幻「ああ、優子さん、あなた弘二ちゃんに、家庭教師がほしいって、言ってらしたわね」 「ええ」 優子は、先ほどからの滝江の態度に、こういう人を世間では賢いというのだと思いながら、冷 たいジュースをコップに注いでいた。 「うちの清彦のお友だちなんですけれど、とても明るくていい子なの」 と、滝江は腕時計をみて、 「あ、もう二時ね、ここに二時に来る約束なのよ」 「悪い子じゃないよ、優子さん」 博史が少し金属的な声で言い添えた。 「すみません。おせわになりまして」 優子は二人に頭を下げ、 「ね、おかあさん、よかったですわね」 と、とりなすよ、つに言った。クメは黙って , つなすき、うかがうよ , つに滝江をみた。 「藻岩の家は淋しい淋しいって、おかあさんおっしやってたでしよ。ここはにぎやかでよかった ですわね」 「だけど、自動車がうるさ過ぎますよ」 クメま、 。しかにも藻岩の家のほうがよかったような言い方をした。 「でも、前は公園だし、噴水があるし、デパートは近いし、やつばりこんないい所は、札幌の中 でも珍らしいですわよ」
「いやなこと言わないでよ」 「そうかな、あんたばかりじゃないよ。人間はみんな、人に知られては困ることばかり考えてい る」 少し離れて、清彦は小川のそばにしやがみこんだ。 「いやな子ね。もっと人間の善意を信するものよ」 「そうですかね。おばあちゃんを大通りの家にやったのは、やつばりあんたの善意なの」 はさみをふり 清彦は、ワイシャツの袖をまくりあげて川の中の石を一つ返した。ざりがにが、 あげ、もそもそと動い 「そうよ。わたしがやったんじゃないのよ。おばあちゃんが行きたがったのよ」 「どうしてこっちに戻りたくなかったんだい ! 」 「そりゃあ、こんな淋しい所ですもの。ま昼でも、一人でいるのは淋しいんですってよ」 「それならまあ、さいわいですがね」 清彦はざりがにをつかんで、ハッシと石の上に叩きつけた。ざりがにが砕けて飛び散った。 「残酷な真似はおよしなさい ! 」 清彦は黙って滝江を見上げた。 家 「全く変な人ね」 の き「残酷って、どんなことかわかってるの ? ばくは、あんたこそ残酷な人だと思っていたんです がねえ」 「清彦、おかあさんを馬鹿にするの」
「へフ日、ばく、びつくりしたよ」 弘二がニャニヤした。 「 - 何、がだ ) し」 「石狩でさ。向うに男と女がピタッとならんで立っててさ。カッコいいと巴ったら、おとうさん と藻岩の伯母さんなんだもの、おどろいたよ」 謙介は返答ができなかった。 「ああ、おとうさんが、伯母さんの目のゴミをとっていた時ね」 優子はさりげなく言った。静かな声だった。 「へえ、ほんと ? ばくには目のゴミをとってるように見えなかったよ。ちょっと遠かったから、 わからないけどさ。腕を組んでるみたいだったよ」 謙介は聞えないふりをして、テレビのチャンネルをガチャガチャと廻した。 「ね、おとうさん、ほんとうに目のゴミ取ってたの」 弘二はき」ばき、ばとい , つ。 「そうだよ、弘二、だがね、大人のことをつべこべ一一 = ロうもんじゃない」 「照れてんの ? おとうさん。なるほどな。あの伯母さん、ちょっとイカすからな」 家 弘二は謙介を恐ろしいと思ったことはない。謙介は人のいいだけの父親だ。・ ' 学校の成績が悪く の きても謙介は何も言わない 「六十点か、まあまあというところだね」 行「弘二、気にすることないよ。今に実力が出てくる」
われている時、弘二が叫んだ。 「あれつ ! おとうさんじゃないの ? 」 百メートルほど彼方に、謙介と滝江が体をピッタリとよせて立っている姿が見えたのだ。の つまる思いで、みつめた時間は十秒もなかったかも知れない。だが、それは実に長い時間だった。 「ようこそ、おばあちゃん、みなさん」 滝江は悪びれずに近づいてきた。 「北野さん、二時迄という約束なのに、遅かったわね」 「なーんだ、約束していたの、北野さん」 北野は頭をかいた 「実はね、そうなんです。こちらで、びつくりさせてやろうと、そう思って黙ってきたんです 「まあ、そうなの、わたし、二時すぎても車が見えないので、心配してたのよ。目にゴミが入っ て、いま謙介さんにとっていただいていたのよ」 ゆっくりと近づいた謙介は、内心舌を巻いていた。本当に、優子たちをここに連れてくる約束 があったのか、偶然なのか、それはわからない 家 しかし、約束があったのなら、なぜ、滝江は自分の腕に腕をからませてきたのだろう。優子や、 の きクメや修一たちの前に、そんな姿を見せる必要がどこにあるのだろう。 だがまた、これが単なる偶然であったとしたら、何と言いのがれのうまい女であろう。あたか も約束があったかのように、すぐにロ裏を合わせた北野も油断のならぬ男だ。謙介は何か滝江に
