研太郎 - みる会図書館


検索対象: 隣りの女
171件見つかりました。

1. 隣りの女

「たノ、士しいね」 しつかりやれよという風に手を差し出した。 「めり - がと , つ」 あと何十年を生きるかわからないが、男の手をこんなにきつく握ることはもうないだろう、 とサチ子は思った。 スナック「パズル」に集太郎が入ってきたのは、夜十一時を廻っていた。 「隣りの時沢です」 少し酒が入ってはいたが、カウンターに腰を下すとすぐに峰子に挨拶をした。峰子は無言で 会釈をして、注文の水割りをつくっている。 「カミさん、なにか言ってなかったですか」 集太郎は、カウンターのルービック・キューブを廻しながら、 「この間からちょっと出てるんですがね、谷川岳へのばりますと書いてあるだけで」 「谷川岳 ? 」 氷を割っていた峰子の手がとまった。 「今まで山登りのやの字も言ったことのないやつが、なんで急に谷川岳なのか、さつばり見当

2. 隣りの女

男は自分を三万円で買ったのだ。手が震え、からだが震えてきた。 集太郎の視線を避けて、。 コミを捨てにおもてへ出た。、、 コミ集めの日以外は捨てるなの木札の 前にポリバケツを下げてしばらく立っていた。 「どうかしてるぞ」 集太郎が立っていた。 「昼間のこと、もう気にするのはよせよ」 サチ子の手からポリバケツを取り、 「全く、はた迷惑なのが隣りへ越してきたもんだよ」 サチ子の肩を叩いて、さあ帰ろうとうながすと、先に立ってアバート へ入っていった。 小さな菓子折を抱えて峰子が挨拶に来たのは、それから二日目である。もともと細かったの が二廻りほど痩せ、色が白くなっていた。 このたびはいろいろと、と頭を下げ、 「奥さんが飛び込んでくれなかったら、あたし今頃はこのくらいの四角い箱」 骨箱のことを言っているらしい。部屋を見廻して、 「同じ間取りなのに、別のアバートみたい。やつばり家庭ってのは違うわねえ」

3. 隣りの女

「二人いるのよ」 おおごと 「別に不思議はないだろ。人の女房なら大事だけど、ああいう商売の女に男の二人や三人」 「それにしたって。おひるにいつもくる現場監督みたいな人が来てたと思ったら、三時頃お使 いから帰ってきてミシン掛けてたら、また別の声がするの。それがいつもの人の声じゃないの 「一日、なにやってンだ」 サチ子は、すこしたじろぎ、「自然に聞えるんだもの」と小さい声になった。 「ヘンなのとっき合うなよ」 集太郎は、また大きなあくびをしながら布団にもぐり込んだ。サチ子は明りを暗くしたが、 すぐには台所へゆきたくなかった。 「谷川岳のばったことある ? 」 「谷川岳」 集太郎は、またあくびをした。 「ないよ。なんだい急に」 「上野から谷川までの停車駅、言える ? 」 「八時間じっくり働いてさ、つき合い麻雀やって帰ってきたんだよ。クイズなんかやるゆとり

4. 隣りの女

泣くような声を立てていた。峰子は、引きつった顔をしていた。ノブちゃんの右手のあたり がキラリと光ったような気がしてサチ子は立ちすくんだが、峰子は、サチ子の姿に気づくと、 ノブちゃんをやわらかく抱き込む形になって、 「あら、奥さん、もう帰るの」 と呼びかけた。 声にはゆとりがあったし、ノブちゃんのほうも、いつもアパートの廊下で顔を合わせるとキ のように、ちょっとバツの悪そうなムッとした顔なのでサチ子はほっとした。 ミこ馳 ~ 疋き、ま」 と声をかけ、抱き合ったままの二人から目をそらして、階段をかけ上った。 おもてに出たら暗くなっていた。急に自分がみすばらしく見えた。あんなに激しい目で集十 郎から見つめられたことはなかった。あんな声で深いところへ誘い込まれたこともなかった ( 今頃麻雀をしているに違いない集太郎に腹が立ってきた。ネオンまで自分を嗤っているように 思えた。 集太郎はいつもと同じように十二時過ぎに帰ってきた。帰ってくるなり水を飲み、大きな くびを繰り返した。 「あくび、だんだん大きくなるわねえ」 わら

5. 隣りの女

集太郎は起き上ると、サチ子のたくましい尻をひとつ、 とうしろを向き、両手で顔をおおってすすり泣いた。 「どっち見て泣いてるんだ」 サチ子は集太郎の胸にとびつくと、子供のように声を立てて泣きじゃくった。 峰子が引っ越していったのは、それから三日ばかりあとである。二ヶ月分の部屋代を踏み し、サチ子にガス代とクリーニング代の借りをのこして、夜逃げ同然だった。ドアの前に、 イスキーやコーラのびんと古新聞、そして、部屋のなかには、裸のダブルペッドだけが残っ あとは綺麗に消えていた。 梅雨が上った頃、大風呂敷をかかえてサチ子はいつものようにバスに揺られていた。風呂 包みの中は、内職の材料である。衿、袖、身頃ーーバラバラに裁断された女のからだの部分を つないで、・フラウスに縫い上げるのである。 一人の主婦、時沢サチ子にもどって、ひと月になる。あのときの傷口は、サチ子だけしか知 らない。前よりも少しばかり丁寧におかずをつくり、ミシンを掛けている。信号でとまったバ スのすぐ下をのそいて、サチ子は、あっと声を上げた。すぐ目の下を、オートバイにのった騁 の腰につかまって笑っているのは峰子である。 ーンとたたいた。サチ子はくるり

