「あの頃は幸せだった : : : 幸せだったから海も空も山も見なかった。でも今、それを見て るの。十年経って、見るようになった : : : 何もかも美しすぎて、輝いてて、澄明で : : : 心 に染みるのよ。あの頃は幸せだったのに、幸せだなんて思っていなかった」 「あの頃も今も幸せさ。マミちゃんは」 若杉はこともなげにいって、「さあと促しながらふといった。 「さっき遠山という男が来たよ」 「遠山 ? 誰かしら : : : 」 「む当りない ? 「ないわ」 「そうかい ? 若杉は麻見の背中を押して居間に入り、椅子を引いてやりながらいった。 「薄情なものだなあ、マミちゃん、遠山ってのはカズオだよ」 「カズオ ! カズオが来たの ? 」 麻見は叫んだ。 「どうして黙ってたの、ジロさん。ひどい」 っこじゃないか 「だから今、いナ 「だってご主人さまの留守中のことは、すぐに報告するものじゃない ?
102 ス、春と秋が平場レースがメインだ。それだけだから、ゆっくりやればいい。馬がひとり でによくなるのを待てばいいんだ。それをこっちじや無理に早くよくしようとして一所懸 命だべ」 もつ。はき 馬のことになるとカズオは俄かに能弁になる。沼田は専ら訊き役に廻り、 「今、何頭いるんだ ? 」 「そうだな、四十頭くらいだけど、年々増えて来てるんだ。自慢いうわけじゃないけどよ そでダメだといわれた馬引き受けたら、一年に三勝したんだ。それで自信が少しついたん だけど。そういう馬は見習いに触らせてはダメだな。自分で毎日、つき合わなければな。 乗り手もちゃんとした奴じゃないと。だから今は乗り手の養成に力いれてるんだ」 「うーん、たいしたもんだな。四十頭とはな」 「今、試験的に一周三十メートルの円形プールを作って、そこを歩かせてるんだよ。水の 中を歩かせると浮力で脚にかかる負担が半分ですむべ。怖がり馬、馴らすのにいいし、足 に熱もったやつを冷やすのにもいい。底がコンクリートじゃ爪が減るべ。すべり止めに砂 敷いてみたり : ・ 「お前もたいしたもんになったなあ、カズオ」 っこ 0 思わず沼田は羨ましそうにいオ 「ヌマさんが行けば、オレなんかよりもっと収穫持って帰ってきたべよ」 つめ
172 麻見はテレビ映画の撮影で香港へ行っていた。香港の後、バンコクへ行って、十月の終 りには帰ってくる予定だった。香港からの電話が一度、朝飯を食べている時に入った。順 子が電話に出て、 をし。いますけど。ちょっと待って下さいね」 としし 「電話だよー と受話器を渡し、 「この前もかけてきた人だよ。あんたのいない時 : : : 」 横を向いていった。それだけでもう胸騒ぎがするのを、何くわぬ顔を作り、「はい、も しもし」といった。 「今の人、奥さん ? 」 と麻見がいった。 お早うございます」 とつけ加えた。麻見は敏感に察して、 「ごめんなさい。いけない時間にかけちゃったのね。でも、今しかかける時がなかったの 「いいです。どうそ」
変ったといえば変った。変らないといえば変らない。あの時も今も麻見はカズオを緊張 させる。 「なあに ? いってちょうだい」 「アサミさんはスターになったんだから : : : 今はスターの顔になってる : : : 」 「スターの顔」といういい方は、精一杯の言葉のつもりだったが、麻見は顔を曇らせて、 「スターの顔 ? いやねえ」 といい、急に気を変えて、 「カズオの家、近いの ? 行ってもいい ? 」 といった。そんな麻見はあの頃のままだった。 「それはいいけど : : : 汚いよ」 「そんなこと当り前よ。馬と暮してる人がきれいな家に住んでたらダメだもの。そうでし よ、つ - フ・ かたわらくまざさ 麻見は傍の熊笹の葉を食べている母馬の鼻面を撫でながらいった。 「結婚してるんでしよ、カズオ 「うん」 「そうなの、やつばり : : 子供は ?
