「たノ、士しいね」 しつかりやれよという風に手を差し出した。 「めり - がと , つ」 あと何十年を生きるかわからないが、男の手をこんなにきつく握ることはもうないだろう、 とサチ子は思った。 スナック「パズル」に集太郎が入ってきたのは、夜十一時を廻っていた。 「隣りの時沢です」 少し酒が入ってはいたが、カウンターに腰を下すとすぐに峰子に挨拶をした。峰子は無言で 会釈をして、注文の水割りをつくっている。 「カミさん、なにか言ってなかったですか」 集太郎は、カウンターのルービック・キューブを廻しながら、 「この間からちょっと出てるんですがね、谷川岳へのばりますと書いてあるだけで」 「谷川岳 ? 」 氷を割っていた峰子の手がとまった。 「今まで山登りのやの字も言ったことのないやつが、なんで急に谷川岳なのか、さつばり見当
男は自分を三万円で買ったのだ。手が震え、からだが震えてきた。 集太郎の視線を避けて、。 コミを捨てにおもてへ出た。、、 コミ集めの日以外は捨てるなの木札の 前にポリバケツを下げてしばらく立っていた。 「どうかしてるぞ」 集太郎が立っていた。 「昼間のこと、もう気にするのはよせよ」 サチ子の手からポリバケツを取り、 「全く、はた迷惑なのが隣りへ越してきたもんだよ」 サチ子の肩を叩いて、さあ帰ろうとうながすと、先に立ってアバート へ入っていった。 小さな菓子折を抱えて峰子が挨拶に来たのは、それから二日目である。もともと細かったの が二廻りほど痩せ、色が白くなっていた。 このたびはいろいろと、と頭を下げ、 「奥さんが飛び込んでくれなかったら、あたし今頃はこのくらいの四角い箱」 骨箱のことを言っているらしい。部屋を見廻して、 「同じ間取りなのに、別のアバートみたい。やつばり家庭ってのは違うわねえ」
「二人いるのよ」 おおごと 「別に不思議はないだろ。人の女房なら大事だけど、ああいう商売の女に男の二人や三人」 「それにしたって。おひるにいつもくる現場監督みたいな人が来てたと思ったら、三時頃お使 いから帰ってきてミシン掛けてたら、また別の声がするの。それがいつもの人の声じゃないの 「一日、なにやってンだ」 サチ子は、すこしたじろぎ、「自然に聞えるんだもの」と小さい声になった。 「ヘンなのとっき合うなよ」 集太郎は、また大きなあくびをしながら布団にもぐり込んだ。サチ子は明りを暗くしたが、 すぐには台所へゆきたくなかった。 「谷川岳のばったことある ? 」 「谷川岳」 集太郎は、またあくびをした。 「ないよ。なんだい急に」 「上野から谷川までの停車駅、言える ? 」 「八時間じっくり働いてさ、つき合い麻雀やって帰ってきたんだよ。クイズなんかやるゆとり
泣くような声を立てていた。峰子は、引きつった顔をしていた。ノブちゃんの右手のあたり がキラリと光ったような気がしてサチ子は立ちすくんだが、峰子は、サチ子の姿に気づくと、 ノブちゃんをやわらかく抱き込む形になって、 「あら、奥さん、もう帰るの」 と呼びかけた。 声にはゆとりがあったし、ノブちゃんのほうも、いつもアパートの廊下で顔を合わせるとキ のように、ちょっとバツの悪そうなムッとした顔なのでサチ子はほっとした。 ミこ馳 ~ 疋き、ま」 と声をかけ、抱き合ったままの二人から目をそらして、階段をかけ上った。 おもてに出たら暗くなっていた。急に自分がみすばらしく見えた。あんなに激しい目で集十 郎から見つめられたことはなかった。あんな声で深いところへ誘い込まれたこともなかった ( 今頃麻雀をしているに違いない集太郎に腹が立ってきた。ネオンまで自分を嗤っているように 思えた。 集太郎はいつもと同じように十二時過ぎに帰ってきた。帰ってくるなり水を飲み、大きな くびを繰り返した。 「あくび、だんだん大きくなるわねえ」 わら
集太郎は起き上ると、サチ子のたくましい尻をひとつ、 とうしろを向き、両手で顔をおおってすすり泣いた。 「どっち見て泣いてるんだ」 サチ子は集太郎の胸にとびつくと、子供のように声を立てて泣きじゃくった。 峰子が引っ越していったのは、それから三日ばかりあとである。二ヶ月分の部屋代を踏み し、サチ子にガス代とクリーニング代の借りをのこして、夜逃げ同然だった。ドアの前に、 イスキーやコーラのびんと古新聞、そして、部屋のなかには、裸のダブルペッドだけが残っ あとは綺麗に消えていた。 梅雨が上った頃、大風呂敷をかかえてサチ子はいつものようにバスに揺られていた。風呂 包みの中は、内職の材料である。衿、袖、身頃ーーバラバラに裁断された女のからだの部分を つないで、・フラウスに縫い上げるのである。 一人の主婦、時沢サチ子にもどって、ひと月になる。あのときの傷口は、サチ子だけしか知 らない。前よりも少しばかり丁寧におかずをつくり、ミシンを掛けている。信号でとまったバ スのすぐ下をのそいて、サチ子は、あっと声を上げた。すぐ目の下を、オートバイにのった騁 の腰につかまって笑っているのは峰子である。 ーンとたたいた。サチ子はくるり