Ⅲだから清彦だって、あんな妙な子に育ったんじゃないか」 「そうかねえ。すると、おかあさんはしつかりしてるから、おれや兄貴みたいな人間を育てたっ てわけか」 「謙介、何です、親を馬鹿にして」 「馬鹿になんかしてませんよ。おかあさんが育ててさえ、おれたちみたいなふぬけしかできない んだから、優子の手では、大した子を育てられないってことですよ。しかし修一はわりかしいい ほうじゃないのかなあ」 、一まうなもんですか。あんなズベ公なんかとっきあっていて : 修一、おばあちゃん は、あんな女の子大っ嫌いてすからね。もっとまともな子とっきあうもんですよ。第一、高校生 のくせに手紙をもらったからって、すぐにひょっと出て行くなんて、わたしや大っ嫌いですから ね」 「だけどおばあちゃん、おセキって、わりにいかすだろう。 ハンドバッグのアイデアなんか、わ りによかったろ。あいつ、むすかしい本も読んでるしさ」 「女の子なんか、裁縫と料理だけできればいいんですよ。むすかしい本を読む女の子なんか、わ たしは大嫌いだ」 食卓に両手をついて、クメは立ち上がり、自分の部屋に入って行った。 「おばあちゃん、ほんとに怒ったねえ」 弘二は肩をすくめて笑った。 「笑いごとではありませんよ、弘二ちゃん」
「あなた、黙ってみていらっしやらないで、清彦に少しお説教してやってくださいよ」 たまりかねて、滝江が博史に言った。博史はバイプをくわえたまま言った。 「お説教 ? 何をだい」 「何をつて : : : あなた、何もおっしやることがないとおっしやるの。このとおり清彦は、何も一言 わないじゃありませんか」 「清彦の無ロは、今に始まったことじゃないよ」 Ⅱ向うのススキが、ひと所また風に光った。 「でも、以前は必要なことは言っていましたわ。今は、うんもすんもないのよ、あなた」 いいさ、今にまた戻るよ。なあ、清彦、清彦には清彦の言い分がある」 「いやに清彦の肩を持つのね。じゃ、清彦の今の態度でいいとおっしやるのね」 清彦は人ごとのように、知らぬ顔で野菜サラダをつついていた。 しいとは言わないよ。だがね、清彦も、もう子供じゃないからね。清彦なりの考えでや ってることだ、仕方がないだろうってことだよ」 「そんなことおっしやるから、清彦はいい気になるんですよ。本当にこの頃の子供ときたら、親 でも先生でも馬鹿にして : : : 」 「もっとも、あなたみたいな教授なら、大学生だって馬鹿にするのも、あたりまえですけど」 その時、表でクラクションが鳴った。とたんに滝江の表情がにこやかになった。迎えるより先 に、北野が入って来た。
「そうかしら。じゃあなた、あの石狩で、滝江さんと腕など組んで、あれはいったい何の真似で すの」 優子は先程飲みこんだ言葉を鋭く言った。 謙介はとばけこ。 「 : : : 何の真似って、目のゴミを取ってやってたんじゃないか」 「ごまかさないでください。わたしの視力は一・五よ。百メートル先で、二人が何をしていたか ぐらい、ちゃんと見えましたわ」 「どうして返事ができないの : あなただって滝江さんがどんな人かぐらい、知ってらっしゃ るでしよう。それとも承知の上であんな真似をなさったの」 優子はたぎる心をおさえながら言った。 「あなたって、わたしの気持を考えなさ過ぎるわ。いつも黙ってるからって、何も感じないとい うわけじゃないのよ。それどころか、言いたいことたくさんあるわ。あなたったら、何でもおか 家 のあさんに筒ぬけでしよう。そのために、わたしがどんなに辛い思いをして来たか、少しは考えて みてください」 謙介は優子をうかがうように盗み見た。 「今夜の君はおっかないねえ」
