「返せま、 。しいってもんじゃないのよ」 研太郎は、黙ってハンバーグを細かく切りはじめた。 「したことを恩に着せるつもりはないわよ。あんたにかけた月謝の分、返してくれって言っ るんじゃないのよ。あたしはいいけど、お母さんが可哀相だって言いたいのよ」 「そうかな」 「そうかなって、あんた、そう思わないの」 フォークを置くと、研太郎は姉の顔を見た。 「ひとの心配する間に、自分のこと、考えたほうがいいんじゃないかな」 「どういう意味」 「みんな適当にやってるんだよ」 渋谷のハチ公前で待ち合わせをした研太郎は、同じくハチ公の前で人待ち顔の母をみつけ一 びつくりした。もっとびつくりしたのは、そこに父が現れたことだという。父は何も言わず 先に立って道玄坂をのばってゆく。二、三歩おくれて母もついてゆく。 「悪いと思ったんだけど、ついていったんだ。そしたら : : : 」 研太郎は、言いよどんで下を向いた。
「亭主がいるじゃないですか」 「亭主は男じゃないわよ」 と言ってから、ふと、ああ、尻取りはむつかしいわと呟、 「隔離されてたから、カーとのばせたんじゃないの」 集太郎が何か言いかけたとき、酔った客が入ってきた。 看板だからというのに入れろよとカばった客を、集太郎は、びつくりするような大声で冖 れ ! とどなりつけた。グラスを持つ手がプル。フル震えていた。峰子はそのグラスにまた酒 + ついだ。自分にもついだ。 「結婚して」 「七年です」 「水商売ってのは七年やれば一人前だけど、結婚てのは七年じゃ駄目なのねえ」 女 の集太郎と峰子はもつれ合ってア。ハートの外階段をのばった。揺れながら自分の部屋の鍵を + 隣けようとする集太郎の横に峰子は立って、自分の手で鍵穴をふさいだ。目がドアを半開きに 1 た自分の部屋へ誘っていた。 つ ) 0 したが、集太郎には判らないらし、
抱きついていった峰子のからだが、不意に頼りなくなった。集太郎はからだを起していた。 「ミシン掛けてるんじゃないかな」 「そら耳よ。なにも聞えないわ。第一帰ってれば、明りがついてるわ」 抱きかけた集太郎の手はこんどはお義理だった。峰子は自分からべッドをおりて、床に落 ~ たワイシャツを手渡した。 「勇気がないのね」 集太郎は、黙ってボタンをかけた。 「そうじゃないのかな。帰るほうが勇気がいるのかな」 「そう思いたいね」 律義な性格なのだろう、集太郎はご丁寧にネクタイまで結んだ。 「これが結婚ですよ」 さすがに自嘲の笑いになった。 「不自由なもんねえ」 女 の峰子も一緒に笑ったが、言葉が少し震えてしまった。 隣「でもちょっと素敵ねえ。口惜しいけど」 峰子の目に光るものがあった。
「卒業するまで待てないのかい」 といった母親に、 「おれ一人分の食費が助かっていいじゃないか」 本と着替えだけ持って出ていったというのである。 桃子はからだが震えるほど腹が立った。大学の教室前に待ち伏せして、弟をつかまえ、引 ずるようにして、校門前のレストランに連れ込んだ。 時分どきをはずれていたせいか、店はすいていた。 注文を聞きにきたウェイトレスに桃子は、 「ハンバーグを二つ。上に目玉焼をのせて下さい」 と頼んだ。研太郎と目がぶつかった。 「あんた、あの日のことを忘れたの」 と言ってやる代りに、現物を突きつけてやる。 着たいものも着ず、恋も諦めて、父親代りをつとめた三年を、あんたはどう思っているの そう叫びたかった。 目玉焼を添えたハンバーグがきた。 研太郎は、ナイフをとると、二年半前に姉がしたと同じように黄身を四角く切って、姉の
台風接近のニュースを聞くと、 「懐中電灯の電池、入れ替えときなさいよ」 と母に命令した。 冠婚葬祭に包む金額を決めるのも桃子だった。弟や妺だけでなく、母親にまで意見をするし , つになった。 「メソメソしたって、帰ってこないものは帰ってこないの。そんな閑があったら、眠るか働ノ かすること ! 」 というのは、出ていった父の癖である。 なになにすること , 弟の研太郎が大学に合格したとき、桃子は弟だけにタ食をおごった。 社用で一回行ったことのある豪華なステーキ・ハウスへ連れていった。自分はサラダだけ〔 して、弟には分厚いステーキをとって祝盃を上げ、仕上げにバーを一軒おごるつもりでいた。 家族全員となると懐ろがたまらないが、こういう場合、昔の父親のやりそうなことをして ~ らないと可哀相な気がしたからである。 ところが、研太郎はステーキは食べたくないという。 「おれ、胃の調子が悪いから、ハンバーグがいしな」 ンバーグなら、なにもこんな高い店へくることはなかったのに、 頑としてゆずらない。ハ
