客の気持になっておもてから見てみよう。二人はそう言いながらドアの外に出て、あっと声 が出てしまった。客が入らないのも当り前で、 「只今準備中」 の札が風に揺れていた。 こういう思い出ばなしをして、肩をぶつつけあって笑っていると、天にも地にもかけがえの ない姉妹だという気がしてくる。 せわしくドアが開いて八木沢が入ってきた。 この店のオーナーである。 錦糸町でバーのやとわれママをしていた組子を引っこ抜いたのは、この男である。 「オープンに、校長先生、来ないかな」 八木沢は、このあたりにけちなゲーム・センターやスナックを二、三軒持ち、ひろげ過ぎた 分だけ手形に追われて、年中忙しがっているのだが、勇造の教え子で、今でも校長先生と呼ん でいる。 「くるわけないでしよ。自分の娘が男にお酒つぐとこは見たくないんじゃないの」 「そりや昔のはなしよ。人間て奴は、環境でころりと変るんだよ」 「変るものもあるけど、変らないものもあるわよ」
206 直子は一瞬早く立ち上り、台所から薬罐に水を入れ、コップを二つ盆にのせて持ってきた。 「はい、 ~ めりがと」 当然のように須江は受け取ると隣の部屋へ入っていった。 音を殺して沢庵を噛んでいた順子が、上目遣いに姉の顔を見た。知らん顔をしていたが、直 子は、またまた自分の持ち分を齧られた気分になった。 布団の余裕がないので、その晩、須江は直子とひとっ布団で寝ることになった。 背中合わせに横になり、目をつぶったとき、須江が寝返りを打った。 あ、と思った。 「お母さん」 低い声で言った。 「お母さん、あたしの化粧品、使っているんじゃないの ? 」 このところ、減りが激しいと思っていた。妹の順子かと疑っていたが、須江だったらしい 須江は答の代りにあくびをひとっすると、すぐに寝息を立てはじめた。 たしか火曜か水曜の夕方だった。直子は風見のオフィスを覗いてみた。 格別用があったわけではない。あと二、三日待てば金曜になり、風見は夕飯を食べにうちへ
「たノ、士しいね」 しつかりやれよという風に手を差し出した。 「めり - がと , つ」 あと何十年を生きるかわからないが、男の手をこんなにきつく握ることはもうないだろう、 とサチ子は思った。 スナック「パズル」に集太郎が入ってきたのは、夜十一時を廻っていた。 「隣りの時沢です」 少し酒が入ってはいたが、カウンターに腰を下すとすぐに峰子に挨拶をした。峰子は無言で 会釈をして、注文の水割りをつくっている。 「カミさん、なにか言ってなかったですか」 集太郎は、カウンターのルービック・キューブを廻しながら、 「この間からちょっと出てるんですがね、谷川岳へのばりますと書いてあるだけで」 「谷川岳 ? 」 氷を割っていた峰子の手がとまった。 「今まで山登りのやの字も言ったことのないやつが、なんで急に谷川岳なのか、さつばり見当
「なんも盗りやせんよ」 「盗らなくたっていけないの。うちはこれで食べてンのよ。あのうちは、黙ってなかを見る ( て言われたら、誰も預けなくなるんだから」 「爆弾入っとったらどうする」 「そんなもの入ってるわけないでしよ。先生、さあ、早く寝よ」 痰がのどにからまったような切ない咳と、布団をめくる物音がつづいて、やがて静かにな ( 校長時代は愚直なほど、曲ったことの嫌いな父親であった。 お歳暮だかお中元に、商品券を持って来た父兄があった。 菓子折と重ねてあったので母はうつかり受け取ってしまった。夜遅く帰ってきた父は即刻 してこい 、とどなり、母が夜更けに着物を着替え、出掛けて行くのを見た覚えがある。 あの父が、他人の荷物を覗いている。 多江のロ振りでは、時折あるらしい 七十歳の父は、一体なにを覗いているのだろう。何が見たいのだろう。 組子の肘が素子にあたった。 何か言いたいのか、と顔を向けると、組子が涙でいつばいの目で、泣くような顔で笑いか (
「しゃべらないほ , つがいしよ」 しいの。二人きりでしゃべるのよ、これでおしまいだもの。そうでなけりや、素子が可哀扣 だもの」 インターフォンから流れていた声が沈黙した。 素子は息が苦しくなった。 しゃべって欲しかった。沈黙は、居ても立ってもいられない怖 1 どんな辛いことでもいし さがあった。 「素子のこと、好きなんでしよ」 「好きだよ」 さっきの烈しい声ではなかった。 いつもの数夫の声だった。 「この間ね。一緒に八幡様、いったの。隣りで拝んでるあの子の肩見てたら、急に涙出て来亠 のよ。この子、何、拝んでるんだろう。一生懸命やってるのに今までいいことなかったもの このままじゃ、あんまり可哀相だもの」 数夫が何か言いかけた気配があって、スイッチが切れた。入ってきた年輩の看護婦が事務 な手つきでスイッチを切り、立っている二人を不思議そうに眺めた。