の 「口惜しい」 といっては冷蔵庫をあけ、 「もうお父さんなんか帰ってこなくてもいいよ」 夜中にビールのト、 / びんをあけるようになった。一年もたっと、 「此の頃の帯は短くなったねえ」 とい , つよ , つになったが、 帯が短くなったのではない。母親が肥ったのである。 弟の研太郎は、母のミシンの音を耳栓で防ぎながら受験勉強にはげみ、二流ながら大学のエ 学部に合格した。 わかさぎ 物理化学のほかは、全く物知らずな人間である。公魚のつけ焼きを食べていて、 「え ? これ公魚っていうのか」 びつくりしている。 さ 「おれ、ワカサギっていうから、鷺の若いのかと思ってた」 と一一 = ロ , つ。 「今までにだってこれ食べたことあったじゃないの」 「シラスのでかくなったのだとばかり思ってた」 という具合で、男と女の機微など相談するだけ無駄だった。
受話器を取ったのは、中学三年の妹陽子だった。 「晩ご飯食べちゃった ? 」 「お姉ちゃん待ってたんだけど、おなか空いたから、いま食べようって言ってたとこ」 うなぎ 「よかった。とっても嬉しいことがあったから、お姉ちゃん、鰻おごるから、待っててよ」 「嬉しいことってなによ」 「食べながら話す」 父親が食卓に並ばなくなってから、食べものは目に見えて粗末になっていた。鰻重など久 1 ぶりのことである。 「月給でも上ったのかい」 母親は、お母さんま、、 のこ、勿体ない、と言いながら、それでものろのろと口を動かし 大学二浪の弟研太郎は泡くって掻き込んだものだから、つつかえたりしている。妹が 「なんだか気味悪いなあ、夜中に一家心中なんていうの、やだからね」 とおどけたところで、桃子はわざと陽気に切り出した。 屋 の「お父さん、元気だったのよ」 胡みなの箸が止った。 「仕事が見つかったら、帰ってくるつもりじゃよ、
「お母さんも頭にくるだろうけど、お父さんに休暇やったと思って。乗り込もう、なんて思っ たら負けだから。みんなで元気出して、待とうじゃないの」 あとから考えれば小賢しい言い草としか言えないが、そのときは真剣だった。 「お番茶でいい力し」 母親がポツンと言った。普段の声である。 鰻重はカラになっていた。 「あれ ? 鰻にお番茶はいけないんじゃなかったかな」 「馬鹿だねえ、鰻に梅干だよ。食べ合わせは」 笑った母親が、急に立って台所へかけ込んだ。 えずく声に桃子が立ってゆくと、母親は流しにつかまって喘いでいた。食べたものは綺麗に もどしていた。 「なにも研太郎や陽子の前で一一 = ロうことないじゃないゝ ロ許からョダレの糸を引きながら、母親が桃子をにらんだ。桃子は、母親が上三白眼だった 屋 のことにはじめて気がついた。 胡「ごめんね。いっか判ることだと思って」 お母さんにだけ一言うのは判っていたけれど、そうするとどうしても話が深刻になり陰気にな あえ
うちのために、自分は曲ることはできないのだ。気持がめげそうになったら、今までもそう したように鶯谷駅の・ヘンチに坐って気持を鎮めればいし 父に対する怒りや恨みは、三年の年月で大分風化はしているが、まだおまじないぐらいの効 き目はある。 母親が小さく二つ手を叩いた きめ 三年前にくらべると別人のように肥った母は、肥ったせいか肌理が細かくなった。うつむい た衿元が、木洩れ陽に光って、妙に女らしい ひと頃は、顔にも物腰にもやつれと恨みが滲んで、我が親ながら浅間しいと思った時期もあ ったが、そういえば、この半年ほどはゆったりとしてきた。 「諦めて離婚届に印を押して、もう一度別の人生を歩いてみるのもいいんじゃないの」 と機嫌のいいときに言ってみようかな、と桃子は母の衿足を眺めた。 母がなにを頼んだか知らないが、百円の賽銭は全く効き目がなかった。 弟の研太郎がうちを出たのである。 前から、ミシンがうるさい、といって友達のところへ試験勉強に行っていた。友達というの は男だとばかり思っていたが、女だったのである。徹夜の勉強は、外泊だった。
へ行ったときのように、胸に飛びついて、おでこをもむようにしたら、この人はどうするだろ う。あのときのように背中をさするだけか、それとも、もっと別のところへわたしを誘うのだ ろ , つか 三年も桃太郎をやったんだ。もういい加減くたびれている。 桃子になって、この人の胸にもたれかかりたい。 不意に建売住宅の間取りが見えてきた。 入った取っつきが八畳のダイニング・キッチン。奥が , ハ畳の夫婦の部屋。風呂場とトイレ。 二階が四畳半二間の子供部屋。都築のうちである。ピアノの置き場所も、近頃出の悪いという プロバンガスのポンべの位置も、見たことがあるみたいに見える。 この人には妻子がいる。 内職のミシンを踏んでいる母の顔が目に浮かんだ。誰よりも頼りにしている長女が、選りに 選って妻子のある男と それは家を出た父親を認めることになる。他人の夫を奪った父の女を許すことになる。母親 は逆上してーーー父が出ていった直後、やったようにガス管をくわえる騒ぎになる。 桃子は、手を引き、からだを離した。 あと一年。研太郎が大学を出るまでは頑張らなくてはならない。