128 「ちっとも : : : 迷惑だなんて、ちっとも : : : 」 麻見はくり返した。 「ごめんなさい、今、ちょっと人が来てて、手が放せないの」 「あ、ごめん。失礼しました」 とカズオは荒てる。 「また、こちらからかけます」 麻見がそういう間に電話は切れた。麻見は四人に向って、「ついでにコーヒーを淹れる わ」といって部屋を出た。棚からコーヒー豆を出しながら、カズオに火がついた、と思っ た。競泳をした後のように息が弾んでいた。コーヒーを淹れたらすぐに二階の寝室から電 話をかけて、お互いの愛が消えていなかったことを確かめ合いたかった。だが足音がして のぞ 若杉が顔を覗かせた。 「手伝おうか ? 若杉は麻見の顔を見ながらいった。 「ちょっと休憩だ。コーヒーよりもブランデーが欲しいって、浩二さんがいってる」 「わかったわ。今行くわ。ブランデーは居間よ」 若杉はまだ麻見の顔を見ていた。 「どうした ? 」
といった。カズオはそれを受け止めながら、「ついこの間」なんかじゃない。遠い遠い 昔、もしかしたら今のこの世じゃなく、カズオが生れる前の世の出来ごとだったような気 がするな、と思っていた。 「オレのヨメさんになれ」 カズオは順子にいっこ。 「待ってたんだよ、カズオさん 順子はいって泣いた。 それから正が生れた。それから一年おいて、清が生れた。そして今、三人目の子供が順 子の腹にいる。 カズオって酒もたいして飲まねえし、博打も何もしねえ。考えるのは馬のことと女房孕 ませることだけかい、 と昔からの牧童仲間の安藤や川股はいうが、その通りだった。余計 なことは切り捨てるのが、いっかカズオの身についた生き方になっていた。 別荘に明りが灯っているのを、昨日の夕方見たが、見なかったことにして順子にはいわ なかった。だが順子は夜になって子供を寝かしつけてから、近くの産婦人科医院へ検診を 蛆受けに行き、待合室で女優の朝川麻見が別荘へ来ていることを聞いて来た。 「麻見さんは別荘を売りたいんだってよ。その相談で町長に会いに来たって」 と順子はカズオにいっこ。 ばくち なん
虫工は消えた 行った。 「ああ今日は日曜だったんですね。どうもこういう暮しをしてますと、日曜もウィークデ ーもなくなっちまいましてね」 若杉は邦彦に向っていい、麻見に目をやった。 「おや、お疲れのようだね ? モーツアルトを弾いてるからご機嫌がいいだろうって、マ マから聞いて来たんだけど」 「さっきまでよかったの。でも妻木さんが来て、聞き馴れない話を聞かせるものだから」 麻見はいった。 「北海道の別荘を売る相談に来たのよ。事務長は」 「へーえ。あの別荘を ! ほんとですか。でもまたなぜ ? 」 「病院が苦しいんですってさ。それで院長先生は事務長にお説教されてたの。ところがこ の先生はいくらお説教されてもわからないんじゃないけど、わからないと同じ人なの」 「よしなさい、麻見」 邦彦が穏やかにたしなめるのを無視して麻見はいった。 「今の健保制度では病院が良心的な治療をするとどうやら赤字になるという仕組みらしい のよ。あたし、今まで何も知らなかったけど、だいたい内科は検査や薬で稼ぐものなんだ って。稼ぐ病院はする必要のない検査をやたらにするらしいのよ。頭が痛いっていえば、
