と須江に言われて以来、律義にその役を引き受けている。 「そのへんでバチンコでもしてるんじゃないの」 「二時間もバチンコしてるかねえ」 直子と須江の間に、、きなり順子が割って入った。 「お父さん、家出したんじゃないかな」 「家出 ? 」 「なんだって風見さん、風見さんだもの。お父さん、面白くなかったのよ」 順子はちゃぶ台の上の布巾をめくり、おかずのつまみ食いをしながら、こう言った。 まったけ たしかに、初物の松茸を貰えば、風見さんがみえたときまで取っておこうという按配で、た だでさえ影のうすい周次は、このところ居候扱いだった。 「お父さんにそんな度胸がありや、お母さん、こんなに苦労してやしないわよ」 須江はもう一度柱時計を見上げ、本当に遅いねえと言いながら、台所へ立っていった。 順子も玄関へ立ってゆき、おもてをのそいているらしい。直子がひとり茶の間にポツンと残 つつ。 あたしより、お母さんや順子のほうが気をもんでいる、と思った。悪い気持はしないが、自 分の取り分を齧り取られているような、ヘンな気分もすこしあった。 ふきん
146 女だてらに父親気取りで、部隊長みたいな顔をして、号令かけて おかしくて涙が出てきた。 よろ 女としての本当の気持を封じ込め、身も心も固く鎧ってすごした三年だった。 くるみ 胡桃割る胡桃のなかに使はぬ部屋 いつどこで目にしたのか忘れたが、桃子はこんな俳句を読んだ覚えがある。たしか詠み人 らずとなっていたが、 気持の隅に引っかかっていたのであろう。 甘えも嫉妬も人一倍強いのに、そんなもの生れつき持ち合わせていませんという顔をして」 たたが、薄い膜一枚向うに、自分でも気のつかない、本当の気持が住んでいた。今から気 '% ついてももう遅いのだろうか。実りはもうないのだろうか。渋皮に包まれた、白く脂つば、 桃の実は、母の衿足である。 父が家を出ることをしなかったら、母は痩せたギスギスした女として一生を終ったに違し しま使わぬ部屋に新しく口 ふつくらと肥って、いそいそと父に逢いに出かけていた母は、、 を踏み込んでいる。 濡れた髪に、美容師が鋏を当てている。思い切って耳の下で切りおとしてもらった。頭の岫 かつば 肌にピタリとくつついたお河童は、子供の頃、絵本で見た桃太郎とそっくりであった。 「胡桃割る胡桃のなかに使はぬ部屋」の作者は鷹羽狩行氏です (
ミシンは正直である。 機械の癖に、ミシンを掛ける女よりも率直に女の気持をしゃべってしまう。 いつものあの声が聞えてくる頃合だから、あんな声なんか聞きたくないから、いつもの倍 7 激しくガーと掛けなくてはいけないと思っているのに、 ミシンはカタカタカタとお義理に音学 立てている。 自分の気持を見すかされているようで、サチ子は噛みつくように激しく掛けた。こわれたし ころで、どうせ借りもののミシンである。下請けのプラウスは一枚上げれば千二百円になる ちゃんと月給を運んでくる夫がいるのだし、まだ子供もないのだから、アクセクすることは 4 いのだが、遊んでいても勿体ない。貯金も増やしたい。そう思いながらもサチ子はうしろの が気になって仕方がない。 二のつましいアバートである。居間兼食堂の六畳の、ちょうどミシンを踏んでいるサ→ 子の背にあたる白い壁に、泰西名画がかかっている。勿論複製である。声はいつもそのうしラ
二人は連れ込みホテルへ入っていった。 「いっ頃なの、それ」 「半年ぐらい前かな」 風船に針で穴をあけたように、体中の空気が抜けてゆくのが判った。 桃子はその足で美容院へ飛び込んで髪を切った。セットの代金を惜しみ、三年前から、 マもかけずにいた髪は肩のあたりまで伸びていた。 何かしないと、気持の納まりがっかなかった。このままの気持を母にぶつけたら、どんなこ とばが飛び出すか見当がっかなかったからである。 仰向けに寝て髪を洗ってもらっていると、改めて腹が立ってきた。 半年前といえば覚えがある。 母が身の廻りをかまうようになり、内職仲間で離婚したひとたちの身上相談を持ちかけられ ている、といっては外出するようになった時期である。 屋 外で父と逢っていたのだ。父がうちにいた頃よりも、もっと女らしくなった。 胡これでは母のほうが愛人ではないか。わたしはこの三年、なにをしてきたのだろう。 ハンチ 人生はワン・ツー
婦というほうがピッタリであった。 年よりも老けた白粉気のない顔は、おどけた女漫才師という感じだった。くすんだ色物のプ ラウスに地味なカーディガンを羽織り、スカーフで髪を引っつめに縛っている。 女ひとりなので、あっちも意外だったらしく、 「すみません。いつばいなの」 七人も坐れば満席のカウンターには、労務者風の男が目白押しに並んでいる。 いいんです。また : 意味にならない挨拶で桃子がガラス戸をしめかけたとき、急に女が、あ、と言った。 急に真面目な顔になり、スカーフを取ってお辞儀をした。おでん鍋に頭がくつつく程の、ひ どく切実なお辞儀だった。 桃子を知っている頭のさげ方であった。 ルノワールの絵の女でも、グラマーでも、悪女でもないひとだった。背負い投げをくわされ たような奇妙な気持で帰ってきた。 そのことは母にうしろめたかったが、都築とのことで埋合わせをしたような気持だった。 あのとき溺れていたら、母を一番に悲しませていた。都築はさりげなく帰っていったが、あ の晩のことが原因で自分から離れてゆくことがあったとしても、仕方がない。 おしろい
