158 の口から出てくると素直に承服しがたくなる。 「あたしはあなたを咎めに来たんじゃないのよ。麻見は何も知らないの。あの娘にはどん な一一一一口葉ももう通じなくなってるのよ。だからカズオさんにお願いするんだわ。どうか、麻 見の家庭を壊さないでちょうだい。麻見の女優としての仕事をダメにしないでほしいの。 あなたにだって大事な家庭があるんですもの。ねえ ? そうでしよう ? 環はいっこ。 「お子さん、二人 ? 」 「三人です」 「あら三人 ? 二人だと聞いてたけど」 「生れたんですー 「まあ、いっ ? 最近 ? 」 環の目は光った。子供が生れたばかりというのにカズオは雨の中、麻見に会いに札幌ま で来た。麻見と夜中まで車の中で過したのだ・ : まゆび 環の前にカズオはうなだれている。日灼けした額。アイヌ民族の印のような濃い眉と鼻 りよう 梁の強さを際立たせている深い眼窩。そして厚い唇。その唇が麻見に触れたのか ! 環は むさ・ほるようにカズオを眺め、この男らしい顔は麻見のものなのだと思うと、息が詰りそ うな嫉ましさを覚える。 ねた がんか ひや こ
さっとくれたんだ。イズミスー ーのとは大分違うべよ」 順子は切りながら切端を口に入れ、 「何だか焦け臭いねえ。イズミスー ーの方がなん・ほかおいしいよ」 し / のハムがうまいと 「カズオ、順子にちっとうまいもの食わせてやれよ、イズミスー 山本はハクライのウイスキーを奥さんと二人で一本空けたといい、大野の奥さんは年、 いいながら、半分になったハムを持って立ち上った。 幾つだべか。結構いろっぽいそ、と 順子は山本を送り出しながらさりげなく訊いた。 「奥さんは一人で来てるのかい ? 」 「手伝いの女と二人だ。リ 男荘の買手がついたんで話を決めに来たんだ」 「売る話、決ったの ? 」 た「明日、決めるんだべ。うちのポスが世話してるんだ。買手は、去年札幌から来たあの秋 消川水産物加工工場の社長よ。札幌に家があって、行ったり来たりしてたんだけど、事業が 虹軌道に乗ったもんでこの町に住宅を持ちたいと考えているところだってよ」 そういってから、山本は急に思い出したように、 しつべん、カズオに来てもらいたいってよ。そ 「そうそう、二、三日いるから、その間に、
かって沼田は妻の美代を愛していた。それは確かだ。勝吾とサチ子の二人の子供は沼田 の宝だった。妻と二人の子供とそうして馬たち。片田のポスと牧童ら。純朴なアイヌ少年 たったカズオ。それは「あの頃はよかった」などとしみじみ述懐するような、そんな生や あふ さしい幸福ではなかった。優しい光りが満ち溢れる影ひとつない天国だった。沼田は片田 の右腕、牧場の柱だった。沼田は尊敬され、愛されていた。沼田は自信に満ち、馬を愛し た。そんな自分を愛していた。 「どうしてそんな人になっちまったの」 と美代がいうのに沼田は返事が出来ない。 「どうしてだか美代、教えてくれ」 そういうと美代は泣いた。沼田は今も美代を愛している。だが美代はそうは思っていな かわい 美代に申しわけがなく、あまりに可哀そうで、顔もまともに見られないくらいだ。 賭場ですってんてんになって、吹雪の中をシャツだけで帰って来た時、中学生の勝吾は 「恥を知れよー 恥を」 それは「ちゃんとしていた頃」の沼田がよくいっていた言葉だった。勝吾は髪を茶色に すが 染めてナナハンをぶっ飛ばすようになった。サチ子は美代に縋っていつも泣きペソをかい ている。すべて沼田の責任だ。
