「あたしは失礼するわ。寄るとこあるから」 わざと亠尸を落して、さりげなく一一 = ロうのがコツである。 「また鶯谷ですか」 「結婚式のあとは恋人のとこへ寄りたくなるものですか」 イエスもノーも言わず、意味をもたせて目だけで笑って別れるやり方も、此の頃覚えた。 んなわけで、桃子はいま、鶯谷駅のホームに坐っている。 やり切れない気持になったとき、張りつめていた糸がブツンと切れそうになったとき、桃子 は鶯谷駅のべンチに坐りにくる。 恋人なんて居るわけがない。 居るのは歩いて十分ほどのところに、若い女と一緒に住んでいる父親である。 桃子の父親がうちを出たのは三年前である。 中どころの薬品会社につとめ、堅物で通っていた父である。母親、桃子の弟と妺。家族五人 ぜいたく 贅沢の味は知らなかったが、暮しに不自由することはなかった。 ところがある日、いつものように出勤したきり、父親は帰ってこなかった。徹夜マージャ、 や外泊などする人間ではなかった。事故を心配して、次の日勤め先へ電話した母親は、一月
120 る。逆上して、お前、そこの場所知っているんだろう、さあすぐ連れていっておくれ、とい , ( ことになりかねない。かえっていけないと思ったのよ。これからは、嫌なことはわざと大き 4 声で面白そうに言うからね。そうしないと、切り抜けてゆけないと思うのよーー・そんな気持 こめて母親の背中をさすってやった。 桃子の手を振りはらうようにして、母親が呟いた。 「お母さん、一所懸命尽したと思うけどねえ、お父さん、何が不服だったんだろう」 その一所懸命がいけなかったんじゃないの、と言いたかった 「このうちには、ユーモアの判らん人間がいるなあ」 いつだったか、夕食の席で、父親がこう言ったことがあった。 そう言った父親が、およそューモアとは縁のない面白くもおかしくもない人間だから、桃マ はおかしくなったが、台所から醤油つぎを持って入ってきた母親は、聞き捨てにならないと、 う感じで、ムキになった。 「お父さん、それ、あたしのことですか」 「なにもお前だって言ってやしないよ」 「じゃあ誰なんですか」 「まあいいじゃよ、ゝ
128 電話ロのことばも、いつも同じであった。 例の件というのは、父親のことだが、本当に相談が必要だったのは、一年目までである。 父親のアバートは、都築と相談で、桃子も知らないことにしてあったのだが、母親がどうし ても教えてもらいたいと都築の新しい勤め先に乗り込んだり、はじめの一年の間にはかなり昻 ぶった一幕もあった。桃子自身も、母親とは別に、父と二人だけで話したいと、仲介を都築に 頼んだが、いずれも不成功に終った。 「合わす顔がない」 「申しわけないが死んだと思ってくれ」 二つの答が都築を通じて交互に返ってくるだけだった。 家族に乗り込まれるのをおそれるのなら、住まいを替えればよさそうなものだが、父は鶯谷 の最初のアバートを動かなかった。一緒に暮らしている女のやっているおでん屋がすぐ近所に あるらしい あれは父が家を出て半年目だったろうか。 今日こそ直談判しようと、桃子は都築にも内緒で鶯谷へ出かけたことがある。 夕方近くだったが、 駅前の大通りを曲ろうとしたところで、父と出逢ってしまった。 父は小さなスー バーから、買物かごを抱えて出てきたところだった。
