から聞えてくる。 いきなり激しい音がした。・ カラスの器かなにかを壁に叩きつける音らしい。男と女の争う亠 がそれを追って聞えた。サチ子のミシンは、ひとりでにゆるやかになっている。 「ふざけるなよ」 「シオドキってのはどういう意味だ」 「誰なんだよ」 「ぶつ殺してやる」 これは男の声である。 「乱暴するんなら出てってよ」 「そんな人、いないわよ」 「なにすンのよ。離して」 女の声も激してくる。 もみ合う気配がして、 女 の「ガラス、あぶないでしよ」 女の声が甘える調子になってゆく。 隣 サチ子はミシンを離れ、壁ぎわに近づいて耳をすませた。
「どこかよそへいってやったら、問題だろ」 「結婚ていうのは、家庭っていうのは、大きいあくびをするところですか」 夫の答は、もっと大きいあくびだった。 バジャマに着替える夫に背を向けて、サチ子は台所へ立った。蛇口をいつばいにひねり、コ ップに水が溢れるままにしてじっと立っていた。豊かな、溢れるほど豊かな女もいる。からっ ばな女もいる、と思った。「上野。尾久。赤羽。浦和大宮。宮原。上尾。桶川」あの声がま た聞えてきた。 夜のあったことが嘘みたいな朝がきた。 うしろめたい濁った空気は朝刊と朝の牛乳が追っぱらってくれるらしい。男も女もキビキビ と働き者になる。サチ子も集太郎を送り出し、ミシンを掛けはじめた。何だかガス臭いような 気がするが、多分気のせいに違いな、。 サチ子はふと手をとめた。壁の向うに気配がある。女のうめき声がする。男のうなり声が聞 女 やもり のえる。守宮のように壁にからだをくつつけて聞いている自分の姿が鏡にうつっていた。 隣「あ、嫌だな」 朝だけに、余計おぞましかった。振り切るように、レコードをかけた。バッハを大きくかけ
婦というほうがピッタリであった。 年よりも老けた白粉気のない顔は、おどけた女漫才師という感じだった。くすんだ色物のプ ラウスに地味なカーディガンを羽織り、スカーフで髪を引っつめに縛っている。 女ひとりなので、あっちも意外だったらしく、 「すみません。いつばいなの」 七人も坐れば満席のカウンターには、労務者風の男が目白押しに並んでいる。 いいんです。また : 意味にならない挨拶で桃子がガラス戸をしめかけたとき、急に女が、あ、と言った。 急に真面目な顔になり、スカーフを取ってお辞儀をした。おでん鍋に頭がくつつく程の、ひ どく切実なお辞儀だった。 桃子を知っている頭のさげ方であった。 ルノワールの絵の女でも、グラマーでも、悪女でもないひとだった。背負い投げをくわされ たような奇妙な気持で帰ってきた。 そのことは母にうしろめたかったが、都築とのことで埋合わせをしたような気持だった。 あのとき溺れていたら、母を一番に悲しませていた。都築はさりげなく帰っていったが、あ の晩のことが原因で自分から離れてゆくことがあったとしても、仕方がない。 おしろい
づけはじめたサチ子に、 「いいよ。鼻の先でバタバタするなよ。ハナシだよ、ハナシ」 あくびをしながらバジャマに着替える集太郎に、サチ子はやはりあのはなしをしないでは、 られなかった。 「隣りのひとね」 「隣り ? ああ、スナックの。あれはやとわれママか」 「あのひと、凄いのよ」 サチ子は親指を立ててみせた。 「二人もいるんだから。それも一日に二人よ」 「よせよ」 自分も同じ手つきをして集太郎は露骨に嫌な顔になった。 「女がこういう手つきするの、嫌いなんだよ。素人の女のすることじゃないよ。下品だよ」 「じゃあ、ど , っすりやいいの」 女 の「ロで言やあいいじゃよ、 隣「オトコって一言うの。そっちも下品みたいだけどなあ」 男がどうしたんだよ」
「兄弟なのに、駄目じゃないの。もっとも、そんなものかも知れないわねえ。あたしたちだ一 て似たようなもんだ」 それから素子に向って、いっ頃からのつきあいなの、とたずねた。 素子は、割に最近よ、と答え、 「びつくりした ? 」 と姉の目のなかをのそき込んだ。 「どうしてあたしがびつくりするの」 好奇心をあらわに見せて、食い入るように三人を見ていた勇造が、いきなり数夫に飛びか、 り殴りつけた。 老人とは思えぬすばしこさで、あっけにとられ無抵抗の数夫を更に二つ三つブン殴り、驚、 て止めようとする女三人をはねのけた。 「とめるな。こういう人でなしはな 咽喉をぜいぜいいわせながら、折り重なるようにしてからだごととめる女たちを振りはら て叫んだ。 「お前はな、女の一生を滅茶苦茶にしたんだそ。それをよくものめのめと」 組子が割って入った。
「どうしよう。あたし、大変なことしちゃった」 こわい、こわいとすすり泣くサチ子を麻田は抱きしめ、またべッドに誘った。恐い分だけ、 陶酔も激しかった。 「不義者成敗 ! 」 立ち腐れた地蔵堂の扉があいて、侍姿の集太郎に斬られる夢を見た。サチ子は自分から麻田 に溺れていった。 はじめて見る実物の自由の女神は思ったよりけわしい顔をしていた。 「あれ、何を持っているの」 「右手はタイマツ。左手は独立宣言書だったかな」 「自由と独立 : : : 」 「女はそういうことば、好きだね」 「持っていないからよ、女は。結婚したら二つとも無くなってしまうもの。人を好きになっち ゃいけないのよ。恋をするのも罪なのよ。昔は殺されたわけでしよ。結婚した女は死ぬ覚悟で 恋をしたのよ」 言っていると、またたかぶってくる。