108 引な育成者に否応なしに引きずられる馬になったような気がした。 ( だがそれが、昔から の麻見の魅力だ ) 「カズオはもう、前の : : : あの時のカズオじゃなくなったの ? 」 「いや : : : それは、やつば : : : 」 「やつば : : : 何なの ? 」 「やつば、二人の子モチだから」 麻見の声は甲高くなった。 「そうなの、おとうちゃんになった : : : わかったわ、そういうことなの」 そして麻見はいきなり、 「じやさよなら」 といって電話は切れた。 : とカズオは思う。麻見の性癖はよくわかっているつもり また失敗してしまった : ・ だったが、カズオはやはり後海に包まれてしまう。二人の子モチだから、などと、どうし てそんなつまらないことをいったのだろう。あれでは麻見さんが怒ってしまうのは当然だ、 と思った。 、というあの頃そのままの麻見の声が、頭の中をグルグル廻って カズオ、会いたし いた。オレだって、会いたいよ、とカズオは思った。あれ以来三か月、胸底に抑えつけて
「こちら朝川麻見さんやないですか」 馬主がいった。 「そうですよ。お父さんが以前、うちの大馬主だったです。大野泰正さんといって、大病 院のー 「おう、大野さん : : : 有名ですがな。オーノホープとか、オーノザクラ、オーノキング : ぎようさん : 仰山いましたな。みな、オ 1 ノがついてて。もっともどの馬もあんまり走らんかったけ ど」 「馬が好きな人だったもね。賞金目当で馬を買う人じゃなかったですよ。立派な方でし 片田が洩らした本音を馬主は皮肉とは感じず、 「あの方のお嬢さんでしたか、朝川麻見さんは : : : ヘーえ、そうやったんですか」 とひとりで感心し、 「こら、サインしてもらわんならんなあ。うちの息子、二人ともえらいファンですねん。 サイン、してもらえますやろか ? 蛆「お安いご用ですわ」 麻見は愛想よくいい 「でも書くもの、あります ? 」
「自分を正確に見ようなんて考えてると、役者にはなれないよ。うぬぼれがなくちゃ。大 事なのはパッショネイトだよ」 はんすう しばら 若杉の言葉を反芻するように暫く黙っていてから千鶴はいった。 「ほんとに。その通りですわ。そう思います。だからあたしは麻見さんの附き人をして、 麻見さんが奔放に情熱的に生きていらっしやるのを見て、その。ハッションの飛沫を浴びて、 それを酸素にしてるんですわ」 「なかなかいうねえ。君は俳優より作家に向いてるよ」 「そんな : : : 」 千鶴はそっとふり返って麻見を見、麻見が眠っていると思って低くいった。 「若杉さん。遠山さんて、どんな人なんですの ? 」 「麻見ちゃんの十代の頃のポーイフレンドだよ」 「初恋の人ですか ? 」 「さあねえ。あの頃、ポーイフレンドはいつばいいたからねえ。気が多かったからねえ。 え 麻見ちゃんは」 「ポーイフレンド : : : 含みのある一一一一口葉ですわねえ」 千鶴はい、、後は空港まで二人とも口を開かなかった。 羽田空港から銀座へ出て三人で食事をとり、家に帰り着いたのは十時頃だった。北海道 ひまっ
134 環はいっこ。 「久しぶりで植村夫人に会いたいし、お礼もいいたいし : : : 」 植村夫人は泰正の医学生時代から親友だった植村外科病院長の妻で、麻見がデビ、ーし た時から北海道ファンクラブを作って、今は二百人近い会員を取りしきる会長である。 麻見は答えず、千鶴が持って来た羊皮の半コートに手を通した。 「どこに , 汨るの 2 ・グランドフ・ 「そうらしいわね」 そっけ 素気なく答える。 「じゃあママは午後の便で行くわ。ジロさん、グランドにもう一部屋取ってちょうだい」 「グランドは無理しゃない ? ファンの人たちの中には泊って行こうって人、意外に多い んだから。きっと満杯でしよ」 それだけいって部屋を出、 「行ってまいります と廊下を歩きながら大声でいった。慌てて千鶴が追いかける。車寄せに横づけにされた 車に乗り込むと、若杉があたふたと走って来て助手席に乗った。 「部屋あったの ? グランドに ? 「いや、あとを奥田さんに頼んで走って来たんです。麻見ちゃんのことだから、平気で人