前に会社が倒産していたことを知らされた。 ふつかよい 「お父さん、弱味見せない人だったから。宿酔でも口を押えて会社へ行く人だったから。会拜 潰れたって言、こ し。くかったのかねえ」 「お母さんがいけないのよ。二言目にはお父さんを見なさいって奉るんだもの。お父さん あとに退けなくなっちゃったのよ」 母娘喧嘩をしてみても、あとの祭りであった。 父親からは、三月たってもウンともスウとも言ってこなかった。母親は毎日少しすっ痩せプ いった。思いあぐねた桃子は、父の部下だった都築をたずねた。 「自殺も考えられるし、やつばり捜索願を出したほうがいいんじゃないでしようか」 流行らない喫茶店だった。 冷えたコーヒーには膜が張っていた。 父親よりひと廻り下だから、もうすぐ四十の都築は、立てつづけに煙草をふかしてから、 「三田村部長は生きてますよ」 言い難そうに呟しオ 鶯谷のゴミゴミした露地奥のアバートに住んでいるという。 どうしてそんなところにーー叫びかけた桃子のロを封じるように、都築は煙草の輪と一緒に たてまっ
今の父親は、そんなことを一一 = ロう筈もないが、言われたら、こう言い返すつもりでいる。 「人を好きになるのに、理由はないでしよ。お父さんだってそうじゃないの」 父親の勇造は、伊豆のさびれかけた観光地で女と暮していた。 「びつくりしないでね。相手の人、すごく若い人だから」 と数夫に釘をさしておしたが、 、、 ' 一緒に暮している多江はたしか四十を二つか三つ出たところ である。十年前、釣に出掛け、荷物一時預かりの店をやっていた多江と知り合って、妻子を捨 てたかたちで伊豆へ行きっきりになってしまったのである。 母親の生きていた間は素子も父を恨み、一生許すまいと思っていたが、母を見送り父も高血 圧を抱えていると聞いて、この二、三年、正月には顔を出すようになっていた。 伊豆へ着いたのはかなり夜更けである。 レジャー開発から見放された駅は、旅館の客引きの姿もなく、暗い電灯に羽虫がむらがって 勇造の、いや多江の店は、駅から歩いてひと息の海沿いの旧街道にある。 「釣竿貸します」 木切れに書かれた一点一劃もおろそかにしない肉太の筆の字を、 「これ、お父さんの字」
124 毛玉の出た古いセーターをを着るときは楽しそうに笑って着たほうが惨めでなかったからだ。 少しでもおかしいものをみつけたら、笑えるときに笑っておきたいと思ったから。笑って自分 をはげましたいと思ったからである。 思わせぶりに笑って旅行にゆかなかったのは、費用が惜しかったからだ。遊ぶ暇があったら、 母親の手伝いをして、洋裁の内職の裾かがりをしたほうがいい すべてが八方ふさがりであった。 いつまで待っても、父親は帰ってこなかった。 桃子は、勤めから帰ってアバートの窓が見えてくると、自分たちの部屋だけ明りが暗いよう に思えた。ドアの前で大きく深呼吸をして、 「ただいまア」 勢いよくなかへ入った。 甘いものの好きな母のために、安いケーキや甘栗の包みを提げて帰ることもあった。いい知 らせを持って帰れない代りに、温いものか甘いものを抱えて帰りたかった。 口を動かしているときだけは、母親の愚痴を聞かずに済んだ。食べものでロ封じをしたせい でもないだろうが、母親はよく食べるようになった。 どちらかといえば食の細いほうだったのが、
に 6 講義をやりくりしてアルバイトにはげみ、姉を助けようという気働きもない代り、学生運 だの女の子とのつき合いで曲ったりしないのが取柄である。 妹の陽子も頼りにならなかった。やっと高校生の女の子だから仕方がないが、頼りになら 4 い以上に、この妹には目の離せないところがあった。 出来損いといってしまうと身も蓋もないが、すこしゆるんだところがある。欲しいとなるし 見境いがなくて、子供の時分、よく菓子屋の店頭のアイスクリーム・ポックスから、二つ三 ( 取り出してはうちへ持ってくる。母親が金を持って謝りにいった。金魚屋のあとについて行 てしまい、警察沙汰になったこともあった。 ' 学校の成績も群を抜いて悪かった。 「貰ってくれる人があったら誰でもいい。間違いを犯さないうちにお嫁にやらないと」 父親も母親もそう言っていた。 この妹に対してお手本になるためにも、桃子は品行方正であらねばならなかった。 桃子にとってたったひとつの息抜きは、父のことを聞くために都築と逢うことであった。 「鶯谷はどういうつもりなのかしら」 はじめの一年はお父さんと言っていた。次の一年は、あの人になり、三年目に入って、鶯 3 と呼ぶようになっている。 「鶯谷ねえ」 ふた