うちのために、自分は曲ることはできないのだ。気持がめげそうになったら、今までもそう したように鶯谷駅の・ヘンチに坐って気持を鎮めればいし 父に対する怒りや恨みは、三年の年月で大分風化はしているが、まだおまじないぐらいの効 き目はある。 母親が小さく二つ手を叩いた きめ 三年前にくらべると別人のように肥った母は、肥ったせいか肌理が細かくなった。うつむい た衿元が、木洩れ陽に光って、妙に女らしい ひと頃は、顔にも物腰にもやつれと恨みが滲んで、我が親ながら浅間しいと思った時期もあ ったが、そういえば、この半年ほどはゆったりとしてきた。 「諦めて離婚届に印を押して、もう一度別の人生を歩いてみるのもいいんじゃないの」 と機嫌のいいときに言ってみようかな、と桃子は母の衿足を眺めた。 母がなにを頼んだか知らないが、百円の賽銭は全く効き目がなかった。 弟の研太郎がうちを出たのである。 前から、ミシンがうるさい、といって友達のところへ試験勉強に行っていた。友達というの は男だとばかり思っていたが、女だったのである。徹夜の勉強は、外泊だった。
救急車にかつぎ込まれる二つのタンカを、サチ子はばんやり見ていた。 「、い中だってさ」 「死んだの ? 」 「急はあるらしいって」 というアバートの連中の声が聞えた。・ カラスで切ったらしく手首から血が出ていることには じめて気がついた。 「お隣りっていってもまだ越して三月ですから。いえ、うちじゃなくて、お隣りさんです」 サチ子は生れてはじめてテレビのマイクを向けられた。 「親しいってほどじゃないです。ゴミの車、今日は遅いのね、なんて言うくらいの , ーーあら、 もううつってるんですか。やだ、こんな格好で」 今日に限って、髪にクリップはくつついているし、よれよれのプラウスである。 「現場へ飛び込んだときの気持は」 「もう夢中っていうか、夢中ですね」 どういうわけか、ハアハアと息が弾んでしまう。 「こういうの生れてはじめてなんです。ほら、毎日って普通でしよ。自分のまわりには、自殺
「キヤキャって何語よ」 「お母さんが英語使えるわけないだろう」 もう理屈は何でもよかった。やり切れない気持をぶつける相手が欲しかった。 「嫌がらせしてるんじゃないかな」 「あたしのことかい」 「あたしが結婚すると、困るもんね」 月給の半分をうちに入れていることをあてこすりにかかると、須江は先手を打ってきた。 「誰も困りやしないよ。遠慮しないでどんどん行っておくれ」 母親のくせに、娘のさわられたくないところをグサリと突いてくる。粗くなったのは皮膚だ けではないのだ。 「貰ってくれる人なんかいるもんですか。親の顔みたら、さっさと逃げ出すわよ」 「親はいつまでも生きちゃいないよ。本人の魅力の問題じゃないの」 ちゃぶ台の茶碗に手が伸びかけた。 思い切ってぶつけたら、すこしは胸も晴れるかと思ったが、直子の気をそらすように父の周 からせき 次が空咳をした。 「お母さんだって、好きでこうやってンじゃないよ」
ビールを飲みながら、また歩いた。 「あんた見ていると、苛々するんだよ」 八木沢は数夫の顔を見ないで言った。 「惚れたのなら惚れたでいいよ。どうしてはっきり言わないの」 数夫のくぐもり声がポツンと答えた。 「判んないことは、一一 = ロえないよ」 三人の前を、猫が横切った。 どこへなにしにゆくのか、牡なのか牝なのか、身のこなしでは、まだ若猫らしい 立ち腐れた工員寮のなかへ消えていった。 「気持ってやつは見えないから」 「見えなきや判んないか」 数夫は無言で、ビールの泡をすすり込んでいる。 「でもねえ、やる奴あやるんだよ。判んなくたって見えなくたってーーー判んないから、見えな いから、尚やるんだよ。かなわないよ、あんた、あの男にさ。今晩、ママを刺したあの男に 返事のないやりとりには、三人の足音が、問になり答になった。
炻 8 天気も、 しいことだし、アルコール分はすぐ飛んでしまうだろう。匂ったら匂ったで、誰か宀 達でも来たのだろうととばけていれば済むことだ。 浩司は、、きなりかけ終った一升瓶を浩一郎のほうに突き出した。底のほうに三センチほ 酒が残っている。 墓石に酒をかけろという意味かと思ったが、浩司は、瓶のロを掌で拭い 「おたくから先」 と一一一口った。 父の墓前で酒を飲みかわすつもりらしい 芝居っ気というかわざとらしいというか、気恥かしいものもあったが、 初秋の朝は肌にさ合 りとして気持がいし のんびりした小鳥の声を聞いていると、大したことでもないのに、異をとなえるのがつま合 なく思えて来た。 「おたくから、どうぞ」 また浩司が言う。 浩一郎は、手荒いしぐさで一升瓶を引ったくった。 「いつべん言おうと思ってたんだ。『おたく』ってのは、もうよせ」