402 隠れた顔 みぞれ 冷い霙交りの雨が降っていた。だがビルの中は暖房で暖い。窓から眺めると北大阪が煙ってい るようであった。外から帰って来た社員達が、大きな霙が降った、と肩をすくませてもの珍らし そうに話した。末村と会ってから半月たつ。末村は東京にまで行き、白高兼太郎の正体を掴もう と必死のようであった。 珍らしく末村は、自費で調査している。築川から百万円受け取っているのだから、当分調査費 には困る筈はないが、今までの末村と違い、執念じみた情熱が感じられる。 長行みずみは、大阪に来たらしいが、当舎には声を掛けずに帰京したようであった。 三月の渡米を眼の前に控えて、いそがしいのだろう。 当舎も思い切って貯金をおろし、大日化学の株を三万株も買ってしまった。果して何処まで上 るだろうか。買ってから半月たったが、株価は九十七、八円で動かない。八光の買は止んでしま った。もし株集めをねらっているなら、実に巧妙なやり方だ。世間の注目を外らし、長い時期を かけて集める積りなのか。 それとも、株集めなどということが、思い過ぎなのか。 半月の間に商社に関係のある事件が、次々と起った。オランダのアムステルダムで、商社の駐 在員が溺死体となって発見された。
だ、というんですよ、意志のはっきりした娘でして」 そんな話をしていると夙川の駅についた。当舎はなんとなく久美江を梅田まで送ることにした。 大阪行の電車は空いていた。二人は並んで腰を掛けた。久美江と梅田で別れた時当舎は、今日は 今までと違って心のやすらぎがあった日だ、というような気がした。当舎はシュークリームを買 って家に戻った。 火曜日、当舎は銀行大阪本店の、法人担当重役大崎の紹介状を持って、本町にある大日化 学の本社を訪れた。前もって電話をしてあったので、土肥啓太郎とは会う約東がしてあった。三 時から三時二十分まで、当舎に時間を割いてくれることになっていた。 大日化学は本町にビルを持っていた。 一階から三階まで大日化学が使っており、その上は貸ビ ルになっている。 土肥啓太郎は、リ 至底六十九歳に見えない。どうみても六十歳前後である。全然知らない人なら 五十半ばに見るかもしれない。色が黒く小柄で限が鋭かった。大会社の社長ではこの年になって けんかい 眼が鋭いというのは、一種の狷介さを現わしていた。同時に精神年齢が若いからでもあろう。財 咆界の巨頭になるような人物ではない。自分の範囲で勝手に暴れ廻っている野武士の頭領といった へところだ。 花土肥啓太郎は当舎に口を開かせなかった。 , 。 彼よ日本の経済に対する政府のやり方を非難した。 もっと助成策をこうじなければならない、という。東南アジアあたりで、遠い英国やドイツあた りに国際入札を取られるのは、政府の眼が近視眼的だから、という。
「余り大任ですので」 レ J 立ョロはいっこ。 「なんだ、そんなことで気遅れしていたのか、無理もない、東運商事で何年もくすぶっていた んだからな、しかし君は出米るよ、往年の意気を取り戻し給え、君には怖いものがなかったじゃ 、い力」 「分りました、で築川部長は何時まで大阪におられますかー 「明後日までいる」 「それまでに、御返事いたして良いでしようか」 「いやに慎重になったんだね」 築川は眼を細めて、当舎のゆるんだネクタイに眼をやった。この男も駄目になったのだろうか。 一瞬そんな疑いが築川の細い眼に走ったようであった。 「まあいい、それじゃ明後日までに」 と築川はいっこ。 咆料亭葉桜の席に当舎も列席した。 へその席で、当舎は幹部達の自分を見る眼が何時もと違うのを敏感に悟った。 花築川と当舎の間に、なにか秘密の談合があったのを彼等は感じていた。 板倉専務は、築川をもう常務と呼んだ。他の幹部連中もそれにならった。 「近々、人事異動があるようですね」
