼むにはお金がかかるし、結局、主婦が一人で奮闘する ことになりがちです。 響子さんが、今後どのように子どもを育て、介護をするのか、考えると私も友人としてや や気が重くなります。 「でもまあ、そのあいだにも子どもは育っていくから。学校の勉強なんてどうでもいしカ ら、おじいちゃん、おばあちゃんの世話はしつかり学んで、大人になってもらおうかな。実 際うちの子たちね、よくやってくれるのよ。いちばん上の女の子は高校一年だから。おじい ちゃんのおむつ替えるのを、おばあちゃんとやったりするのよ」

3. 老親の看かた、私の老い方

こうした仮定は無意味と思いつつも、息子さん自身が介護をする時よりは、それを当たり 前のものとして受けた可能性が高い気がするのです。払う犠牲は同じで、かっ他人であるに もかかわらず、です。 その後ご両親は亡くなり、息子さんは一人で暮らしていると聞きます。 今では、彼もときどき病院の外来に顔を出し、 「親を見送ったと思ったら、自分も年とってたってことだねー などと、明るく話しかけてくれるのです。 相変わらず小太りで、ジ ーパンにスニーカ 1 の不思議ないでたちの彼も、もう還暦。 「これまで控えてた釣りに行ったり、飲んで歩いたり、仲間と楽しくやってるよ ! 」 との近況報告を聞くと、何やらほっとしますが、今度は頼れる肉親のいない彼の老後が、 気になるところ。遠方のお姉さんたちは当てにならないだろうし、彼に友人が多いことが、 せめてもの救いですね。 もちろん、ご両親の介護という問題がなかったら、彼が結婚していたかどうかはまた、別 さび の議論。一人で迎える老後が全て淋しく、人と一緒なら全て幸せというものではもちろん、 1 18

4. 老親の看かた、私の老い方

しい時間を作らずにここまできてしまったのかと、後毎しきり。でもそれにはそれでまあ、 理由もあったんです。 正直なところ、二十四歳で看護婦として働き始めてからは、仕事関係以外の友人とは、疎 えん 遠になるばかりでした。それぞれの場でエネルギッシュに働く友人たちは、ただでさえ連絡 がっきにくい上に、向こうは向こうで三交代で働いている私に気を使い、電話もしづらい様 子。こちらから連絡しない限りは、疎遠になると分かってはいても、ついつい日々の生活に かまけ、気づけば連絡を取り合う友人は仕事関係だけ、になっていったのです。 また、こうした物理的な問題に加えて、三十代というのは、お互いの社会的立場の違いに よっても、交友関係が大きく限定される気がします。 三十代の女性は、いろんな意味で人生の最終的な選択を迫られています。そして、その選 択の結果、女性の人生はいくとおりかに分かれます。その選択が、人間の価値に関わるもの と思わされれば思わされるほど、違う選択をする人に寛大になれないのはこの世の常。かく して私たちは、配偶者・子ども・仕事の有無によって、互いを格付けしあう、不毛な構造に はまっていくのです。 18 2

5. 老親の看かた、私の老い方

第二部未来の私の老いを考える 失ってきたものに目が向くのも、やはり三十代になってからの変化。二十代は、まだ自分が 振り返って懐かしむほどの蓄積はないし、自分の生き方が軌道に乗るまでは、毎日が無我夢 中。過去を懐かしむ余裕なんて、実際にはないと思います。 しかし、三十代になると、多少そこは、違ってきます。自分がこれまで生きてきた道を振 り返って、その時間を共有した人たちが今何をしてるんだろうと、興味が出る それは、ひょっとすると自分が後ろ向きになってるんじゃないかと不安にならないことも ないのですが、恥かきながらも、愛着の持てる過去があるということは、やつばり幸せなん だろうと思います。そして、やはり同じように久しぶりの連絡をくれる友人がいることを考 えると、これは決して、私だけに限ったことではなさそうです。 かくして、互いの立場の違いにナーバスになりながらも、私たちは、旧交を温め合いま す。 そして、同年代の友人が、老け込んでいくのを見て、「ああ、自分だけじゃないんだなあ、 なんて思うのもまた、おつなもの。 同窓会は、それを確認するために開かれるようなものかもしれません。 187

