内海がこの席にいないのも、当舎には不思議であった。 「桜川社長の件は、土肥さんに伝えてくれたろうね」 「はあ、土肥社長も、それで納得したようです」 「もっと早く、当然、社長か副社長が顔を出すべきだが、なるべく今度のことは内密にしたい んだ、新聞なんかに、うちが大日化学の株を持ったなどと書かれては困るからね」 「その点は、土肥さんも同じだと思います」 築川は当舎に、大日化学の買値は、ここ二週間の大引値の平均ではどうだろうか、といった。 これは常識的な条件であった。 ここ二週間の大日化学の終り値は、八十七円から八十九円である。 八十八円位に落着くのではないか。 受け渡し日の大引値などにすると、大日化学の方では株価を釣り上げるし、西東貿易の方では り叩くことも考えられる。 「それで良いと思います」 咆「代金は即日払いにする、キャッシ、でも良いし、銀行払込みでも良い、明日はそういう点を 園聞いておいて欲しい」 花 キャッシ、払いとは、流石に西東貿易だ。二百万株だから一億八千万円弱になる。 一体、西東貿易は幾らのキャッシ、を持っているのだろう。 親会社のことながら、当舎は感嘆した。 売
社長の屈辱 土肥啓太郎と当舎が会ってから三日ほどして、突然大日化学の株が今迄にない値上りを示した。、 百五円から百十二円までなったのだ。引けは百十円であった。その日の出来高は、大日化学だ けで四百三十万株とはずんでいる。一挙に七円も上ったのは初めてであった。百円前後で、進藤・ 証券は百万株ほど売っている。その時の売りは轟のものに違いなかった。そして、今度の値上り では百万株ほど売ったようだった。おそらく轟は持株の半分近くを売ったのではないか。末村が 探り出したところによると、轟の持株は五百万株と推定される。正式に轟名義になっているもの は、百万株で、後はチェーンの名義、その他、轟が経営している観光会社や取引先の名義で ある。観光会社といっても、デラックスな温泉マークのホテルや喫茶店だ。 当舎はじっと土肥啓太郎から連絡があるのを待っていた。土肥啓太郎も漸くおかしいと思い始 めている。それも、百五円の時だ。 咆それから史に当舎の予言通り、百二十円にもなった。翌日は、政局不安で諸株は一斉に下がっ へ たが、大日化学は二円下がっただけであった。大量の買が入ったのだろう。商内も前日に続き三 花百万株前後と良く出来ている。 その翌日は、百十円台に戻してしまった。この日の出来高は二百万株前後である。 商内が少なくなって行くのは、売りものが、少なくなっているからだ。おそらく数日後には百
しても、土肥啓太郎に、大日の株を集めていると思わせるんだな、土肥啓太郎は、うちの話に乗 ってくるよ」 築川は初めて冷たい笑みを浮べた。 自分が掛けた罠に獲物が掛かって来たのを知ったような薄笑いであった。 当舎はこの時、はっとした。 西東貿易が大日化学に二百万株持ちたいと申し入れたのは、一つの罠なのではないか。 獲物を釣る餌ではないか。 これは当舎の考え過ぎだろうか。 「今日は無理だが、明日の夜、会おう、ホテルに来てくれ給え、七時頃が良いね」 「分りました」 当舎は昨夜の疲れが飛んだような気がした。築川と会うと、冷たい刃物と向き合っているよう な気がする。 その夜は、社が終ると直ぐ家に戻った。 部屋に入って、当舎は愕然とした。 妻との対話 当舎は家に戻ると奥の八畳で服を脱ぐ。理恵がいると、脱いだ服を洋服簟笥になおす。それか
だ、というんですよ、意志のはっきりした娘でして」 そんな話をしていると夙川の駅についた。当舎はなんとなく久美江を梅田まで送ることにした。 大阪行の電車は空いていた。二人は並んで腰を掛けた。久美江と梅田で別れた時当舎は、今日は 今までと違って心のやすらぎがあった日だ、というような気がした。当舎はシュークリームを買 って家に戻った。 火曜日、当舎は銀行大阪本店の、法人担当重役大崎の紹介状を持って、本町にある大日化 学の本社を訪れた。前もって電話をしてあったので、土肥啓太郎とは会う約東がしてあった。三 時から三時二十分まで、当舎に時間を割いてくれることになっていた。 大日化学は本町にビルを持っていた。 一階から三階まで大日化学が使っており、その上は貸ビ ルになっている。 土肥啓太郎は、リ 至底六十九歳に見えない。どうみても六十歳前後である。