湯なんですよ」 母の須江は風呂道具を下駄箱の上に置きながら言いわけがましく言っていたが、そんなこと ・は、も , ついいのに。 暗い電灯の下に並んだ家族を見たら、大抵の男は嫌気がさすに違いない。 「直子がいつもお世話になってます」 てつべんが里芋になった頭を下げて挨拶した父の周次は、ダランと伸びた、玄関の屋根にひ ・シャツ姿だった。娘の男友達が来ているのに、シ つかかっていたのと五十歩百歩のアンダー 口下手なたちで、挨 ャツを羽織ろうということも思いっかないのだろうか。人は好いのだが、 拶が済むとあとは陰気に押し黙っている。 母親のいれてくれたお茶は、安物のせいか会社のよりひどい茶色をしていた。茶碗も無神経 な代物である。父親の羽振りのよかった頃、母親がお茶とお花をやっていたのは事実だが、床 の間には茶箱は積み上げてあっても花一輪ない暮しでは、ホラを吹いたといわれても弁解は出 来なかった。 一番恥を掻かせてくれたのは妹の順子だった。高校三年生だが、風見がお愛想のつもりだろ う、詩が入選したときのことを話題にした。 「賞金の五万円、なんに費ったの ? 」
受話器を取ったのは、中学三年の妹陽子だった。 「晩ご飯食べちゃった ? 」 「お姉ちゃん待ってたんだけど、おなか空いたから、いま食べようって言ってたとこ」 うなぎ 「よかった。とっても嬉しいことがあったから、お姉ちゃん、鰻おごるから、待っててよ」 「嬉しいことってなによ」 「食べながら話す」 父親が食卓に並ばなくなってから、食べものは目に見えて粗末になっていた。鰻重など久 1 ぶりのことである。 「月給でも上ったのかい」 母親は、お母さんま、、 のこ、勿体ない、と言いながら、それでものろのろと口を動かし 大学二浪の弟研太郎は泡くって掻き込んだものだから、つつかえたりしている。妹が 「なんだか気味悪いなあ、夜中に一家心中なんていうの、やだからね」 とおどけたところで、桃子はわざと陽気に切り出した。 屋 の「お父さん、元気だったのよ」 胡みなの箸が止った。 「仕事が見つかったら、帰ってくるつもりじゃよ、
「よくありませんよ 。ハッキリ言ってくださいな」 「くどいな。そういうのをユーモアがないっていうんだ」 はた目から見れば、これもユーモアの一種だろうが、失意の父がうちへ帰るのがうとましく なった理由はこの辺にあるのかも知れないという気がした。 母親は行き届いた女だった。整理整頓が好きで、いつ、誰にどこの抽斗をあけられても恥か しくない、といっていた。家計簿も一円の間違いなくつけるが、日常茶飯でも、曖昧を嫌がり えりもと ハッキリ黒白をつけないと気が済まないというところがあった。着物の着つけなども衿元をゆ ったり着ることが出来ず、キュッと詰めて着ていた。 父と一緒に暮らしているおでん屋のママというひとは、喫茶店で見たルノワールの絵ではな いが、衿元のしどけない、だらしのない女ではないかと思った。 茶の間には、不安そうな弟と妹の顔があった。 母親が、もう一度、切なそうな声でえずいた。その骨張った背中をさすりながら、桃子は自 分のなかのいろいろなものを諦めた。もう一息何とかすれば実りそうな恋。女らしいお洒落。 屋 の決算のときの帳簿のように、この日で赤い線を引こう。 胡弟を大学にやらなくてはならない。夜学というハンデに苦しんだ父親を見ていたから、研太 幻郎、、こけは石にかじりついても昼間の大学を出してやろう。陽子にも、お金の苦労をさせずに高 ひきだし