「たノ、士しいね」 しつかりやれよという風に手を差し出した。 「めり - がと , つ」 あと何十年を生きるかわからないが、男の手をこんなにきつく握ることはもうないだろう、 とサチ子は思った。 スナック「パズル」に集太郎が入ってきたのは、夜十一時を廻っていた。 「隣りの時沢です」 少し酒が入ってはいたが、カウンターに腰を下すとすぐに峰子に挨拶をした。峰子は無言で 会釈をして、注文の水割りをつくっている。 「カミさん、なにか言ってなかったですか」 集太郎は、カウンターのルービック・キューブを廻しながら、 「この間からちょっと出てるんですがね、谷川岳へのばりますと書いてあるだけで」 「谷川岳 ? 」 氷を割っていた峰子の手がとまった。 「今まで山登りのやの字も言ったことのないやつが、なんで急に谷川岳なのか、さつばり見当
136 その晩、珍しく酔った都築は「桃大郎」の歌を歌ってくれた。祖母がよく歌っていたといご 昔の小学唱歌である。 桃太郎さん、桃太郎さん きびだんご お腰につけた黍団子 ひとつわたしにくださいな 都築はバーのカウンターに置いた桃子の手の甲を、軽く叩いて調子をとりながら歌った。 くださいな、というところで、手を重ね、しばらくそのままにしていた。 桃子は、そっと手を引こうとした。 都築は二番目に移った。 やりましょ , つ、やりましょ , っ これから鬼の征伐に ついてゆくならやりましよう 歌い終りには、また手を握るようにした。 ~ 打きましょ , つ、 ~ 打きましょ , っ あなたについてどこまでも
サチ子は嬉しくなって来た。 「あたし、これくらい」 指で四センチの傷口を示してみせた。 「あたし」 峰子も真似をしたが、こっちは二センチほど長かった。 「 , つわ、 , 入きい」 「田舎のお医者さんでしよ。すい分前だし」 「じゃあ、縫ったんでしよ」 「あなた、バチンてとめるやり方 ? 」 言いかけた峰子の顔がこわばった。ドアの入口に客が立っている。あの男だった。いつもく る現場監督風のノ・フちゃんである。 「いらっしゃいませ」 ーテンに「ちょっと 峰子は、急によそゆきの声になり、カウンターの下をくぐりぬけた。バ お願いね」と一一一一口うと、ノブちゃんにからだを預けるようにしてドアの外へ出ていった。 サチ子は急いで水割りを飲んだ。今朝の具合では、今夜も集太郎は遅いらしいが、夕食の支 度だけはしておかなくてはならない。おかずは何にしようか
よそお 粧った女と全く白粉気のない女が、カウンターを境に向き合っている。長く伸した赤い爪の 前で、マニキュアなしの短い爪は所帯じみて貧しく見えた。サチ子は、勢いをつけて水割りを のみ、激しくむせた。峰子が背中を叩いてくれた。 緊張すると咽喉がおかしくなり、むせたりするのはサチ子の癖である。 「あたし、ここ一番てとき、しくじる癖があるんです」 試験のとき、おなかをこわしたり、見合い写真を写す日に限って、鼻の頭におできが出来た りした、とサチ子はしゃべった。 「去年もそうなの。パ リにゆくってときになってーー・内職をしてる友達と、いつもシビシビ働 いてるんだから、たまには豪華にゆきましようってゆうんで、バスポートもみんな用意したの に盲腸になって」 「いけなかったの ? 」 「そ , ついうとこあるの」 峰子の青と黒で彩った目が急に人なつつこく笑いかけてきた。 「あたしも盲腸やったのよ」 「最近 ? 」 「吐日」
黙ってなかへ入り、日誌をつけている若い警官の机の上に、静かに包丁を置いて、 「水 - をください」 と言ったそうだ。 組子の傷は全治十日であった。 太い血管を傷つけていたし、潮どきというのか派手に血が流れたので肝をつぶしたが、一週 間もすれば店へ出られるという。 警察から戻った八木沢は、興奮していた。 「ひどいはなしだよ。あの男菊本っていうんだけど、錦糸町の店へ通いつめたらしいんだな。 ママに夢中になって、カウンターに坐って、結婚してください ママにすりや、客商売だよ、 いやですとも一言えないから、ええ、 しいわよ、うれしいわ。手ぐらい握らせて、そのくらいの こと毎晩言ってますよ。あの男はそれを真に受けたらしいんだな。ママ、急にこっちへ来たも んだから、人の気持踏みにじったというんで 。まあ殺す気はなかったらしいがね」 福 「よかった、大したことなくて」 幸病院の入口で落ち合った素子と八木沢は、エレベーターで病室へ上っていった。 「なんのかんの言っても、やつばり姉妹ね。あたし、大したことないって判ったとき、ばあっ
