120 る。逆上して、お前、そこの場所知っているんだろう、さあすぐ連れていっておくれ、とい , ( ことになりかねない。かえっていけないと思ったのよ。これからは、嫌なことはわざと大き 4 声で面白そうに言うからね。そうしないと、切り抜けてゆけないと思うのよーー・そんな気持 こめて母親の背中をさすってやった。 桃子の手を振りはらうようにして、母親が呟いた。 「お母さん、一所懸命尽したと思うけどねえ、お父さん、何が不服だったんだろう」 その一所懸命がいけなかったんじゃないの、と言いたかった 「このうちには、ユーモアの判らん人間がいるなあ」 いつだったか、夕食の席で、父親がこう言ったことがあった。 そう言った父親が、およそューモアとは縁のない面白くもおかしくもない人間だから、桃マ はおかしくなったが、台所から醤油つぎを持って入ってきた母親は、聞き捨てにならないと、 う感じで、ムキになった。 「お父さん、それ、あたしのことですか」 「なにもお前だって言ってやしないよ」 「じゃあ誰なんですか」 「まあいいじゃよ、ゝ
192 順子の、ねずみ色のねずみみたいな顔が、上目遣いに風見を見た。 「あたし、五万円なんて貰わないわ」 可愛気のない固い声だった。 「賞金は一万円です。やだな、あたし、ゴマかしてるみたいで」 出前の寿司が届いた。 近所でも一番安い「松寿司」のナミである。マグロは、解凍に間に合わなかったのか、ロに 入れると、生臭いシャーベットのようにジャリッとしていた。これでみんな終った。直子は、 帰ってゆく風見の背中に、 「き、よなら ! 」 大きな声でそう一言った。 風見は黙って頭を下げ、何も言わずに玄関の戸をしめた。建てつけの悪い戸は一度ではしま らず、母親の須江が土間におり、ガタピシいわせて、やっとしまった。 一週間たったが、風見から音沙汰がなかった。 それで当り前と諦めてはいても、気持のどこかで待っているとみえて、直子は金曜の夜はわ ざと仕事をつくり残業をした。金曜の夜にデイトをする習慣になっていたからである。
160 肩を抱いてやって、 「なんかあったら、俺のとこへ来い」 そう言えたら、浩司はどんなに感激するだろう。浩一郎自身も、気が済むに違いない。判っ ているが、言えなかった。 気恥かしさもあった。テレ臭さも事実だった。 母のたき江には言うに忍びないというところがあった。 ロやかましいが、女の苦労だけはかけたことのない人だった。女としてあたしほど幸せ者は いない。お題目のように唱えることが生きる張り合いになっている老女に、二十年前の、故人 になった夫の裏切りを告げたところで、心臓発作を起すのが関の山である。 そのことは浩司にも話して納得してもらってある。 「何分急だから。気持の準備も出来ていないし」 これからも新陽軒の出前は取るだろうが、血のつながりがあることは、当分二人だけのこと にしてくれないか、と言った。 じらしさと同じ分旦里だけ、 , っとましき、があった。 浩司をみていると、懐かしさ、い 自分と同じ四角い顔。 幼いときから、他人の家を転々としてきたせいか、人の顔色をうかがうところがあった。
黙ってなかへ入り、日誌をつけている若い警官の机の上に、静かに包丁を置いて、 「水 - をください」 と言ったそうだ。 組子の傷は全治十日であった。 太い血管を傷つけていたし、潮どきというのか派手に血が流れたので肝をつぶしたが、一週 間もすれば店へ出られるという。 警察から戻った八木沢は、興奮していた。 「ひどいはなしだよ。あの男菊本っていうんだけど、錦糸町の店へ通いつめたらしいんだな。 ママに夢中になって、カウンターに坐って、結婚してください ママにすりや、客商売だよ、 いやですとも一言えないから、ええ、 しいわよ、うれしいわ。手ぐらい握らせて、そのくらいの こと毎晩言ってますよ。あの男はそれを真に受けたらしいんだな。ママ、急にこっちへ来たも んだから、人の気持踏みにじったというんで 。まあ殺す気はなかったらしいがね」 福 「よかった、大したことなくて」 幸病院の入口で落ち合った素子と八木沢は、エレベーターで病室へ上っていった。 「なんのかんの言っても、やつばり姉妹ね。あたし、大したことないって判ったとき、ばあっ
客の気持になっておもてから見てみよう。二人はそう言いながらドアの外に出て、あっと声 が出てしまった。客が入らないのも当り前で、 「只今準備中」 の札が風に揺れていた。 こういう思い出ばなしをして、肩をぶつつけあって笑っていると、天にも地にもかけがえの ない姉妹だという気がしてくる。 せわしくドアが開いて八木沢が入ってきた。 この店のオーナーである。 錦糸町でバーのやとわれママをしていた組子を引っこ抜いたのは、この男である。 「オープンに、校長先生、来ないかな」 八木沢は、このあたりにけちなゲーム・センターやスナックを二、三軒持ち、ひろげ過ぎた 分だけ手形に追われて、年中忙しがっているのだが、勇造の教え子で、今でも校長先生と呼ん でいる。 「くるわけないでしよ。自分の娘が男にお酒つぐとこは見たくないんじゃないの」 「そりや昔のはなしよ。人間て奴は、環境でころりと変るんだよ」 「変るものもあるけど、変らないものもあるわよ」
