「ちくしよう」 ハンドルを握りながら、矢吹英司は毒づいた。通りを隔てて東京ロイヤルホテルの超高層ビルが、す べての窓に灯をともしたような華麗な骨格を暮れまさった空に浮き立たせている。 その建物の最も豪華な一角を占めて、あの女の結婚の宴が開かれているはすであった。 くじゃく いまごろは純白のウェディングドレスにしおらしく身体を包み、孔雀のように晴れがましく、降りか かる祝辞を一身にうけているだろう。 くちびる 純白の衣装に清純を偽装した熟れた裸身も、花のような唇も、一週間ほど前までは、自分のものだっ たのだ。 それが今夜から、他の男のものとなる。もうあなたとは他人よと、女は一週間前、最後に逢ったとき、 宣言した。 英司は、 いまその夜のことをおもいだしていた。 「もう私たち、逢うべきじゃないのよ。これは最後の税金だわ」 投身した債務
きはく 笠岡のにじりよるような気魄に、矢吹は気圧されたらしく、 いくらか協力的になった。 「栗山は、以前築地に行ったとか、住んでいたようなことは言いませんでしたか」 「栗山の口から築地という言葉が出たのは、そのときが初めてでしたか」 「初めてですね」 「栗山の軍隊時代の仲間で、築地に住んでいる者はいないのですね」 それはすでに下田が調べずみであったが、笠岡は確かめた。 「栗山といっしょこ 冫いたのは、終戦前の三か月くらいですが、そのときの連中に築地から来た者はい なかったようです。しかし、上級将校や整備員となるとわかりませんね」 「入院中の仲間にはいませんでしたか」 「私は三週間ぐらいしかいませんでしたからね」 「後になって築地の方へ移住して行ったような人はいませんか」 「おもい当たりませんねえ」 ぜいじゃくかん もはやあらゆるルートは絶たれたようであった。徒労のおもいが病気による脆弱感と相加して、その 、カり 場へ泥のように崩れてしまいそうな疲労の錨に引かれた。なにもかも投げ出してその場に横たわりたい 明圧倒的な疲労に耐えながら、笠岡は、 の 「こういうケースはありませんか。築地の住人と結婚してそちらへ移っていったという人は」 青 「結婚 ? 」 矢吹の表情にかすかな反応の気配が動いたようである。 「なにかお心当たりでもありますか」 けお
「どんな字を書くかわかりませんか」 「わからないのです。ただやぶきと言っただけなんです」 「住所とか職業のようなものは言われませんでしたか」 「それだけです」 ぬかよろこ 糠喜びとは、このことであった。「やぶき」だけでは雲をつかむような話である。下田の失望の気配 を悟ったのか、坂野夫人は、 「それだけなんですけど、おばあちゃんは昨夜ちょっと変なことを言ったのです」 「昨夜、変なことを ? 」 下田はわらにもすがりつくように、相手の声にすがりついた。 「昨夜は、今朝倒れるとはとてもおもえないほど元気だったのですけれど、主人がレコードを買って のぞ 来まして、ジャケットをおばあちゃんがなにげなく覗いているとき、あらこの歌の文句は、あの患者が よく口すさんでいた詩と似ているねと言ったんです」 「あの患者が口ずさんでいた ? 」 たず 「それで私があの患者ってだれのことって質ねますと、名前をおもいだせないけど、刑事さんが調べ に来た人だって言ったんです」 「その歌とは、何の歌ですか ? 」 「ジョン。デノ。 、 ( ーというアメリカの歌手の『サンシャイン・オン・マイ・ショルダー』という歌で ジョン・デノ ' 、 ( ーなら下田も知っていた。『悲しみのジェット・プレーン』で大ヒットして、シンガ ーソングライターとして脚光を浴びた。自然の香りや人間のやさしさを素直に歌う歌手で、日本でも幅
「そんなことを言うと、もう会わないわよ。私たちこうしていられる時間は短いの。さあいまのこの 四時間をできるだけ楽しく過ごすために美しい所へ行きましよう」 こうして二人はハイウェーを一体となって走りまわった。由紀子にとっては結婚前の、火遊びとも言 さんぎよう えない少年相手の毛色の変わった恋愛ごっこであった。だが少年の彼女に対する鑽仰は日増しに真剣な ものとなっていった。 「ユキッペ、いま近くまで来ている。話があるんだが、ちょっと会えないか」 ゆいのう 由紀子がいとこの石井雪男から電話をもらったのは、笠岡時也との結納の儀も終わり、挙式の日取り も定まったときである。 「どうなさったの、他人行儀に。こちらへいらっしゃればいいのに。雪男さんらしくないわよ」 「いや、それがちょっと、おじさんやおばさんがいると、話し難いんだ」 「変なの、、 しったいどんなことなの」 「会ったうえで話す」 いつもとちがう雪男の様子に、由紀子はしかたなく近くの喫茶店で彼と落ち合った。 「いったいどうしたのよ」 普段着にサンダル履きで出て来た由紀子に石井は眩しげな視線を向けて、 「笠岡とは、最近どうだい」 「時々会ってるわよ、どうして」 まぶ
