166 。患者を呼ぶためというよりも、外科医たちのために十分な設備も整えたいと思ってい る。 邦彦が外科や整形外科の医局から批判されているのは、老人医療への対応である。早い 話が老人医療は儲からない。老人はいい加減に退院させて新しい老人を入れ、検査漬けに して帰すというような回転にしなければ、 ( 老人がいたいというだけいくらでも入院させ ておくようでは ) 病院の収入は減る一方だ。 妻木は各医局長の意見を代弁する形で邦彦に迫った。 ハリを引き抜くことも 「それにわたしはここだけの話ですが、大学病院の教授上りの。ハ 一つの案だと思ってます。そりゃあ金はかかりますが、今の医長はこういっちやナンです が、文句をいうばかりでしてねえ : ・ : この際、根底から大野病院を一新することが必要で すよ」 だがそれでは自分は何のために医者になったのか、自分の医師としての存在理由が稀薄 はんさ になってしまう。邦彦はそう いいたい。銀行から金を借りるための煩瑣な手つづき、改築 増築の図面やら見積りやら細部の打ち合せ。それは邦彦にとっては最もニガテとすること で、想像しただけでも頭痛がしてくる。妻木は邦彦に相談を持ちかける度に、煮え切らな い院長に怒りを覚えずにはいられないという顔になった。 「来週の医局会議でわたしは賛否をとるつもりでおります。それまでに奥さんに融資の件 もう
についてのお考えを聞いておいていただきたいんですがね」 そういって妻木が出て行くと、邦彦は頭を右に左に曲げ、ゆっくり廻して肩の凝りをほ ぐそうとしながらうんざりして、麻見との結婚を毎いる気持になっていた。 麻見と結婚をしなければ、こんな立場に身を置くこともなかったのだ。当然こんな思い をしなくてもすんだのだ。病院長になることなんて、邦彦の本意ではなかった。薄給でも 、研究室で苦しむ病人のために研究をつづける一介の医学徒でいたかったのだ。今、 邦彦が評価されるとしたら、彼は「良心的な医者」だということだけだった。そして「良 心的な医者」など、環にいわせれば「今どきはやらない」のだった。「良心的」というこ とは昔も今も「儲からない」ということの同義語だと環はいっている。 医者は儲けるべきではない、 というのが若い頃からの邦彦の持論である。しかし一介の 開業医として赤ヒゲ先生になるのならばともかく、病院という所には、そこに集って生計 を立てている人々がいる。急速な医学の進歩に伴う設備も年々増えて行く。それに従って 医師も企業家にならなければならないのである。 え 岫邦彦は憂鬱そうに立ち上った。居間の方で麻見の声が聞えている。若杉もいるらしい 虹妻木の案を話すには、むしろ若杉がいる方がいいと邦彦は思った。若杉は調子のいい男だ 7 から、 ( そして麻見のあっかい方を邦彦よりも心得ているから ) 邦彦の立場を援護してく れそうな気がした。 ゅううつ
んだよ」 「わたしにとって、嬉しいことだと思ってたの ? 女優することが」 「そうじゃなかったの ? 」 邦彦はそういって穏やかに微笑した。 麻見は邦彦が大野病院の院長として、経営に苦労しなければならなくなったことを気の 毒に思っている。大野病院は麻見の父が創立した病院である。百八十床ばかりの中規模の 病院だが、芸能関係や文化人と呼ばれているような患者が多いことがステイタスになっ らいらく しぼ いた。だが邦彦が院長になってからはそのステイタスが凋みつつある。磊落な社交家肌の 泰正の後継者としては、邦彦は愛想がなさすぎた。 だって、病院は社交場じゃないんだもの、と麻見は夫のために母の環に抗弁した。邦彦 は大野病院の院長になりたくてあたしと結婚したんじゃないのよ。 「わかってますよ、麻見を愛したからだっていいたいんだろうけど、あたしにいわせる こうじまち 。、パにやいのやいのいわれると新 ねえ。あの人は気が弱いのよ。麹町のお父さまやうちのノ れない、そういう人なのよ 六十三にもなってあたしにヤキ なんてママはいやらしい女なんだろう、と麻見は思う。 モチを妬いてるんだ。世の中の男のすべてが自分に目を向けていると思いたいんだわ・ : だからさ、だから、そんな人だから大女優としてあすこまで成功したんだよ :