新「おんなじ間取りだね」 「そうよ。同じ間取りよ」 ワイシャツを脱がせ、集太郎の手を自分のからだに廻させた。 「女も同じ間取りよ」 集太郎を・ヘッドに倒して、 「どう。同じでしよ」 集太郎の手が、ドレスのボタンをはすしてゆく。 「いつも聞えるのよ。 , つい , っとき」 峰子は目を開いて囁いた。 「ミシンの音。壁の向うから、カタカタカタカタ。あれが聞えると、あたし安心だったわ。 が聞えないから。でもわたし、だんだん口惜しくなったの。『あたしは女房なのよ。ちゃんし 籍入って世間に認められてるのよ』そう言ってるみたいに聞えるの。『あんたは何よ。女とー てはもぐりじゃないの』何人男をつくったって、サイの河原の石積みじゃないの。なんにも らないのよ。ミシン掛けと内職のプラウス縫ってるほうは、ちゃんと家庭が残ってくのよ」 かたき 「仇討ちかい」 「そうよ。仇討ち」
れというが、戻るか戻らないかは五分五分だなと言いながら、年輩の主人はニューヨークの 着き先のメモを渡してくれた。友人のアトリエだという。サチ子の名前も間柄もたずねなか ( 端の赤くなったあの札がミシンの抽斗に入っていると思うと、夜、集太郎の手が伸びてき一 も、抱かれる気にならなかった。 暗い中で激しくあらがい、布団からせり上ってミシンの下に入り込んでしまったりした。 「くたびれてるの。ごめんなさい」 「内職なんかやめちまえよ」 集太郎は寝返りをうって、背を向けた。 浮気ならまだ言いわけは立っと思った。金で売った形になったからだだと思うと、それだ は気がとがめた。 夜だけでなく、昼もサチ子は落着かなかった。 廊下へ出ると、主婦たちのヒソヒソばなしが急にやむような気がした。峰子が皆につげロ宀 するのではないか。いっかはあの集太郎の耳にも入るのではないか。買物にいって一万円札 + 出すとき、みなが見ているようで手が震えた。このままでは駄目になる、と思った。内職で一 めたへそくりの定期を解約して旅行社へいった。・ ヒザをとりニューヨークまでの航空券を買 (
目をつぶったまま、集太郎は言った。 「谷川はどうだった」 「あたしね、本当は谷川岳なんかのばったんじゃないの」 「よせ ! 」 、いかけて、やわらかく、よせよ、と言った。 「実はおれも麓まで行ったんだ」 「のばるより、もどるほうが勇気がいると一言われたよ」 集太郎は目をあけた。 目やにのくつついた無精ひげの顔がサチ子には妙になっかしく思えた。 「そのはなしは、七十か八十になったらしようじゃよ、 「、つん」 女 のサチ子は、なにかの大きな塊をごくりとのみ込んだ。 隣「あたし、これから、うんとしつかりやる」 「しつかりやってくれよ」 ふもと
ドアをあけて、 「おやすみなさい」 と送り出した。 「おやすみ」 すぐに隣りのドアがあき、またしまる音がした。 何の祝日かアバートには日の丸が出ていた。 サチ子はトランクを下げて帰って来た。アバートの階段の下で立ちどまり、呼吸をととの = て一息に上った。のばり馴れた階段がいつもより段が高くけわしく思えた。これをのばらな , ては帰れないのだ。 集太郎は万年床の枕もとに、缶ビールの空き缶の山をつくって眠っていた。 サチ子は、明るい大きな声で「ただいま」と叫んだ。 集太郎は目をつぶったまま黙っていた。 サチ子はもう一度、叫んだ。必死だった。前よりももっと明るくもっと大きな声だった。 「ただいま」 「お帰り」
づけはじめたサチ子に、 「いいよ。鼻の先でバタバタするなよ。ハナシだよ、ハナシ」 あくびをしながらバジャマに着替える集太郎に、サチ子はやはりあのはなしをしないでは、 られなかった。 「隣りのひとね」 「隣り ? ああ、スナックの。あれはやとわれママか」 「あのひと、凄いのよ」 サチ子は親指を立ててみせた。 「二人もいるんだから。それも一日に二人よ」 「よせよ」 自分も同じ手つきをして集太郎は露骨に嫌な顔になった。 「女がこういう手つきするの、嫌いなんだよ。素人の女のすることじゃないよ。下品だよ」 「じゃあ、ど , っすりやいいの」 女 の「ロで言やあいいじゃよ、 隣「オトコって一言うの。そっちも下品みたいだけどなあ」 男がどうしたんだよ」