病室の前まで来て、二人は「あ」と顔を見合わせた。駅を下りてから同じ方向へ行く若い女性を、笠 岡時也はそれとなく意識していた。豊かな髪をキリッと後頭部に無造作にまとめた二十歳前後のモダン な面立ちの女性が、ビンクの花模様をあしらったワンビースの裾を軽やかに風にひるがえしながら、彼 の前を歩いていた。以前どこかで見かけたような顔だがおもいだせない。街角ですれちがった未知の美 しい女性のおもかげが、記憶に泡沫のように浮かび上がってきたのかもしれない。 ワン。ヒースの女性の行く方角には大付属病院がある。 おそらく彼女もだれかを見舞いに行くのだろう。 あの佳人に見舞われる幸福な病人はだれか 明と想像をたくましくしながら、その女性を尾けるような形で歩いて来た。先方も、そんな時也を意識し たのか、少し歩調を速めた。 青それを追いかけるようにして時也も足を速めた。これが人通りの絶えた暗い路なら、その女性は恐怖 に駆られて駆けだしたかもしれない。しかし夏の白昼のことでもあり、駅から同じ方角へ向かう人の姿 はかなり多い。ところが、まさか同じ病院の同じ病室を見舞いに来たとおもわなかった。 債務の督促 かじん
使者の人選の相談をうけた笠岡は、少し驚いた口調で言 0 た。責任を取る形で時子と結婚した笠岡は、 そんな形式をまったく踏まなかった。 時也の結婚が、自分たちのそれと事情が異なっていることは承知しているつもりだが、いわゆる " 恋 愛結婚″で当人たちの意志が先行しているのだから、そんな形式は当然省略されるとおもっていたので ある。 冫。し力ないわよ」 「それは犬や猫をもらうようなわけこよ、 「しかし、見合結婚じゃあるまいし、当人たちが先に熱々になって、いまさら結納でもあるまい」 「ご両親にしてみれば、そうもいかないわよ。もし私たちに娘がいれば、やはり、ちゃんと世間の形 式を踏んでくれたほうが嬉しいとおもうわよ」 「おれは形式を踏まなかったからね」 「そういう意味で言ったんじゃないわ。そりゃあ当人同士はいいわよ。でも親たちはまったく未知の 間柄でしよう。他人たから、形式にしたがってするのが礼儀なのよ」 「そんなものかね」 いいかげんなまねはできないわ」 「なにしろ相手は築地の老舗の料亭ですからね。 「いま何と言った ? 」 笠岡が急に興味をもった目を向けた。 「どうなさったの、急に ? 」 「いま、築地の料亭と言わなかったか」 「そうよ、築地の『あさやま』よ、と相手の娘さんの家は。超一流の料亭だわ」 「時也の結婚の相手は、築地の料亭の娘なのか ! 」
「たしか四十五、六年の夏ごろです」 「栗山さんとはどうして別れたのですか、さしつかえなければ話してください」 「どうしても話さなければいけませんか」 「あなたの前のご主人の栗山さんは、殺害された疑いがあるのです」 「だれにも言わないでくたさいね。あの人変態なんです」 「へんたい」 「私を縛ったり、靴をはかせたりしないと、欲望を行なえない男なのです。結婚した初めのうちはス むち トッキングをはかせる程度でしたが、だんだん本性を現わしてきて、しまいには私を縛り上げて、笞で かなひばし 打ったり、熱した金火箸を押しつけたりするようになったのです。ああいうのをサドというのでしよう か。私はあのままいたら、殺されてしまうような気がしたので、裁判所に訴え出て、別れたのです」 「お子さんはなかったのですか」 「子供が生まれなかったのが、不幸中の幸いでした。子供がいたら、コトはもっと複雑になったでし うね」 「ところでつかぬことをうかがいますが、栗山さんは脱疽という病気になられたことはありません 「ありますよ、なんでもビュルガー氏病とかいう複雑な病気で手足の先が腐ってしまう」 明 ケ捜査員の求めていた答えを喜美子はいとも簡単に言った。 青 「その病気になったのは、、 しつごろのことでしたか」 「結婚する前のことでよくわからないのですが、三十二、三歳のころのようでした。 e 大の付属病院 で神経節と手足の手術をうけたということでした。結婚した後も、その傷が痛むというロ実で、私をク か」 だっそ
