麻田 - みる会図書館


検索対象: 隣りの女
20件見つかりました。

1. 隣りの女

をはかりかねたが、サチ子も繃帯をした手首でグラスを持ち、もう一度ぶつけてくる麻田の ラスを受けとめた。麻田はひとことも口を利かず三ばいのみ、サチ子も二はい飲んだ。 おもてへ出ると、一度に酔いがまわった。 「腹はすいてないですか」 麻田が言った。 「すいてます」 気がついたら、朝から、まとまったものを食べていなかった。 麻田は街頭でポプコーンを買うと、いきなりサチ子のロへ押し込んだ。二人は食べながら止 いた。麻田は、自分も食べ、またサチ子のロへ押し込む。麻田のニカワの匂いのする手が、 チ子の唇にあたった。押し込まれるたびにサチ子のなかでたかまるものがあった。また押し「 まれた。 ・ヘッドでも、麻田のしぐさは手荒かった。手荒いくせに妙にやさしさがあった。そこだけ のもののように頭の上に投げ出していたサチ子の繃帯をした手首が、麻田の背中を抱き、爪 + 立てていた。サチ子の目尻から涙が流れた。ラプホテルのカーテン越しにタ陽が見えた。 「電気つけないでください」

2. 隣りの女

エレベーターは動かなかった。昼でも暗い階段を上ってゆきドアを叩くと、猫を抱いた若い メリカ人の男がのそいた。 「ミスター・麻田ーーー」 そのあとどうつづけようかと目を白黒させていたら、男のうしろから、同じ柄の猫を抱い 麻田がのぞいた。サチ子を見ても何も言わず、抱いていた猫を放しただけだった。 「あんまりびつくりしないのね」 「びつくりしても顔に出ないたちなんだ」 当座の着替えだけを入れたトランクを下げたサチ子を上から下まで見て、 「誰かと一緒」 と聞いた。 「ひとり」 「何て言って出てきたの」 「谷川岳へのばりますって」 麻田は大きな声で笑った。 「あの、あたし、お返ししなきゃならないものが」 バッグを探るサチ子のロを封じるように、乱暴なしぐさで、麻田はトランクを引ったくった

3. 隣りの女

引「あの人のこと、ご存知ないですか」 「あの人 ? 」 「心中して、けがして、大変だったんです」 サチ子は麻田と裏の倉庫ではなしをした。こわれた額縁などが雑然と積んであり、ニカワ ( 匂いがした。 「命には別条ないそうです。ガスも少し吸ってるけど、けがのほうも大したことないって」 「そうですか」 相手の男を聞かなかったところを見ると、見当はついているのかも知れない。麻田はサチマ の手首の傷の具合を聞いてから、 「ばくに知らせてくれって、あの人が言ったんですか」 「いいえ。あの人の店で電話かけてらしたとき、ここの名前、おっしやっていたので」 ああ、と麻田は納得した顔になった。 「それにしてもどうしてばくのことーーーあ、そうか、アバート、 彼女の隣りだから、出入り〔 ばくの顔ーー」 言いかけて、 「いや、あのアバート行ったのは、一回きりだし、ばくのほうはあなたの顔見てないけど」

4. 隣りの女

首すじに熱い息がかかった。べッドの中だとばかり田 5 っていた麻田が立っていた。 「あたし、お金返しに来たんです。理由のないお金、拝借してるの、嫌だから、それであ ーし 「だったらどうして着いた時すぐに返さない。俺と楽しんで、ニューヨークを散歩して、その あとで金を返すのはどういうわけなんだ」 「お金は口実です。あなたのこと好きになってー。ーー一生に一度でいし 、恋っての、してみたか ったの」 「一生に一度の恋は三日でおしまいか。程のいいところで切り上げて、ロを拭って帰るわけだ いい気なもんだな」 麻田はサチ子に惚れてしまった分だけ、腹を立てていた。 「顔に出ないタチだなんて嘘ね。恐い顔」 「帰さないと一一 = ロったら、どうする」 「帰ります」 「帰ってなんて言うの」 「なにも言わないわ。なにも言わないで、一生懸命ミシン掛けるわ」 麻田はサチ子の必死の目を見て、ひとことだけ言った。

5. 隣りの女

河原の石にひとっすっ、南無阿弥陀仏と書き、そばの千本杭にひっかかっている自分と麻 の情死した姿がハドソン川に浮いているような気がしてきた。 マンハッタンのビルのそばに使わなくなったハイウェイが打ち棄てられてあった。ちょう タ焼けで、二人の影法師はまるではりつけ柱か墓標のように見えた。酒をのまずにはいられ 4 つつ ) 0 、刀子 / 三日目の朝早く、サチ子はまた目を覚した。ミシンの音を聞いたように思った。 「ね、この上、縫製工場かなにか ? 」 「いや、彫刻家のアトリエだよ」 目を閉じたまま、麻田は、サチ子の肩をやわらかく抱いた。みかけは華奢だが、着やせすフ からだである。集太郎の与えてくれなかった酔いを満してくれたからだから、サチ子は離れ一 起き上った。 「ミシンが聞える」 「そら耳だろ」 麻田はうつ伏せになった。 サチ子は、バッグから金を出し、麻田の背広のポケットに入れた。帰ろう。西鶴の女は殺 ~ れたが、現代の女はやり直すことが出来る。