1 4 隣りの女向田邦子 隣り 文春文庫 夫の給科をやり繰りして、食事の 用意と掃除洗濯と内職て、毎日が過 ぎていく平凡な主婦に訪れた亦 西鶴の現代版ともいうべき人妻の 恋の道行きを描いた表題作をはじ め、ハイミスの徴妙な恋心を衝い た「幸福」「胡桃の部屋」、著者の 絶筆となった「春が来た」、他に 「下駄」を加えた短編の名手が遺し た珠玉の五編。解説・浅生憲章 著者紹介 向田邦子 ( むこうだ・くにこ 昭和 4 ( 1929 ) 年東京生れ。実践女 子専門国語科卒業。映画離誌 編集記者を経て放送作家となりラ ジオ・テレビて活躍。代表作に「だ いこんの花」「七人の孫」「寺内貫太 郎一家」「阿修羅のごとく」「隣りの 女」等がある。 55 年には初めての 短篇小説「花の名前」・「かわうそ」 「犬小屋」て第 83 回直木賞を受賞し イド家活動に入ったが、 56 年 8 月航 空機事故て急。著書に「父の詫 び状」「無名仮名人名簿」「霊長類ヒ ト科重勿図鑑」「眠る盃」「思い出ト ランフ。」「あ・うん」などがある。 向田邦子の本 父の詫び状 あ・うん 無名仮名人名簿 隣りの女 霊長類ヒト不カ物図鑑 女の人差し指 向田邦子全対談 文春文庫 む 1 む I S 白 N 4 -1 6-7 2 7 7 0 4 - 2 定価 340 円 P 5 4 0 E C 01 9 5 ( 本体 330 円 ) カバー・風間完
それでなくてもうしろめたいのが、家庭のひとことで、サチ子は顔が上げられなくなった。 「いやだわ。奥さんがうつむくことないじゃないの、みつともないことしたの、あたしなんが から、はなしが一よ」 「どこのうちだって、突っけば、みつともないことのひとつやふたっ、あるんじゃないの。 互いさまよ」 「今日あたり、そういうことを一言われると、こたえるなあ」 廊下へ出ると、アバート中の女の視線が矢のように体中に刺さる。やさしいのは奥さんだけ よ、としんみりした声になった。 「盲腸の友だから」 サチ子のことばに、峰子も少し笑って、盲腸の友ということで、少し用立てて欲しいと切り 出した。銀行へおろしにゆくと、またじろじろと見られて辛いので、二、三枚当座の分を貸ー てくれないかという。サチ子は、ミシンの抽斗に入れておいた、例の札を出して、二枚渡した 手刀を切って受取った峰子は、「助かります」と言いかけ、札をひっくりかえして調べてい 女 のる。 隣「どうしたの、ニセ札 ? 」 「おかしなことあるもんねえ。世の中にはあたしと同じ癖のある女がいるのかな」
の女たちに吊し上げをくっているらしい 峰子がアパート 「多少のご迷惑かけたことはお詫びしますけどねえ。別に人のもの泥棒したわけじゃなし、 われたガラス入れ替えりや、なにもアパートを出てくことないと思いますけどねえ」 三、四人の主婦が峰子を取りかこんでいるらしい。聞き覚えのある女たちの声が飛び込ん一 きた。 「どこ行っても一言われるのよ。ああ、あのアパートって」 「なんかあたしたちまで乱れてるみたいに言われてねえ」 「乱れてる ? 」 峰子の声が大きくなった。 「近頃は家庭の主婦のほうが、ずっと乱れてるんじゃないんですか。金と引き替えに男にか《 だ売ってる奥さんも多いって聞いてるけど」 多勢に無勢の峰子をかばったつもりなのだろう、管理人が助太刀をした。 「そういやあ主婦売春てのよく聞くわねえ」 女 のサチ子は三枚の紅のついた札をもったまま凍りついて動けなかった。 隣 朋文堂をたずねると、麻田はもうニューヨークへ発ったあとだった。ひと月ほど休ませてノ
二人は時々、うなったり声をかけ合ったりしながら指角力をしている。それは互いに認めム一 い許し合う儀式であった。素子は、姉の組子を突っいて起した。姉と妹二人が大事にしてい ものを、認めてもらったという感じだった。こういうとき、姉に対するわだかまりはどこへ をかくすのか、姿も見せないから不思議である。 隣りの部屋からいびきが聞えるのは、多江である。 なにかというと、元校長の人生を棒に振らせた女だと言い 「罪が深いわねえ」 くび 思い入れたつぶりに見得を切ってみせたりするのだが、月 巴って猪首なものだから、稀代の亜 女のつもりらしいが、こけし人形にしか見えない。 どういういきさつでこうなったのか知らないが、楽天的な若い女にかしすかれ、空気のい ところで、ときどき、客の荷物を覗いて叱られたりしている毎日は、父の人生のなかで一番翠 せなときではないかと思えた。 多江が大きな声で寝言を言った。 組子の店のオープンが決った。 表通りの和風スナック「こうじ」である。