もてないわけだよ、と呟いた数夫さんに、あたしはお返しをしたの。 汗ばんでいる右の腋の下を、あの人の顔に押つつけたわ。 押つつけながら、あの人の目を、顔の表情を、からだの、全身の気持をみつめたわ。あのー は深く息を吸い込んだ。あたしのあの匂いを吸い込んだ。 もし、すこしでも、嫌だという感じ、我慢しているものを感じたら、その場ではね起きて冖 るつもりだった。二度と逢わないつもりだったわ。 でもね、お姉ちゃん。 数夫さんは、ゆっくりと静かに息を吐き、もう一度深く吸い込んだのよ。 小さな男の子が、はじめて花の香りを嗅いだときの顔だと思ったわ。 この顔をお姉ちゃんに見せたい。そう思った瞬間、首筋がうしろに反って、体中の血管のル が一斉にお湯になって、腰が抜けたようになったのよ。 あの晩のお姉ちゃんのことばじゃないけど、 「言わなくても判るでしよ」 とい、つところね。 組子が、寝息をたてはじめた。 姉は寝ていないな。
もより荒いような気がする。 「なんだってあたしたち呼んだんだろうねえ。大したことないのに」 組子が小声ではなしかけてきた。 襖を少しあけてある隣りの部屋の蚊遣りの煙を気にしながら、素子も小さい普通の声で、 「こんなに世話してますってとこ、見せたかったんじゃないの」 とだけ答えて、あとはまた闇と、三人の息遣いだけになった。 海からも山からも風の気配はなく、じっとりと汗ばんでくる。 素子は、ロが渇いてくるのが判った。 気持とからだがたかまってくる前触れである。 本人が気にするほどじゃないよ、と死んだ母は言ってくれたが、あれが、あの匂いがーーー腋 の下からひろがってくるのは、こういうときである。 素子は、隣りの数夫の手を探した。 お姉ちゃん、あのときのこと覚えてる ? 福 高校三年の夏、いまと同じように蚊帳のなかにならんで横になりながら、はなしをしたあの 幸晩のこと。 素子が、将来美容師になる、高校を出たら美容学校へゆきたい、と言ったとき、組子は反対
母親は父親とあい年の五十三で、お茶とお花の心得がある。そのせいか、いまでも行儀作沖 にやかましい。麦茶を軽蔑して、「あんなものをのむくらいなら、冷たい水でお薄をお点てな さい」というのよ、と顔をしかめてみせた。 「最高だなあ」 風見のため息はますます大きくなった。 十八になる妹は、詩を書くのが大好きで、ミニコミ誌へ投書して一等になり五万円の賞金 貰ったことがある、と話した。 「マンション ? 」 と聞かれたので、庭つきの一戸建てだと一言うと、風見の吐息はまたひとっ切実になった。 「じゃあ畳の部屋もあるの ? 」 「あるわよ」 「いまや最高の贅沢だなあ」 た独身寮にいるせいか、畳や縁側と聞くとそれだけでしびれると言った。 来 「子供の時分夏休みに田舎へ連れてかれて、縁側に坐って足をプランプランさせながら西瓜を 春食べたことがあったなあ。従兄たちと種子の飛ばしつこをしてさ」 畳の上で昼寝をするとき、足を壁にくつつけると気持がいいので、よくやった。小さい足の ぜいたく と、一
176 っていった。 「なにか隠していること、あるんじゃないですか」 女房の尚子に切口上で一一 = ロわれてまごっいた。 さては、とギクリとしたが、疑っているのは浩司のことではなく、浩一郎の女関係、つまり 浮気と判ってほっとした。 この半年ほど、閑があると浩司につき合った。日曜の家族サービスもおろそかになっていた し、大沢たち編集部の連中を麻雀に招くのも、浩司のことが洩れてはと気を遣って、やってな 考えごとをしたり得体の知れない溜息をついていたことも 自分では気がついていないが、 あったに違いない 「こういうことは一代おきだっていうからねえ。うちじゃお祖父ちゃんがやわらかで、お父さ んが堅いからー , ・・・・尚子さんも気をつけなくちゃ」 知らぬが仏で、母のたき江はのんきなことを言っているが、思わせて置くことにしよう。 あと三十年も五十年も、と言っているわけではないのである。せめてこの人が寿命を終るま で、浩司のことが耳に入らなければ、まあまあ中位の女の幸福を抱いて、この人は死ねるのだ。 こう思いながら、浩一郎は、気持のどこかで母親の死を願っているのに気がついた。
国「消火器の会社に勤めたんだが、それがどうもインチキらしくてねえ」 女の世話になっている、ということなのであろう。 桃子は、もう父は帰ってこないだろうと思った。娘にあんな姿を見られたからには、からだ でも駄目にならない限り、もどることはあり得ない 「あたし、間違ったことしたのかしら」 「そんなことはない。桃子さん、いつも正しいよ」 「でも、なんか逆、逆へいってしまうなあ、あたしのすることは」 都築が笑い、つられて桃子も笑った。笑いながら、背中を丸めてミシンを踏んでいる母の姿 を思い、お天気雨のように大粒の涙をこばしてしまった。 一度弱いところを見られてしまうと、道がつくというのか、あとは涙を見せることもさほど 恥かしいと思わなくなった。月に一度逢って、ちょっと涙ぐんだりすることが楽しみになって よろ 都築の前に坐ると、気持が柔らかくなっているのが判った。固く鎧っているものを脱ぎ捨て ナよデ ていた。負けいくさを覚悟で砦を守っている健気な部隊長の役も、役に立たない犬、猿、キジ を連れて鬼退治に向っている桃太郎もお休みにして、意気地のない嫁きおくれの女の子にもど ることができた。 とりで