「おたくのお父さんの名前柿崎浩太郎じゃないですか」 「そうだけど。君、うちのおやじ知ってるの」 新陽軒の鼻息はますます荒くなった。 「ばく、息子なんです」 泣くとも笑うともっかない顔でロをあけたまま、浩一郎を見上げた。朴歯の下駄をはいて 7 背は浩一郎より低かった。 その夜遅く、近所のスナックではなしを聞いた。 新陽軒ははたちだという、名前は松浦浩司と聞いて、浩一郎は、もう一度頭をプン殴られ亠 ような気がした。 堅物とばかり思っていた父に女がいた。隠し子がいた。ひとりつ子と思っていた自分に弟′ 、た。しかも、父は認知こそしていないが、浩一郎にしたと同じように、自分の名前の浩の をつけてやっていた。 浩司の母親は、若い時分上野の小料理屋で仲居をしていたという。土木関係の半官半民団ル に勤めていた父と、そのあたりで縁が出来たらしい 生まれるとすぐ遠縁のうちへ里子に出されたので、父親の記憶は全くない。中学のとき母
引「あの人のこと、ご存知ないですか」 「あの人 ? 」 「心中して、けがして、大変だったんです」 サチ子は麻田と裏の倉庫ではなしをした。こわれた額縁などが雑然と積んであり、ニカワ ( 匂いがした。 「命には別条ないそうです。ガスも少し吸ってるけど、けがのほうも大したことないって」 「そうですか」 相手の男を聞かなかったところを見ると、見当はついているのかも知れない。麻田はサチマ の手首の傷の具合を聞いてから、 「ばくに知らせてくれって、あの人が言ったんですか」 「いいえ。あの人の店で電話かけてらしたとき、ここの名前、おっしやっていたので」 ああ、と麻田は納得した顔になった。 「それにしてもどうしてばくのことーーーあ、そうか、アバート、 彼女の隣りだから、出入り〔 ばくの顔ーー」 言いかけて、 「いや、あのアバート行ったのは、一回きりだし、ばくのほうはあなたの顔見てないけど」
「卒業するまで待てないのかい」 といった母親に、 「おれ一人分の食費が助かっていいじゃないか」 本と着替えだけ持って出ていったというのである。 桃子はからだが震えるほど腹が立った。大学の教室前に待ち伏せして、弟をつかまえ、引 ずるようにして、校門前のレストランに連れ込んだ。 時分どきをはずれていたせいか、店はすいていた。 注文を聞きにきたウェイトレスに桃子は、 「ハンバーグを二つ。上に目玉焼をのせて下さい」 と頼んだ。研太郎と目がぶつかった。 「あんた、あの日のことを忘れたの」 と言ってやる代りに、現物を突きつけてやる。 着たいものも着ず、恋も諦めて、父親代りをつとめた三年を、あんたはどう思っているの そう叫びたかった。 目玉焼を添えたハンバーグがきた。 研太郎は、ナイフをとると、二年半前に姉がしたと同じように黄身を四角く切って、姉の
跖と涙が出たわ」 エレベーターをおりた二人は、病室をたしかめるため正面の看護婦控室へ入っていった。 「不思議なのよ。その涙が、お湯みたいに熱いの」 「そりや同じ血が流れてるんだもの」 看護婦控室は、夜の検温にでも廻っているのか誰もいなかった。 ドアを出ようとしたとき、不意に組子の声が聞えた。 「あたし、刺されて当り前よ」 こ、くぐもった組子の声が響いた 無人の部屋し 「神様っているのね。天罰を受けたのよ、あたし」 病室からの声はインターフォンであった。 「十年前のあのときの罰なのよ」 あとから入ってきた八木沢が、ポカンと口をあいて素子の顔を見た。 「違うよ。絶対違う。罰を受けるとしたら、兄貴だよ。おれだよ」 数夫の声だった。 今まで聞いたこともない烈しい声がした。 八木沢が、インターフォンの、そこだけ送話中のサインのついている赤い突起を押そうと手
124 毛玉の出た古いセーターをを着るときは楽しそうに笑って着たほうが惨めでなかったからだ。 少しでもおかしいものをみつけたら、笑えるときに笑っておきたいと思ったから。笑って自分 をはげましたいと思ったからである。 思わせぶりに笑って旅行にゆかなかったのは、費用が惜しかったからだ。遊ぶ暇があったら、 母親の手伝いをして、洋裁の内職の裾かがりをしたほうがいい すべてが八方ふさがりであった。 いつまで待っても、父親は帰ってこなかった。 桃子は、勤めから帰ってアバートの窓が見えてくると、自分たちの部屋だけ明りが暗いよう に思えた。ドアの前で大きく深呼吸をして、 「ただいまア」 勢いよくなかへ入った。 甘いものの好きな母のために、安いケーキや甘栗の包みを提げて帰ることもあった。いい知 らせを持って帰れない代りに、温いものか甘いものを抱えて帰りたかった。 口を動かしているときだけは、母親の愚痴を聞かずに済んだ。食べものでロ封じをしたせい でもないだろうが、母親はよく食べるようになった。 どちらかといえば食の細いほうだったのが、