婦というほうがピッタリであった。 年よりも老けた白粉気のない顔は、おどけた女漫才師という感じだった。くすんだ色物のプ ラウスに地味なカーディガンを羽織り、スカーフで髪を引っつめに縛っている。 女ひとりなので、あっちも意外だったらしく、 「すみません。いつばいなの」 七人も坐れば満席のカウンターには、労務者風の男が目白押しに並んでいる。 いいんです。また : 意味にならない挨拶で桃子がガラス戸をしめかけたとき、急に女が、あ、と言った。 急に真面目な顔になり、スカーフを取ってお辞儀をした。おでん鍋に頭がくつつく程の、ひ どく切実なお辞儀だった。 桃子を知っている頭のさげ方であった。 ルノワールの絵の女でも、グラマーでも、悪女でもないひとだった。背負い投げをくわされ たような奇妙な気持で帰ってきた。 そのことは母にうしろめたかったが、都築とのことで埋合わせをしたような気持だった。 あのとき溺れていたら、母を一番に悲しませていた。都築はさりげなく帰っていったが、あ の晩のことが原因で自分から離れてゆくことがあったとしても、仕方がない。 おしろい
組子は、黙って数夫に酒をつぎ、素子についだ。 八木沢も何も言わず、新しい煙草に火をつけた。 ドアが勢いよく開いて、客が飛び込んで来たのはこのときである。 労務者風の若い男だった。 かなり酔っており、荒い息を吐いて入口の柱にもたれかかっている。 「いらっしゃいませ」 氷を割りながら、組子が声をかけ、あらと驚いた声になった。 「錦糸町から、わざわざ来てくれたの ? 」 傘無しで歩いて来たのか、男は頭も肩も濡れていた。 組子はお絞りを手にカウンターを出た。 「それにしても、よくここが判ったわねえ」 言いながら、お絞りで男の肩を拭こうとした。 男は、ぐうと咽喉仏を鳴らすと組子にもたれかかり、急に引きつったような顔になった。組 一口田 子がよろけた。 幸素子は、組子が男の足を踏んだのかと思った。男は二、三歩下り、からだごとドアにぶつか って外へ飛び出して行った。手に光るものを持っていたが、咄嗟には見当がっかなかった。
手伝いは遠慮してくれないかな、という意味なのだ。 「せつかくだけど、オープンの日ぐらい、お客で来させてよ」 そう答えて、八木沢を安心させた。 市の手前、遠慮しているのかも知れない。 伊豆から帰ってから、数夫からは連絡がない。々 にかく、明日のオープンには、数夫をさそい、一緒に来よう。 出来たら、数夫とならんで姉に酒をついでもらい、三三九度の代りにしよう。 「こうじ」のオープンの夜は、生憎の雨になった。 足許が悪いせいか、出足のほうももう一息で、素子が引っぱるように連れていった数夫と、 カウンターの内ともっかす外ともっかす、半端な形で立っている八木沢のほかには、初老の騁 が二人、競馬新聞に目を走らせながら、陰気に飲んでいるだけだった。 八木沢は、今夜は白い上衣を着てめかし込んでいる。安手なところはあるが、二人きりでこ つば のての男とエレ・ヘーターに乗り合わせたりすると妙に息苦しくなり、どういうわけか唾が出て 福 さとられすにのみ込もうとすると、ゴクンと言ったりする。 幸色気がある、というのかも知れない。 組子は、数夫をほとんど見なかった。
カウンターの端の若い男が、桃色の電話のダイヤルを廻している。 「武智先生のお宅ですか」 サチ子はドキンとした。 がくぶち 「朋文堂の麻田ですが。額縁をお引き受けした朋文堂の、はい麻田です。期日の件ですが二、 三日遅れますので」 あの声に間違いない 「いや、あっちは大丈夫です。八十号と六十号。静物の。それとバラの四十号」 あとは期日の打ち合わせになった。 その声が、サチ子には音楽に聞えた。 「新町。倉賀野。高崎。井野。新前橋。群馬総社」あのときの声が聞えてきた。サチ子は息苦 しくなってきた。水割りを一口で飲み干し、ガタンと立ち上った。男がちょうど電話を終えた。 自分をみるサチ子の強い視線をいぶかしく感じたらしい これもじっと見返した。三十をひと っふたつ出ているだろうか、端正な顔立ちだが暗い目をしていた。サチ子はそのまま店を出た。 地下室からおもてへ出ようとしたら階段の踊り場で、峰子とノブちゃんがもみ合っていた。 ノブちゃんは、峰子をからだで壁に押し込んで、 「よ , つよ、つ」
140 緒にうちを出て、通り道にある八幡宮へ桃子もついてきたのである。 母は賽銭箱に百円玉をほうり込むと、大きく柏手を打った。 しまりや もともと細かいたちだったが、父がうちを出て、収入が細くなってからは一層節約屋になっ ていた。賽銭は上げたところで十円玉と思っていたので、桃子はびつくりしてしまった。 母は長いこと祈っていた。 桃子は手を合わせながら、母は何を祈っているのだろうと思った。 父の帰りであろうか。それとも、父と一緒に暮す若い女の不幸であろうか。 桃子は、神にではなく、母に詫びたいことがひとつあった。 母にも都築にも内緒で、父と同居している女のおでん屋をのぞいたことがあったからである。 母には場所を教えず、絶対に行くな、行ったらお母さんの負けよ、と言っておきながら、父と 自分たちの運命を狂わせたひとの顔が見たくて我慢ができなかった。 駅裏の横丁にある小店だった。湯気で曇ったガラス戸を細目にあけると、 「、らっしゃ 威勢のいい声がした。 意外であった。 カウンターの内側に立っているから、間違いなくその人なのだろうが、ママというより掃除 さいせん