556 売会社も経営しているのである。 轟が持っていたクラブ・ダートのビルを買いたいから、助力してくれるように当舎に頼んで来 たのは、三東産業の田沢であった。 当舎が轟と親しいところから、田沢が声を掛けていたのだが、轟がクラブ・ダートのビルを売 る可能性を知っていた、というところに、今になってみると矢張り間題があるようであった。 ひょっとすると、あの当時よりずっと前から、轟は西東貿易とのつながりがあったのかもしれ うぬぼ 当舎は自分のカで、轟と西東貿易との間の話をまとめたように思っていたが、それは自惚れも 良いところであったのではないか 当舎の知らないところで、大きな組織が大きな力を動かしている。考えてみれば、西東貿易の 子会社の部長あたりが、社の秘密を教えないからといって憤慨したのは滑稽なことかもしれない。 築川に裏切られ、道具のように扱われた、と怒ったのも、子供つぼい正義感かもしれない。 み陽に染まって行く、北大阪の巨大なビルを眺めているうちに、当舎は観客のいない舞台で、 観客があるように錯覚して空しい芝居を演じたビエロのような気もする。 今頃、こんなことで、部長という地位を棒にふる男がいるだろうか。 当舎はミコに行った。。、 ーテンと若いホステスが一人来ていただけで、ミコの姿はなかった。 「まあ、こんなに早く」 ( 「に止ルこ
を説得して欲しい」 グラスを持っ当舎の手が慄えた。これほど卑劣なやり方があるだろうか。 やくざの脅迫と何等変りはない。 「あなたは、恥しくないのですか、それでも、大会社の重役ですか」 築川はウイスキーを一息にあおるとカウンターに置いた。指で唇をぬぐった。 「君に何んと思われても良い、兎に角、明日の夕方、いや、時刻を切ろう、六時にしよう、田 沢君も、可愛い義弟の身のことを思ったら、僕のいうことを聞いてくれるだろう」 「つまり、明日の六時までに説得出来なかったら、僕を末村の共犯として恐喝罪で訴えるとい うわけですね」 「そういうところだよ、田沢君は、今日大阪に帰って来ている筈だ、じゃ、明日ここで落ちあ おう」 築川は喋るだけ喋ると伝票にサインして、出て行った。 怒りの後に不安がやって来た。当舎は独立したばかりだった。もし、西東貿易が、末村と当舎 咆を恐喝罪で告訴したなら、記事にもなるだろう。 へ結局、軌道に乗り出した当舎の会社の信用は、これで一挙に傷がつく。 こういう貿易業界は信用が第一であ 花場合によっては、再起不能の打撃を受けるかも分らない。 ぶこく った。たとえ、裁判で身の潔白が証明されても、築川を誣告罪で訴えても、当舎の事業が潰れた 後では、何んにもならない
430 かな女の色香と。 エネルギーに溢れたような長行みすみとは対照的であった。 「今夜は、神戸にでも行きませんか」 「神戸は、素敵ですわね、神戸の街って」 当舎が神戸を思いついたのも、田沢が神戸という場所を洩らしたためであった。 当舎と久美江は、阪神電車の特急で三宮に着いた。大阪から三十分ばかりで行ける。 神戸の街は大阪と違って道路が広い。山が海に近い細長い街で、住宅が山の手に這い上ってい るために、その夜景は美しかった。 当舎は一度行ったことのあるクラブに久美江を案内した。 クラブは山の手にある。ナイトクラブとレストランの両方があって、レストランは神戸の街 に面しており、港の灯まで一望のもとに見渡すことが出来る。そのムードの素晴らしさは、レス トランとしては最高であった。 付近には、洋館風の古い邸宅が多い。華商なども、この辺りに住んでいるのだ。 客は外人が大半であった。 大阪からリ、ザープしておいたので、席は取れていた。 当舎と久美江は、夜景が眺められるガラス戸の傍の席に案内された。席に坐り、ふと周囲を見 渡した時、当舎は頬の盛り上った中年男と食事している田沢を見付けたのだ。 二人は話に夢中になっていて、当舎が来たのに気付いていなかった。
422 この小山Ⅲには、大きな金融業者カ / 。、くックにいるといわれている。 その辺りに、なにか関係あるのではないか。 伊丹飛行場のロビーに入った時、誰かが、自分から視線をそむけたような気がした。 当舎は何気ない顔で行き過ぎてから、その方を窺った。ロビーのソフアに多勢の客が坐ってい る、これから飛行機に乗る者もおれば出迎え客もいるだろう。視線をそむけたのは、その中の誰 かのような気がした。 当舎はロビーの後ろの通路を通ると売店に行った。週刊誌と煙草を買った。 戻りながら、椅子に坐っている客達を眺めた当舎は、顔を伏せるようにして坐っている女に気 付いた。 今さっきふと想像した宗近正子であった。イ 禺然というよりも、当舎は自分の六感が働いたよう な気がした。 宗近正子は和服姿であった。 これから、東京に行くのだろうか。それとも誰かを迎えに来ているのだろうか。 しかし、今日はウィークデ 1 だから 、、、、ーはやっている筈であった。 客ならなにも、ここまで迎えに来る筈はない。伊丹空港からタクシーで大阪に向った。 大阪と伊丹空港をつなぐ高速道路の建設が行なわれていた。万国博までには、大阪の道路も、 東京のようになるかもしれない 西東貿易も、万国博におおいに意欲を燃やしていた。