風見は、ゆっくりとあぐらをかき枝豆や衣かつぎでビールを飲んだ。 相手をするのは、もつばら直子と母の須江だった。はじめは、二階へ上ったきりだった臍ま がりの順子も、話し声に誘われたのかだんだんと下へ降りてきて、コップ半分のビールをなめ るようになった。 酒の飲めない周次だけは、形ばかりのコップを前に、音をほとんど消したテレビのお笑い番 組に見入っていた。 話相手といっても、直子も須江も陽気なたちではないし、取り持ちも上手なほうではなかっ たから、話に花が咲くという具合にはゆかなかった。 風見も、そうロ数の多いほうではなかったから、話の跡切れることもあった。はじめのうち、 直子は気をもんだが、すぐに取越苦労だと判った。 「ここへくると気が休まるなあ」 一日中コンピューターの音を聞いていると、ばんやりした時間が一番のご馳走だと言った。 かつおぶし 「それと、この匂いがいいんだなあ。田舎のうちと同じ、鰹節の匂いがするんだ」 「うちが古くなるとこんな匂いがするんじゃないんですか」 須江が言った。 「今や貴重ですよ。どこへいったって、目に染みるようなアンモニア臭い新建材の匂いだか きめ し へそ
はないよ」 しひきをかきはじめた。 うんざりした顔が、くるりと向うを向いて、すぐに、、、 次の日、サチ子は内職のプラウスを届けにいった帰りに、珍しくレコードを一枚買った。う んと厳かなのにしようと 、・、ツハの「鎮魂ミサ曲」にしこ。 アバートに帰るなり、すぐにレコードを大きくかけた。着替えをしながらも壁が気になり、 近づいて耳をすましたが、何も聞えなかった。レコードを小さくして聞き、とめて聞いたが、 何も音はしなかった。 「馬鹿みたい」 笑い出して、自分の頭を叩いたとき、ドアをノックする音がして、管理人が立っていた。 十がらみの女である。いきなり、 「奥さん、手あいてる ? 」 とい , つ。 女 の手があいてたら、池袋までひとっ走りしてもらえないか。お隣りのママが、出がけに郵便箱 隣のところで立ちばなしをしたときに、スナックの鍵を置き忘れた。用足しがあって取りにもど れないので届けてもらえないかという。 おごそ
の女たちに吊し上げをくっているらしい 峰子がアパート 「多少のご迷惑かけたことはお詫びしますけどねえ。別に人のもの泥棒したわけじゃなし、 われたガラス入れ替えりや、なにもアパートを出てくことないと思いますけどねえ」 三、四人の主婦が峰子を取りかこんでいるらしい。聞き覚えのある女たちの声が飛び込ん一 きた。 「どこ行っても一言われるのよ。ああ、あのアパートって」 「なんかあたしたちまで乱れてるみたいに言われてねえ」 「乱れてる ? 」 峰子の声が大きくなった。 「近頃は家庭の主婦のほうが、ずっと乱れてるんじゃないんですか。金と引き替えに男にか《 だ売ってる奥さんも多いって聞いてるけど」 多勢に無勢の峰子をかばったつもりなのだろう、管理人が助太刀をした。 「そういやあ主婦売春てのよく聞くわねえ」 女 のサチ子は三枚の紅のついた札をもったまま凍りついて動けなかった。 隣 朋文堂をたずねると、麻田はもうニューヨークへ発ったあとだった。ひと月ほど休ませてノ
台風接近のニュースを聞くと、 「懐中電灯の電池、入れ替えときなさいよ」 と母に命令した。 冠婚葬祭に包む金額を決めるのも桃子だった。弟や妺だけでなく、母親にまで意見をするし , つになった。 「メソメソしたって、帰ってこないものは帰ってこないの。そんな閑があったら、眠るか働ノ かすること ! 」 というのは、出ていった父の癖である。 なになにすること , 弟の研太郎が大学に合格したとき、桃子は弟だけにタ食をおごった。 社用で一回行ったことのある豪華なステーキ・ハウスへ連れていった。自分はサラダだけ〔 して、弟には分厚いステーキをとって祝盃を上げ、仕上げにバーを一軒おごるつもりでいた。 家族全員となると懐ろがたまらないが、こういう場合、昔の父親のやりそうなことをして ~ らないと可哀相な気がしたからである。 ところが、研太郎はステーキは食べたくないという。 「おれ、胃の調子が悪いから、ハンバーグがいしな」 ンバーグなら、なにもこんな高い店へくることはなかったのに、 頑としてゆずらない。ハ
浩一郎を「おたく」と呼び、「やつば」「やつば」と繰り返す言葉癖。中華料理店の出前持ち という職業と相まって、編集長の黒須の美意識が一番うとんじるものであった。そういう男と 兄弟だと知ったら、それだけで浩一郎をうとんじるー・ーそういうところのある男だった。 なんのかんの文句を一言うようなものの、十七年っとめた職場で、笑い者になったりうとまれ たりはしたくなかった。 それともうひとつ。 内輪に内輪にと振舞っているようだが、浩司の言葉遣いの変化というか、順応の早さも、浩 一郎にとっては、すこしおっかないものだった。 はじめは、ばくといっていたのが、一晩のうちに別れるときには俺になっていた。そのうち に「おたく」は「兄ちゃん」になる。 そして 浩一郎は、それから先のことを考えようとすると、ズーンと頭が重くなってきた。 「新陽軒」と聞くと、浩一郎はそれだけで落着きがなくなった。 残業のない日でも、雨の日などは女子社員はおもてへ出るのを億劫がって、出前を取る。 待っていました、・という具合に浩司がやって来た。階段を上る下駄の音も、気のせいか自信