6. 老親の看かた、私の老い方

第二部未来の私の老いを考える しかし、その日常的に引きずっているものの質によって格付けされ、分断されがちな女性 同士にとっては、一面で大きな力になるのは事実。パソコン通信を通じてのネットワーク に、女性が積極的になる理由は、この辺にもあると思います。 思えば高校時代から看護婦になるまで、私にとってのコミュニケーションの道具はオ 1 ト ハイでした。それが働き始め、オ 1 トバイに乗る時間がなくなって、オートバイを中心につ ながっていた友人は、ほとんどがいなくなりました。 しかし、そうした友人が、今、突然電子メールをくれる。コミュニケーションの道具は、 一つじゃなくて、いくとおりにもあるんだということを、再確認しています。 人との関係をつなぐには、やはりどうやってコミュニケーションをとるかという方法、道 具も大切な要素です。これまでのやりかたに固執せず、いろいろ試してみると、また人間関 係か広がるでしよう。 三十を過ぎれば同窓会も悪くない ハソコン通信によって、昔の友だちからの連絡がポッポッ来るにつけても、私は人恋しさ 1 8 5

7. 老親の看かた、私の老い方

は、分かっておいたほうがいい と思うのです。 「娘同居に限るー と言っている親世代も、それに同調している子世代も。お互い大人としてどうあるべきか ということをきちんと考えるためには、一度は離れて暮らしてみたほうがいいんじゃないで , しょ一つか。 そして自分たちなりの生活パターンを作ってから、親と暮らすのでも、遅くはありませ ん。これは、「家賃が浮く」などというメリットとは引き替えにできないほどの、大切なこ とだと思います。 家事のできない親か残される不安 考えてみるとここ数年、学生時代に行き来した友人と、怖いくらい疎遠になっていまし

8. 老親の看かた、私の老い方

美しさの陰にひそむ未成熟 ? 時の流れと折り合う大切さ 人恋しさを大切に ハソコン通信で旧交を温める 三十を過ぎれば同窓会も悪くない 三十代から始まる大人同士の友人関係 心と身体の節目 気をつけたい、 私がすすめるヤマ張り健康法 年齢別の病気予防 元気でなくなっていくことに適応するのも大事 老いを考えた住宅計画 三十年ローンを組むタイムリミット あらゆる可能性を考慮したプラン 年代によって必要な住まいが変わる 178 17 ろ 181 18 5 204 206 188 198

9. 老親の看かた、私の老い方

第一部親の老いをめぐる 10 のケース・スタディ わけですよね。 その意味では、子どもの数が減り、誰もが親の老いの当事者にならなければならない状況 になったら、必要に迫られて変化が起こるかもしれない そんなところに期待をかけつつ。現時点では、兄弟姉妹がカになるには、そのあたりのわ きまえがあっての話、と言うしかありません。 孫の世話は老親の生き甲斐か 親には親の生き方がある 三十代に入って、子どもを持っ友人が増えました。その一方で、相変わらず独身の人や、 子どもを持たず— Z の生活を続ける人など、やはりそこはそれ、人さまざま。しか し、身体的な年齢制限のあることだけに、子どもを持つか持たないかは、年々シビアな問題 にはなってきています。

10. 老親の看かた、私の老い方

工ビローグ 最後に一言どうしてもお伝えしたいのは、人間はやつばり、老いたり病んだりしないと分 からないことが絶対ある、ということです。それぞれが弱いところをいたわりながら暮らし ている、親たちを見ていると、そのことがしみじみ分かります。 人間の想像力にはやはり限界があります。実際自分が気弱にならないと分からないことっ て、確かにある。老いたり病んだりがなければ、きっと人間の中には、優しさなんて生まれ ようもないでしよう。 この本は、そこに至るまでの右往左往した私自身の心の記録でもあります。この本が、こ れからの多様な困難を迎える同世代以下の人たちにとって、何かの参考になれば、こんなに 嬉しいことはありません。 最後になりましたが、この本を出すにあたってお世話になりました編集者の横山三代子さ ん、そして多くの体験をお聞かせ下さいました友人の皆さんに深く感謝いたします。 一九九八年二月 245