6. 隣りの女

の 「口惜しい」 といっては冷蔵庫をあけ、 「もうお父さんなんか帰ってこなくてもいいよ」 夜中にビールのト、 / びんをあけるようになった。一年もたっと、 「此の頃の帯は短くなったねえ」 とい , つよ , つになったが、 帯が短くなったのではない。母親が肥ったのである。 弟の研太郎は、母のミシンの音を耳栓で防ぎながら受験勉強にはげみ、二流ながら大学のエ 学部に合格した。 わかさぎ 物理化学のほかは、全く物知らずな人間である。公魚のつけ焼きを食べていて、 「え ? これ公魚っていうのか」 びつくりしている。 さ 「おれ、ワカサギっていうから、鷺の若いのかと思ってた」 と一一 = ロ , つ。 「今までにだってこれ食べたことあったじゃないの」 「シラスのでかくなったのだとばかり思ってた」 という具合で、男と女の機微など相談するだけ無駄だった。

7. 隣りの女

受話器を取ったのは、中学三年の妹陽子だった。 「晩ご飯食べちゃった ? 」 「お姉ちゃん待ってたんだけど、おなか空いたから、いま食べようって言ってたとこ」 うなぎ 「よかった。とっても嬉しいことがあったから、お姉ちゃん、鰻おごるから、待っててよ」 「嬉しいことってなによ」 「食べながら話す」 父親が食卓に並ばなくなってから、食べものは目に見えて粗末になっていた。鰻重など久 1 ぶりのことである。 「月給でも上ったのかい」 母親は、お母さんま、、 のこ、勿体ない、と言いながら、それでものろのろと口を動かし 大学二浪の弟研太郎は泡くって掻き込んだものだから、つつかえたりしている。妹が 「なんだか気味悪いなあ、夜中に一家心中なんていうの、やだからね」 とおどけたところで、桃子はわざと陽気に切り出した。 屋 の「お父さん、元気だったのよ」 胡みなの箸が止った。 「仕事が見つかったら、帰ってくるつもりじゃよ、

8. 隣りの女

「お母さんも頭にくるだろうけど、お父さんに休暇やったと思って。乗り込もう、なんて思っ たら負けだから。みんなで元気出して、待とうじゃないの」 あとから考えれば小賢しい言い草としか言えないが、そのときは真剣だった。 「お番茶でいい力し」 母親がポツンと言った。普段の声である。 鰻重はカラになっていた。 「あれ ? 鰻にお番茶はいけないんじゃなかったかな」 「馬鹿だねえ、鰻に梅干だよ。食べ合わせは」 笑った母親が、急に立って台所へかけ込んだ。 えずく声に桃子が立ってゆくと、母親は流しにつかまって喘いでいた。食べたものは綺麗に もどしていた。 「なにも研太郎や陽子の前で一一 = ロうことないじゃないゝ ロ許からョダレの糸を引きながら、母親が桃子をにらんだ。桃子は、母親が上三白眼だった 屋 のことにはじめて気がついた。 胡「ごめんね。いっか判ることだと思って」 お母さんにだけ一言うのは判っていたけれど、そうするとどうしても話が深刻になり陰気にな あえ

9. 隣りの女

うちのために、自分は曲ることはできないのだ。気持がめげそうになったら、今までもそう したように鶯谷駅の・ヘンチに坐って気持を鎮めればいし 父に対する怒りや恨みは、三年の年月で大分風化はしているが、まだおまじないぐらいの効 き目はある。 母親が小さく二つ手を叩いた きめ 三年前にくらべると別人のように肥った母は、肥ったせいか肌理が細かくなった。うつむい た衿元が、木洩れ陽に光って、妙に女らしい ひと頃は、顔にも物腰にもやつれと恨みが滲んで、我が親ながら浅間しいと思った時期もあ ったが、そういえば、この半年ほどはゆったりとしてきた。 「諦めて離婚届に印を押して、もう一度別の人生を歩いてみるのもいいんじゃないの」 と機嫌のいいときに言ってみようかな、と桃子は母の衿足を眺めた。 母がなにを頼んだか知らないが、百円の賽銭は全く効き目がなかった。 弟の研太郎がうちを出たのである。 前から、ミシンがうるさい、といって友達のところへ試験勉強に行っていた。友達というの は男だとばかり思っていたが、女だったのである。徹夜の勉強は、外泊だった。

10. 隣りの女

へ行ったときのように、胸に飛びついて、おでこをもむようにしたら、この人はどうするだろ う。あのときのように背中をさするだけか、それとも、もっと別のところへわたしを誘うのだ ろ , つか 三年も桃太郎をやったんだ。もういい加減くたびれている。 桃子になって、この人の胸にもたれかかりたい。 不意に建売住宅の間取りが見えてきた。 入った取っつきが八畳のダイニング・キッチン。奥が , ハ畳の夫婦の部屋。風呂場とトイレ。 二階が四畳半二間の子供部屋。都築のうちである。ピアノの置き場所も、近頃出の悪いという プロバンガスのポンべの位置も、見たことがあるみたいに見える。 この人には妻子がいる。 内職のミシンを踏んでいる母の顔が目に浮かんだ。誰よりも頼りにしている長女が、選りに 選って妻子のある男と それは家を出た父親を認めることになる。他人の夫を奪った父の女を許すことになる。母親 は逆上してーーー父が出ていった直後、やったようにガス管をくわえる騒ぎになる。 桃子は、手を引き、からだを離した。 あと一年。研太郎が大学を出るまでは頑張らなくてはならない。