カズオはそういし 、麻見の応答を待たずに一息にいった。 「この間、オレ、つまらないことをいってしまって、あれからずーっとそのことが気にな って : : : なんも手、つかなくなったもんだから、こんな電話かけてはいけないんじゃない かと散々迷ったんだけど、やつば、いわねばなんないことはいった方がいし 、と思って : カズオの混乱が手に取るようにわかった。だが麻見の応答をルリや若杉が聞いている。 しかし今更、寝室の電話に切り換えるのもおかしい。 「オレはどうしてあんなこといったのか、自分でもわからないです」 「わかってるわ。大丈夫。心配しないでー オレのキモチ 「二人の子モチだなんていってしまって、そんなこと、関係ないのに : と関係ないことです : : : 」 「ああ、カズオ ! 」と叫んで「愛してる」と いいたかった。これがカズオの愛の言葉だ。 マージャンテーブルを囲んでいる四人の人間が邪魔たった。よりにもよって、こんな時に え 四人がいるなんて ! 麻見が何もいわないので、カズオは気を兼ねる声になった。 虹「それたけいいたくて : : : こんな時間に迷惑だと思ったんだけど、どうしても、今、いわ ねばという気になって : : : 明日になったら、いえなくなるような気がして : : : 迷惑かとは 思ったんだけど」
から馬が好きなんだと」 「勝吾なら育成で引き取ってもいいけど」 「うん、オレの方だって一人や二人、どうにでもなるけどよ、問題は沼田だ」 「ヌマさんもここへ ? 」 「女房は望んでるが。だが、そりやムリだべ。オレから声をかけてやってくれっていうけ ど、あんな形で出て行った奴が今更頭下げて戻れないべや」 「だけどヌマさんは案外声をかけてもらうの待ってるかも 「そんなことはないべよ。女房が勝手に望んでるだけだ。親分の妾と手、切らせるにはこ こへでも連れてくるよりしようがないと思ったんだべよ。それで考えたんだけどな、カズ しばら 片田は言葉を切って暫く考えてからいった。 「お前、し 、つべん、沼田に会ってみてくれないかい」 「オレが ? 」 「それとなく、キモチ、探ってみてくれなし力し しったいどういう気でいるもんだか、 人にいえないナヤミがあって、荒れてるのかもしれないべ。ヌマは馬見る目あるから、ヌ もったい マの売った馬は走ってるんだよ。馬のキモチもわかる奴だしな。このままじゃ勿体ないべ、 田舎競馬の馬相手にしてる男じゃないべよ」
「片田牧場にいるかもしれないけど」 「あたし、大野といいます。昔、片田さんの所で馬を何頭か預かってもらってたんだけど、 あの頃、カズオさんは十七、八だったわ」 「ああ、大野さん : ・ と順子はしげしげと環を見た。順子がスナックで働いていた時、片田牧場の牧夫たちが 来てよく噂をしていた、これが「大野の派手な奥さん」かと思いながら、 「悪いですねえ。留守にして」 「いいの。それより赤ちゃん、元気 ? 」 そんなことまで知っているのか、というような顔で、「はい」といった。 「三人目だって ? 」 「はい、 男二人で女の子が欲しいと思ってたもんだから : : : 」 「女の子 ? そりゃあ嬉しいわね」 え 消ふと順子は思いついたようにいオ 虹「うちの主人知ってられるのなら、沼田さんも知ってるっしよう」 「ヌマさん ? 知ってるわ」 「あすこに馬曳いて来る子、ヌマさんの子です。