6. 隣りの女

のに気がついた。西鶴の『好色五人女』である。 めくったら、巻四の「恋草からげし八百屋物語」が目に入った。 なさけやど 「雪の夜の情宿。油断のならぬ世の中に、殊更見せまじき物は、道中の肌付金、酒の酔に ぎし きわすてばうず 差、娘の際に捨坊主」 道中の肌付金かと呟きながら、麻田は赤い小さな財布をあけてみた。千円札が三枚キチンし 畳んで入っているのがいじらしく思えた。麻田はポケットから三十万ほど入った封筒を出し 三枚抜いて中へ入れた。 ドアをあける気配がした。麻田はたばこをくわえた。ラプホテル街のネオンがまたたくガ = ス窓に、帰り支度をしたサチ子の姿がうつっている。 「帰るの」 「さよ , つなら」 「それだけ ? 「一生の思い出です」 サチ子は小さなお辞儀をすると 、バッグを抱えて出ていった。 集太郎はビールをのみながらタ刊をひろげていた。 はだっけ

7. 隣りの女

「声で判ったんです。電話かけてるの聞いたとき、あ、あの声だって。『上野。尾久。赤羽。 、冫不大宮』」 言ってしまって、失言に気がついた。 「あ、すみません。ア。ハート の壁、薄いのかな。聞くつもりなくても、いびきや溜息まで筒抜 けなんですよ。あ」 もうひとっ追い討ちをかけた形になった。 すべてを聞かれてしまった男は黙って横を向き、こわれた額縁をさわっていた。サチ子は頭 を下げると小走りに店を出た。 サチ子は自分に腹を立てていた。 頼まれもしないのに、わざわざ住所まで調べて麻田のところへ出かけて行った自分。やまし い期待の分だけ、大きくふくらんだ風船をバチンと割ってしまった失望はみじめだった。嗅ぎ たくない自分の嫌な匂いを嗅いだ恥かしさで、顔が上げられなかった。 うしろから足音が追ってきた。足音は並んで歩くと耳許で麻田の声がした。 女 の「いつばいっきムロって下き、い」 隣まだ陽が落ちていないせいか、ハ ーともスナックともっかない店は空いていた。 カウンターにならんで腰かけると、麻田は水割りのグラスを乱暴にぶつけてきた。その気持

8. 隣りの女

入り、コーヒーを頼んだ。巻二の「情を入れし樽屋物語」をひらいた。 「恋に泣輪の井戸替、身は限りあり、恋は尽きせず、無常はわが手細工の棺桶に覚え、世を渡 る業とて錐鋸のせわしく」 コーヒーカップを持ち上げると、まだ手が震えていた。うしろの現代語訳をめくった。 「人の命には限りがあるが、恋路はっきることがない」 目は字を追っているが、気持はあの声を聞いていた。たしか「朋文堂の麻田」といっていた。 気がついたら、立って、職業別電話帳をめくっていた。絵画材料額縁のところに朋文堂があっ 「モシモシ、朋文堂ですが」 ダイヤルを廻したら、あの声が出た。サチ子は電話を切り、住所をメモに書き込んだ。手が ひとりでに動いているという感じだった。 朋文堂は二つ隣りの駅前にあった。 かなり大きな店で、麻田のほか、二、三人の店員がいた。麻田がたばこを喫いながら、女店 員とふざけているところをみると、まだ峰子の事件を知らないらしい 「あのオ」 ロごもりながら、サチ子は小さな声で告げた。 きりの、一ギ一り

9. 隣りの女

「どうしよう。あたし、大変なことしちゃった」 こわい、こわいとすすり泣くサチ子を麻田は抱きしめ、またべッドに誘った。恐い分だけ、 陶酔も激しかった。 「不義者成敗 ! 」 立ち腐れた地蔵堂の扉があいて、侍姿の集太郎に斬られる夢を見た。サチ子は自分から麻田 に溺れていった。 はじめて見る実物の自由の女神は思ったよりけわしい顔をしていた。 「あれ、何を持っているの」 「右手はタイマツ。左手は独立宣言書だったかな」 「自由と独立 : : : 」 「女はそういうことば、好きだね」 「持っていないからよ、女は。結婚したら二つとも無くなってしまうもの。人を好きになっち ゃいけないのよ。恋をするのも罪なのよ。昔は殺されたわけでしよ。結婚した女は死ぬ覚悟で 恋をしたのよ」 言っていると、またたかぶってくる。

10. 隣りの女

サチ子は暗いなかで、額縁をつくるコツをたずねた。絵に嫉妬しないことさ、と麻田は答 = 嫉妬を殺して、どうしたら絵が引き立つか考えてやることだと一一 = ロった。絵かきになりた、 ったが、才能がない。自分に引導を渡すために、近々ニューヨークにゆくつもりだと言った。 「一緒にゆこ、つか」 「あたしですか」 「バスポート、持ってるから、簡単だ」 「あら、どうしてそんなこと : : : 」 丿へゆく前に盲腸になって、ここ一番てときにしくじる癖がある」 「あ、そうか、あのとき」 やっとサチ子は笑うことが出来た。 「去年、内職しても友達と一緒にゆこうと思って」 「内職ってなにやってるの」 「縫製の下請けです。。フラウス一枚千二百円」 女 の 隣サチ子はシャワーを浴びにべッドから抜け出した。 麻田は半開きになっているサチ子のバッグをしめようとして、中から文庫本がのぞいてい