ふさ っていた。人々の声がよく聞こえない。耳の穴が出血で塞がれているのだ。おそらく脳の深部が出血し ているにちがいない。デリケートなパランスからいまは意識があるが、しだいに出血の増加とともに、 生命を空け渡すのだ。 「時子」 彼は妻の顔を探した。すでに視野はぼやけていた。目からも出血していた。 「あなたここにいるわ」 時子は、笠岡の手をしつかりと握った。 「すまなかった」 「なにをおっしやるのよ。詫びなければならないのは私だわ」 時子は泣いていた。彼女は、いきなり襲いかかって来た凶暴な車から時也を守るために夫が身を挺し たところをはっきりと見ていた。 すく 自分は母でありながら、身体が竦んでわが子を守るために指一本動かせなかった。自分は悪い妻だっ た。「切腹の結婚」と罵り、笠岡に対して、復讐の夫婦生活を営んできたのである。だが、夫に詫びる ための適当な言葉が出てこない。なにもかもあまりに突然であった。。、 ノランスのくずれた感情がせめぎ 合い、言葉は硬直した。 妻に向けて笠岡は とうとう債務を返せなくてすまなかった と言おうとしたのである。彼の場 合、言葉は用意されていた。だが舌がすでに麻痺しかけていた。 おか 出血は、急速に頭蓋内に容積を増やして、脳神経を冒し、身体の諸機能を奪っていた。 「時也」 彼は息子を呼んだ。すでに視野は暗黒だった。 ずがいない ののし まひ
ので、報告だけしておけばそれでつじつまは合ってしまう。 そうでなければ、先の希望もなく、わらの山から一本の針を探し出すような地道な捜査など馬鹿馬鹿 しくてやっていられない。 どんなにまじめに勤めたところで、刑事の末など決まっている。デパートやホテルの守衛か、精々、 警備会社に余命を拾われるくらいである。 署長クラスの幹部でも、いちおう面子があるので、自動車学校の校長や民間会社の保安部長に天下り づら していくが、それもたいてい最初の三か月ぐらいで、結局居辛くなってやめてしまうケースが多い。 こういう連中のほうが現役時代なまじ「べタ金」付けていたために、ツブシがきかない。 警察では下積み刑事、家に帰れば、底に軽蔑を隠した他人のように無関心な妻の目、一人息子の時也 も、母親の影響をうけて、父親を馬鹿にしきっている。 よど 笠岡は、澱んだ職場と、冷たい家庭にサンドイッチにされて、自分が腐っていくのを感じた。だがあ えてそれを食い止めようとはしなかった。腐敗に身をまかせてしまえば、それはそれなりに居心地がよ かった。釀酵の適温に心身を柔らかく包まれて、やがて無機質に分解されていく過程には一種の悟りに も似たマゾヒスティックな快感があった。 そして事実笠岡の身体は深部から腐りつつあった。 このまま何事も起きなければ、笠岡は、腐敗にまったく抵抗することなく、人生のゴールまで行った ことだろう。だがここに一つの事件が起きた。そしてそれは彼にとってまさに奇跡でもあった。 はっこう けいべっ
全な制空圏下をまさか敵がここまで反撃に出て来ようとはおもってもいなかった油断を見事に突かれた のである。 ワニのマ 1 クをつけたトマホークの中に一機だけ胴体に赤い伹の図柄を画いたのがいた 「赤い死だ ! 」 だれかが叫んだ。敵機は基地をおもうさま叩くと帰についた。だがその中の一機だけいったん反転 して基地上空へ引き返して来た。地上の視線を集めてその敵機は急上昇した。機体に赤い亀のマークが はっきりと認められる。 「あいつ、何をするつもりなんだろう ? 」 迎撃する間もなくみながあっけに取られて見まもっている上空で、赤い死亀はクルリと胸のすくよう な宙返りを打った。 「くそ ! なめたまねしやがって」 機銃手がくやしがって射とうとしたのを、飛行隊長が制止した。 「やらせろ。迫水少尉のお返しだ。ありがたく受け取ろうじゃないか」 赤い死亀は三回連続宙返りを打っと、大きくバンクを振りながら帰途についた。それはこちらの沈黙 を感謝しているかのようであった。 戦闘機乗りは、敵機と空で渡り合っている最中には激しい敵愾心をおぼえるが、戦いの後には好敵手 明 証に対する一種の友情のようなものをおぼえる。それは戦争が国家の争いで、個人的な憎悪に根ざしてい 青ないせいもあるだろうが、パイロットには歩兵のように、自らの剣や銃で敵を殺す感触がないからでも ある。 戦いの相手は常に敵機であって、敵兵ではなかった。そこに自らの命をかけて戦う中にも強敵に向け てきがいしん