入り、コーヒーを頼んだ。巻二の「情を入れし樽屋物語」をひらいた。 「恋に泣輪の井戸替、身は限りあり、恋は尽きせず、無常はわが手細工の棺桶に覚え、世を渡 る業とて錐鋸のせわしく」 コーヒーカップを持ち上げると、まだ手が震えていた。うしろの現代語訳をめくった。 「人の命には限りがあるが、恋路はっきることがない」 目は字を追っているが、気持はあの声を聞いていた。たしか「朋文堂の麻田」といっていた。 気がついたら、立って、職業別電話帳をめくっていた。絵画材料額縁のところに朋文堂があっ 「モシモシ、朋文堂ですが」 ダイヤルを廻したら、あの声が出た。サチ子は電話を切り、住所をメモに書き込んだ。手が ひとりでに動いているという感じだった。 朋文堂は二つ隣りの駅前にあった。 かなり大きな店で、麻田のほか、二、三人の店員がいた。麻田がたばこを喫いながら、女店 員とふざけているところをみると、まだ峰子の事件を知らないらしい 「あのオ」 ロごもりながら、サチ子は小さな声で告げた。 きりの、一ギ一り
「あれからすぐ北海道へ出張してたもんだから : : : 」 くじいた足の具合を聞いてから、大きな四角い箱を突き出した。 「じゃがい - も、嫌いか - な」 大好き、と言おうとしたが、 直子は鼻がつまって声が出なかった。いったん玄関に出てきた 彡、冫が、手洗所の前でダンダラ縞の靴下を脱いでいるのが目に入った。 風見が帰ってから、直子は掃除機の先のほうを使って、玄関の屋根にプラ下っていた、若布 のアンダー・シャツを取った。 「なにも夜中にやらなくたって、明日の朝だっていいじゃよ、 須江はそう言ったが、直子は朝まで待てなかった。妹の順子が小馬鹿にしたような顔をした が、直子は少しも気にならなかった。 週末ごとに風見が遊びにくるようになった。 直子は、二人きりで外で逢いたいと思ったが、どういうわけか風見はうちへ来たがった。 ビャホールで生ジョッキをあけると、直子を送りがてら寄って上ってゆく。お茶漬やカレー ライスの残りものを出すと、お代りをしてよく食べた 「近頃の若い人はしつかりしてるねえ。うちで食べりやお金がかからなくていいものねえ」
れというが、戻るか戻らないかは五分五分だなと言いながら、年輩の主人はニューヨークの 着き先のメモを渡してくれた。友人のアトリエだという。サチ子の名前も間柄もたずねなか ( 端の赤くなったあの札がミシンの抽斗に入っていると思うと、夜、集太郎の手が伸びてき一 も、抱かれる気にならなかった。 暗い中で激しくあらがい、布団からせり上ってミシンの下に入り込んでしまったりした。 「くたびれてるの。ごめんなさい」 「内職なんかやめちまえよ」 集太郎は寝返りをうって、背を向けた。 浮気ならまだ言いわけは立っと思った。金で売った形になったからだだと思うと、それだ は気がとがめた。 夜だけでなく、昼もサチ子は落着かなかった。 廊下へ出ると、主婦たちのヒソヒソばなしが急にやむような気がした。峰子が皆につげロ宀 するのではないか。いっかはあの集太郎の耳にも入るのではないか。買物にいって一万円札 + 出すとき、みなが見ているようで手が震えた。このままでは駄目になる、と思った。内職で一 めたへそくりの定期を解約して旅行社へいった。・ ヒザをとりニューヨークまでの航空券を買 (
「どういうつもり、してるんだろう」 須江は陰口を利いていたが、ロほど腹を立てていない証拠に、週末になると、独身の男の喜 びそうな、煮〆めやおでんを用意するようになった。今までは、用にかまけて、おかずは出来 合いのお惣菜やで間に合わせていたのだが、出汁をとって物を煮る匂いが台所から流れるよう っ ) よっこ。 「もう来ないと思ったわ」 二人だけのときに、直子は思い切って言ってみた。 「レっして」 「だって : : : あたし、見栄はったから」 「見栄はらないような女は、女じゃないよ」 さゆ おそましいとは思わず、可愛いと思ってくれているんだわ。直子は、嬉しいときには、白湯 を飲んだように胸のところが本当にあったかくなることが判った。 夏が終って、庭や縁の下で虫が鳴くようになると、金曜日の晩は風見が来て食事をするのが 来 習慣になった。 春 いつの間にか、風見の席が決っていた。今まで父の周次が坐っていた場所である。周次は横 にどき、まだ開いていないタ刊を先に風見にすすめた。
2 周次は、三人の女を順に見て、それから低い声で呟いた。 「あんたも、大変だなあ」 次の木曜日の夕方。直子は喫茶店で風見を待っていた。 鏡に人待ち顔の自分の姿がうつっている。父は広告会社の重役だの、母はお茶お花の心得が、 とつい見栄をはってしまったあの店である。 自惚れを差し引いても、あの時分にくらべると、少しは女らしく華やかになったような気が する。着ているものも、前みたいにドプネズミ色ではなくなったし、何よりも、相手が決った という落着きが、内側から髪の毛や肌に艶を与えてくれるらしい 風見が入ってきた。 煙草に火をつけるのを待って、直子は切り出した。 「毎週金曜日にうちへご飯食べにくるの、一週置きにして欲しいの」 風見が何か言いかけたが、直子はかまわすつづけた。口下手なのは自分でも判っていたが、 これだけはどうしても言っておかなくてはいけよ、。 「うちへくると、どうしても、家族ぐるみでつきムロうことになるでしよ。でも、それは結婚し てからでいいと思うの。考えてみたら、あたし、あなたと一対一で、ちゃんとご飯食べたり話