100 忘れろっていったべよ」 「覚えてる」 うつむ カズオは俯いたままロの中でいった。 お前とアサミさんのことをおいらが邪魔するのはな、お前もオイラみたいに引きず られてどうにもならなくなるんでないかと心配するからだ。あの女の娘だからな。何とい ましよう っても魔性の血、引いてるべよ : マーケット その言葉をカズオは忘れていない。イギリスへ向う飛行機の中でも、ニュー のサンライズ牧場で働いている時も、その言葉を思い出しては麻見を忘れようとした。 だがその一方で魔性の血って何だべ、という疑問は消えなかった。魔性の血に引きずら れたのはヌマさん自身の責任ではないのか ? ヌマさんはあんなに信頼してくれた大野先 生を裏切った。自分を責めながら裏切ることをやめれなかったのは、ヌマさんが悪いんで なしの力い ? 魔性の女なんている筈がない。ヌマさんはあの奥さんに惚れたんだ。惚れたのを奥さん の魔性のせいにしてる。あの時ヌマさんがああいったのは、カズオの身を思ってのことで とら はなく、女に引きずられてどうにもならねえヌマさんの、ワナにかかった虎の叫び声みた いなもんだったんでないか ? カズオは時々そう思う。そして今でもそう思っている。 だがカズオは沼田に向ってそうはいえなかった。今も何もいえない。
かんしよう 馬の手伝いもさせた。下手だといってカズオに怒鳴られてばかりいた。だが今では癇性の 馬の手綱を持つのは、どの牧童よりも順子がうまい。順子は働ぎ者の気のいい女房だと評 半た だが今は順子と話したくなかった。うるさい子供はなおのことだ。一人になりたかった。 独り者に戻りたかった。あの頃の、十九歳の、麻見に愛されたカズオに。 陽が落ちるまでカズオは牧場を見下ろす裏山の桜の下の切株に腰を下ろしていた。とう ちゃーん、とうちゃーんと子供らが呼ぶ声が聞え、そのうち順子の大声が風に乗って飛ん できた。 「ポスから電話で、すぐ来い、ってよう」 順子が牧夫にいっている。順子は声が大きいからどこにいても聞える。それでもカズオ は動かなかった。 「あの人には会いたくないよ」 声に出していった。声に出せば決意が固まるような気がしていた。麻見は遠い過去の中 え に消え去った女だった。万一どこかで麻見に会ったとしても、平常心で応対出来ると思っ 消 蟾ていた。 なのに、さっきのオレのザマは、あれは何なんだ : カズオは自分に腹を立て、立ち上ると傍の桜の幹を蹴った。白い三か月が出ていた。憤
についてのお考えを聞いておいていただきたいんですがね」 そういって妻木が出て行くと、邦彦は頭を右に左に曲げ、ゆっくり廻して肩の凝りをほ ぐそうとしながらうんざりして、麻見との結婚を毎いる気持になっていた。 麻見と結婚をしなければ、こんな立場に身を置くこともなかったのだ。当然こんな思い をしなくてもすんだのだ。病院長になることなんて、邦彦の本意ではなかった。薄給でも 、研究室で苦しむ病人のために研究をつづける一介の医学徒でいたかったのだ。今、 邦彦が評価されるとしたら、彼は「良心的な医者」だということだけだった。そして「良 心的な医者」など、環にいわせれば「今どきはやらない」のだった。「良心的」というこ とは昔も今も「儲からない」ということの同義語だと環はいっている。 医者は儲けるべきではない、 というのが若い頃からの邦彦の持論である。しかし一介の 開業医として赤ヒゲ先生になるのならばともかく、病院という所には、そこに集って生計 を立てている人々がいる。急速な医学の進歩に伴う設備も年々増えて行く。それに従って 医師も企業家にならなければならないのである。 え 岫邦彦は憂鬱そうに立ち上った。居間の方で麻見の声が聞えている。若杉もいるらしい 虹妻木の案を話すには、むしろ若杉がいる方がいいと邦彦は思った。若杉は調子のいい男だ 7 から、 ( そして麻見のあっかい方を邦彦よりも心得ているから ) 邦彦の立場を援護してく れそうな気がした。 ゅううつ