女子社員が紅茶を運んで来た。 「静かですね、ここは」 当舎は煙草を吸いながら出された紅茶を飲んだ。耳を澄ましても、もの音一つ聞えないのだ。 余りにも静か過ぎる。 「当舎君、人間はね、矢張り大きな仕事を持たなければ嘘だね、家でお茶などたてていたら、 早く年を取ってしまうよ、私もこの頃、少し考え方を変えてね、おおいに仕事をやろうと決心し たんだ、不思議だね、そうすると若い血が身体にみなぎって来たよ、何年振りかで、女も欲しく なったよ」 「確かにそうですね」 「君はどうかね、この頃はまた盛んかね」 「いや、その方は余り : : : 」 「君には、再婚ということも考えられるからね」 田沢は意味あり気に笑った。 咆矢張り久美江との結婚を望んでいるらしい。一時間ほどいて、当舎は三東産業を出た。 へ土肥啓太郎と会う前日、築川が大阪にやって来た。築川は西東貿易から当舎に電話を掛けて来 花た。何時ものようにホテルに泊るから、六時に来るように、ということであった。 大阪に来ると築川は必ずホテルに泊る、築川の妻子は東京にいる。 だから築川は大阪に来た時、適当に女と遊んでも良さそうだが、築川のそういう噂は耳にした
仕事熱心な男で、営業第一部長の現職にいるのも、築川が希望したためだという。 営業担当の常務になってもおかしくない男である。まだ四十九歳であった。 西東貿易にしろ、東運商事にしろ、東京に支社があるが、その支社は大阪本社と同格で、場合 によっては重要でさえあった。 というのは諸外国との取引の場合、その代表部は東京にあり、それ等の折衝は東京でなさねば ならない。そのため、東京には切れる連中が集っている。見方によれば、東京が本社だといえな いこともなかった。 ことに東連商事のように、共産圏貿易を主体に発足した会社は、重要な折衝は、東京・モスク ワで行なわれる。大阪の仕事といえば、東京の指令にもとづき、メ 1 カーと交渉することだった。 たとえば船の注文がある。この注文を東連商事が取ろうとする場合、注文に適した造船会社と 交渉し、造船会社の建造承諾を得てから、注文先に計画書を出すわけだった。 ただ、造船や鉄関係メーカーは関西に多い。ことに一流会社が関西に本社を持っている。だか らそれ等との交渉は、東運商事の大阪本社がするわけだった。 咆親会社である西東貿易の営業第一部長が、東連商事に来るなどということはめったにない。社 への幹部連中は、朝からなんとなく落着きがないようであった 9 花当舎は、部長の戸村から、伊丹まで迎えに行くようにいわれたのだが、何故自分が指名された のか、一寸不思議であった。 接待役は渉外部次長の仕事だから、これも接待の一つだろうと思うと納得が行くが、気は重か
514 免職をいい渡しに来たようであった。 蒼ざめた当舎の顔を、築川は冷たく見た。 「どうだ、西東貿易で働く気はないかね」 「ありません」 「それじや仕方がないね、僕はいそがしい、職もない人間と話をしている暇はないからね」 食事の途中だが築川は立っと、足早やに去って行った。 負けた、と当舎は思った。 あの記事がばらまかれても、西東貿易が平気だとすると、西東貿易はすでに、予定株数を集め たのかもしれない それとも西東貿易は、株集めに直接の関係はないのか。 当舎は末村に電話する気力もなかった。 彼は夕方の飛行機で大阪に戻った。大阪の上空に達した時はすでに夜であった。 ロビーでタ刊を買った。大日化学の株価は百二十五円に急騰していた。当舎は末村に電話した : 、彼は自宅にも悦子のところにもいなかった。いや、悦子も電話に出なかったのだ。当舎の胸 に不安と疑惑が湧いた。 当舎は悦子のアパ ートに行ってみた。鍵が掛かっていて留守である。一時間ばかりアパ 前で待ったがこない。