全然知らない人なら 五十半ばに見るかもしれない。色が黒く小柄で限が鋭かった。大会社の社長ではこの年になって けんかい 眼が鋭いというのは、一種の狷介さを現わしていた。同時に精神年齢が若いからでもあろう。財 咆界の巨頭になるような人物ではない。自分の範囲で勝手に暴れ廻っている野武士の頭領といった へところだ。 花土肥啓太郎は当舎に口を開かせなかった。 , 。 彼よ日本の経済に対する政府のやり方を非難した。 もっと助成策をこうじなければならない、という。東南アジアあたりで、遠い英国やドイツあた りに国際入札を取られるのは、政府の眼が近視眼的だから、という。
ー・ミコで、末村と会った。こういう、、ハーで会うのは危険だが、ここには、 その夜当舎は、、、、 東運商事の連中は来ない。 ミコは、当舎に何か変ったことがあるの、と尋ねた。観察力の鋭い女である。 「どうしてだい」 「活々しているけど、落着きがないわ、そんな感じって初めてよ、恋愛でもしたんじゃない」 「俺に少し変ったところがあると、直ぐ恋愛だね、女っていうやつは、そういうことしか考え ないものかなあ」 末村は別なところに行こうという。 二人は、三十分ばかりいて、ミコを出た。当舎は、今日、土肥啓太郎と会った模様を告げた。 あの様子では、明日は大丈夫、君に会うといってくるよ、と告げた。 「早よう、頼みますよ、実は木口から電話が掛かって来よって、百万円は、確かに受け取って いるだろう、と念を押して来よった」 木ロは、証券の新聞など出している情報屋でもあり、総会屋でもあった。築川は木口を利用し 咆ている。木ロは、自分の証券の新聞で、大日化学の値上りについて、業績の向上に伴い、来期の 園増配が考えられる、というようなお茶を濁した記事を書いている。 花 つまり、大日化学の株は買占めではなく、業績好転を買っているのだ、と大衆の眼をごまかそ 3 うとしているのである。 「木口がそういう電話を掛けて来たということは、吾々の動きを敵が感付いているということ
北南商事が買っているという」 これには、轟も一寸驚いたようであった。 「ええ、北南が、しかし、北南商事がそんなことしよるやろか、土肥さんは、自分とこの株が 内緒で他の会社に買われるのは、大嫌いな性分でっせ、北南だって、それは知ってる筈やし、折 角、取引している土肥さんの機嫌を損じたくはないと思うがな」 「僕もこのニ、ースは当てにならないと思いますがね、ただ一寸聞き込んだので」 「ほう、誰から ? 」 轟が眼を光らせた。まさか木ロの名は出すわけにはゆかない。 「うちが利用している三流どころの情報屋ですがね、当てにはなりませんが」 当舎は腕時計を見て、一寸寄っただけなので、といってチェーンを出た。 おそらく轟は、当舎が伝えたことを、直ぐ土肥啓太郎に伝えるに違いない そして間もなく、木口が噂を拡める。 その時に土肥啓太郎がどう出るか、当舎には見物であった。 咆株式市場は低迷しているので、少しくらい買っても株価はなかなか上らない。少しでも上れば へ 換金しておこうという売りものが待ちかまえているのだ。大日化学の株は、連日、一「三十万の 園 花 出来高だが、一度九十円をつけただけで、八十七、八円で揉んでいる。 これで市場景気の良い時なら、百円台に乗せているだろう。当舎は先日の礼をいうべく大日化 学を訪れた。金曜日であった。 みもの
108 とこ、ほしこ。 「岡野さん、ところで大日化学の株は、棚上げされていますか」 「大日化学ですか、いや、大日化学の株はない筈です、割合浮動株が少ないですからね、大日 化学さんなら欲しい、といわれる会社さんもあるんですがね、妙なものですね、欲しいといわれ る会社の株はないし、余っている会社の株は、どなたも欲しがらない、やり難いですよ」 「大日化学の株を欲しがっておられるのは、矢張り商社でしよう」 「ええ、良く御存知ですね」 岡野は商売人だけあって、喋りそうで、かんじんなところになると、なかなか口が固かった。 だが当舎が岡野を訪れたのは無駄ではなかった。チェーンの轟が、時々大日化学の株に手を 出していることを聞き出したのであった。勿論轟は、第五証券のような大きな証券会社では余り 売買をしない。 岡野の話では、大日化学の株が下る時は、業績が悪くなることにもよるが、何処からともなく 浮動株が出るのだ、と告げた。ところが一年位の間に、その浮動株が少なくなり、上昇し始める という。大体一二年位の周期で、上ったり、下ったりする、ということであった。 当舎は礼を述べて岡野と別れた。ひょっとすると、轟と土肥啓太郎は組んでいるかもしれなか った。大日化学の持株会社には、轟も関係しているのではないか。 どうもそういう気がする。 当舎が土肥啓太郎に、お互の株を二百万株ほど持ちたい、と切り出したのは、三日後、会った