八月末のその夜、順子は俄かに産気づいて、明け方、女児を出産した。順子を病院へ連 れて行った時は秋を呼ぶ雨が降っていたが、カズオが帰る頃には雨はやみ、白んできた山 みぶる の端に暁の明星がぼんやりと懸っていた。雨上りの、露を含んだ冷気に思わず身慄いしな ためいき がら、カズオは星を見上げてほっと溜息をつき、麻見のことを思った。昔、沼田が徹夜し て馬に仔を産ませるたびにいったものだった。 「自分のワラシが生れた時より、嬉しいものだな : : : 」 オレは三人目の子が生れたというのに、アサミさんのことを思ってる : そう思いながらタバコに火をつけた。衝動的に麻見に電話をしたのは昨日だ。そして今 は、三人目の子供が生れた。 神さまは走り出しかけたオレを引き戻そうとして、慌てて予定日よりも早く子供の顔を 見せたんでないべか ? そう考えながらゆっくりタバコをふかしていた。正と清の待っている我が家でも順子の え 病室でもない、中途半端なこの場所にもう少し身を置いていたかった。三人目の子供が生 虹 と思った。 れたことは、麻見にはいえない、 131 にわ
165 大野病院は四十五、六年前、東京にまだ戦災の焼跡が残っている頃に建てられた。その 後改築や増築をくり返して今日に到り、継ぎ接ぎの目立つ見るからに古色漂う病院になっ てしまった。 このところ病院の経営が振わないのは、その建物も原因の一つだというので、事務長の 妻木は、思い切った建て直し策として、近代建築に改築することを主張している。妻木は 銀行や建設会社を廻り、朝川麻見が保証人になるなら、金を出すという銀行の感触を得た。 こ その相談を持って妻木はこのところ、夜になると邦彦の書斎へやって来る。妻木は邦彦 え の決断を促し、それを麻見に頼むように説得しているのだ。 ふんごうき 虹 0 スキャン、超音波エコー、電子スコープ、電気メス、胃の吻合機ーー邦彦にも買い 整えたいものはざっと頭に浮かぶものでもそれだけある。医局会議でもいつも医長から出 るのはその問題である。邦彦は院長を兼ねた内科医だが、外科に対して無理解でいたくな 七章
虫工は消えた 行った。 「ああ今日は日曜だったんですね。どうもこういう暮しをしてますと、日曜もウィークデ ーもなくなっちまいましてね」 若杉は邦彦に向っていい、麻見に目をやった。 「おや、お疲れのようだね ? モーツアルトを弾いてるからご機嫌がいいだろうって、マ マから聞いて来たんだけど」 「さっきまでよかったの。でも妻木さんが来て、聞き馴れない話を聞かせるものだから」 麻見はいった。 「北海道の別荘を売る相談に来たのよ。事務長は」 「へーえ。あの別荘を ! ほんとですか。でもまたなぜ ? 」 「病院が苦しいんですってさ。それで院長先生は事務長にお説教されてたの。ところがこ の先生はいくらお説教されてもわからないんじゃないけど、わからないと同じ人なの」 「よしなさい、麻見」 邦彦が穏やかにたしなめるのを無視して麻見はいった。 「今の健保制度では病院が良心的な治療をするとどうやら赤字になるという仕組みらしい のよ。あたし、今まで何も知らなかったけど、だいたい内科は検査や薬で稼ぐものなんだ って。稼ぐ病院はする必要のない検査をやたらにするらしいのよ。頭が痛いっていえば、