優子には、その言葉が底意地悪く聞えた。 「おセキとか一一 = ロってましたわね、おかあさん」 「ああ、学校一のズベ公だってね。中学三年にもなったら、体がおとなになりますからね。修一 にもよく一言っておくとよいですよ」 「修一はしつかりしているから、大丈夫だと思ってるんですけど : : : 」 「優子さん、男というものはね、まあ女に関しては、どれもこれも似たりよったりですよ。おじ いちゃんがそうだった。謙介だって、博史だって、わかりませんよ。修一だって、決して信用は できませんよ。それが男というもんですよ」 石狩での謙介のこともふくめて、弁解しているようにも取れるクメの言葉だった。 「これで何ですねえ、優子さん。心配しだしたら、女なんて心配の種は尽きませんよ。 のところで安心していないとね」 優子は黙って食器を洗い始めた。 「結局は女が悪いんですよ、優子さん。女がね。滝江さんのような女にかかったら、やつばりた いていの男は鼻毛を抜かれますよ」 優子は、あの日クメが言ったという一言葉を思い出した。 家 の「おとうさんとおかあさんが、けんかになるから見ててごらん」 と、クメは弘二に言ったのだった。おセキという女の子の顔が、なぜか滝江に似ているような 気がした。修一は、会いに行って来たとは、優子には言わなかった。優子はひどく孤独な心地だ 幻っこ。 しい , 刀【馘
「あいつ、こんな世の中に生きてたくないなんて、言ってたぜ。知ってたかいにいさん」 「ああ、知ってるよ。人間死にたい時もあれば、生きたい時もあるからね。ばくはあまり、関子 き、んの一一一一口 , っことは、い配してはいないよ」 まばらに伸びている修一のあごひげを見ながら、弘二は目をむいた。 「へえー、冷静だなあ、兄貴は。おれはさ、おセキが死 にたいって言ったもんだから、胸がどき んとしてさ。何だか落ちつかんかったけどなあ。あいつ、死なないかいにいさん」 「大丈夫だよ」 修一はおとなつばく徴笑した。二人でこうして話しあうことなどなかった。考えてみると、話 し合うまいとしたのは、弘二のほうであったような気がする。弘二はいつも、修一の目を避け、 修から遠くに逃げよう逃げようとしているように見えた。 ( 兄弟とはいったい何だろう ) 言かが「兄弟とは、指定席に隣り合わせた乗客に似ている」と書いていたのを、修一は覚えて いる。汽車の指定席は、自分の意志とは関係なく、誰かと隣り合わせになるようになっている。 その席にすわったが最後、どちらかが降りるまでは、いやでも応でも並んでいなければならない。 それは、自分の意志で選んだ友人とか恋人とか夫婦などとは、全く別の関係なのだ。 ( つまり人格の関係ではない ) 都合の悪いことに、兄弟は、数時間で別れることのできる、列車の指定席の相手とはちがう。 何年も同じ屋根の下に暮らす、血肉をわけた存在であるということだった。気に入ろうが入るま いが、生れながらに兄であり、弟であるという関係に立たされているのだ。
87 裁きの家 やつばり黙って、清彦はうなすいた 「わたしね、今日弘二の参観日なの。でもすぐ帰ってくるわ。おばあちゃんがいらっしやるから お入んなさい」 頭を横にふって、清彦は立ち上がった。 「どうしたの ? 黙りん坊ね、相変わらず清彦さんは」 清彦はニャリと笑って、ぶらぶらと歩き出した。 「おばあちゃんの顔を見てらっしや、 清彦はまた首を横にふった。 「じゃ、わたし学校にいくのやめるわ。うちへいらっしや、 「いや、ばくもその辺までいくよ」 清彦はやっと口をひらいた。 学校まで七、八百メートルはある。二人は肩を並べて歩き出した。と、清彦の足がとまった。 「ど、つしたの ? 」 「こんな所に教会があった ? 」 清彦は仲通り角のキリスト教会を指さした。 「あったわよ、前から」 教会の屋根の緑がはげていた。清彦はまた黙って歩き出した。 「清彦さん、あんまり口をきかないと、おかあさん心配なさるわよ」 かかと 返事をしないで、清彦は踵で土を蹴った。すぐそばの花壇の鶏頭が、目に沁みるほど赤い