「分った、話そう、西東貿易としてはモータースに協力することによって、国での販売 網を拡張する、これは西東貿易が現在置かれている立場上、どうしても必要なことだ、これでせ り合っている北南を一挙に引き離す、それと同時に大日化学のゴムの輸入はうちで扱う、つまり 大日化学をうちの系列化にいれる、それ以外に、うちは小山田が三年前に国から払い下げを受け た那須近辺の土地、約十万坪を時価の半額で手に入れる内約も出来ている、小山田としても国有 地払下げ問題がやかましいので、早いめにうちに売っておきたいところなんだ、うちとしても絶 好の買物だ、だから小山田に協力した、いや、大日化学に眼をつけた理由はもう一つある、それ は大日化学が東田石油の大株主であることだ、大日化学を系列化に入れ、石汕業界にも橋頭堡を つくりたい、そういう意味で大日化学はうちに取っては宝石を生む卵だった」 当舎は軽い吐息を洩らした。 大日化学が東田石油の大株主であることは知っていたが、額面も五十円台だし赤字会社なので、 西東貿易がそこまで触手を伸そうとしているとは思ってもいなかった。これは、土肥啓太郎だっ て気付いていないだろう。 「それじゃ、うちは、モータースと小山田の買に協力しただけでなく、実際に株を集めて いたんですね、そうでなければ、幾ら小山田と親しいといっても、株をうちの名義にするのはお かしい、と思っていた、それでモータースと小山田の買の目的は ? 」 「私はタイヤ会社をつくるということしか聞いていない、しかし、あの土地の傍を、万国博ま でに高速道路が通る、モータースが小山田と協力して、車をつくり始めないとは限らない、
なんです、他の筋が動いていますよ」 当舎が八光証券の名を出すと、築川は冴えた眼を当舎に向けた。 「北南商事じゃないか」 「えつ、北南が」 「うん、北南商事は大日化学と取引があった、ところが、例の土肥の性格から、株の持ち合い はやっていない、ところがうちが、大日化学の株を持ちたい、と中し入れた、土肥啓太郎はそれ を北南に伝える、これは商売上、良い口実になるからね、そのうち、東運商事と大日化学が取引 を始めた、君の功績だが」 「そんなことないです」 「これは北南としては、感じが良くない、おそらく、うちが大日化学に執心するのは、なにか 意図があるのだろう、と勘ぐる、そこで、大日化学への発一言権を強めるために、土肥啓太郎には 黙って、大日の株を買い集める」 当舎は築川の切れ味を見た思いだった。当然考えられることなのだ。 咆築川は大股に歩くとソフアに坐り、 へ 「もし北南が集めているとすると、これはうちに取っては有利だよ、土肥啓太郎はああいう性 格だから、北南商事に敵対心を抱くだろうし、チャンスだ」 「そうですね」 「兎に角、八光証券の買い筋を徹底的に洗ってくれ給え、かりに、買い筋が北南でなかったと
292 暫く応接間に待たされたが、秘書が呼びに来て社長室に通された。 挨拶の後、大日化学の株のことになった。 「轟さん、だいぶ買っておられるようですね」 「目標は百円ですか」 「そういうところじやろうな」 だが今日の土肥啓太郎は、何時ものように喋りまくらない。なにか不機嫌であった。 土肥啓太郎のテーブルの上には沢山の新聞が積みあげられている。その殆んどは業界紙であっ 当舎がわざと北南商事の件には触れずに、 「失礼しました」 帰ろうとすると、土肥啓太郎の方から、当舎を呼び停めた。 「北南が、うちの株を買っとる、というニュースじゃが、当舎さんはどう思うかね」 土肥啓太郎の眼が光った。腹の底を見抜くような鋭い眼光だった。こういう会社の社長で、こ んな眼を持った男はいない 「つまらん噂でしよう」 「火のないところに煙は立たんというがね、噂にはなにかの意味がありますぞ、わしはこう考 えるんじゃがね」