「麻見ちゃんはいるかな ? はず 「いるでしよ、さっきモーツアルトを弾いてたから、機嫌は悪くない筈よ」 「じゃあ」 若杉が部屋を出ようとすると環の声が追いかけてきた。 「今の話。主人公はどっちなの ? 娘の方 ? 母親の方 ? 」 もちろん 「モ、勿論、勿論」 荒てて若杉はいった。 「女の一生モンですよ、これは」 「考えとくわ」 もた 環はそういって長椅子の凭れに頭を載せた。 若杉が麻見の居間へ行くと、珍しく邦彦と麻見が揃っていて、病院の事務長である妻木 、力し / 「おや、これはお揃いで。お邪魔でしたか」 若杉がいう前に妻木は立ち上り、しゃあそういうことでご検討下さい、と会釈して出て
にするが、万一急用でいない時は沼田の代理の者だといって、部屋番号を伝えておいてほ しい、とカズオはいっこ。 その朝、麻見は病院へ出勤しようとしている邦彦を玄関に見送っていった。 「今日、ファンクラブで札幌へ行きます」 「そうか、ご苦労さん」 「予定は明日の夜、帰ることになってるんだけど、もしかしたら都合で浦河へ寄って来よ うかとも思ってるの」 「別荘の話かい」 「そう」 「それもいいかもしれないね。ついでだから。とにかく気をつけて行っていらっしゃい。 北海道はもう寒いだろうから」 そういって邦彦は出かけて行った。 麻見はジーンズの上にチェックのワイシャツを重ね着し、居間の壁鏡の前で帽子のかぶ り具合を験し見ていると、若杉と一緒に環が入って来た。 「ジロさんに聞いたんだけど、札幌へ行くんだって ? 」 「そうよ 「あたしも行こうかしら」
のうこうそく すぐ脳梗塞の疑いがあるなんていって、スキャンをかけて稼ぐとかよ。薬なんかも高 い新薬を使うとか。事務長はそれをしてほしいの。どこでもやってることをして下さいっ ていうの。 ハの時は定期的に検査をしてたのね。ところがうちの院長先生はしないの : 「なぜですか ? 」 「なぜですかって。あなた、お返事して」 邦彦は困り切った顔で、 「必要がないからだよ」 そういうと立ち上った。 けんのん 「ま、ごゆっくり。これ以上ここにいると、剣呑ですからね」 と若杉に笑いかけて部屋を出て行った。 「ごらんの通りよ。おとなしいくせに頑固なの」 「しかし、麻見ちゃんにこんな話を聞かせてはいけないなあ。病院経営のことなんか、女 優が考えてはいけないよ。別荘売れなんてとんでもないことをいう奴だな、事務長も」 、フらかわ 「浦河の別荘へはもう十年も行ってないんだから持ってても無駄だっていうのよ。もう馬 だって買わないんだし : ・ : 。北海道でひと夏過す時間はないし : : : そういわれればそうか もしれないけど」
198 いや ! 女優なんかいや ! 人の奥さんなんていや ! 独りにな 「もういやー りたい : : 昔の : : : はたちのマミになりたい : 「わかったよ。さあ、ここへ ひざ 邦彦は麻見を長椅子に寝かせ、そばに膝をついて脈を見た。 「大丈夫。疲れてるだけだよ」 かばん 邦彦は穏やかにいって、鞄から取り出した注射をした。 「心配することは何もないよ 邦彦は若杉に向っていった。 「ほくが病院のことで余計な負担をかけたのがいけないんです , おっとも 沼田は乙供の駅前旅館でカズオに会った。この前ここでカズオに会ったのは、五月の雨 が降っている夜だったが、今は間もなく十一一月だった。まるで芝居の書き割りのような、 ほのお 人気のない低い駅舎に切れ目なく粉雪が降っていた。部屋には石油ストープが寂しげな焔 こたっ を上げているが、それだけでは足りずに二人は炬燵に向き合っていた。どこからともなく すきまかぜ 隙間風が入ってきて、薄いカーテンを揺らす。