感じ - みる会図書館


検索対象: 青春の証明
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1. 青春の証明

らと言い張りまして。でも年齢なので、さすがにこの車は自分で動かす気にならないようですわ」 「私も乗せてもらうのはちょっとまぶしい感じですな」 「でしよう。だから私、あんまり気が進まなかったのに」 由紀子はしおれた。 「まあ、あなたったら、なんてことをおっしやるのよ」 時子が間に入ってきた。そのとき、笠岡はいままで影の部分に入っていた脳の襞に。ヒカリと強い光を 照射されたように感じた。 「そうだ ! 車だ」 笠岡は、由紀子の前であることも忘れて言葉をもらした。 「車がどうかしたの ? 」 時子が不審げこ、、 冫尸しカけるのに取り合わすに、 「由紀子さん、そのファイアバ 1 ドを買ったのは、、 しや、お父さんの車を下取りに出したのはいつご ろでしたか」と質ねた。 「たしか、六月の中ごろだったとおもいます」 とうとっ いぶか 由紀子は笠岡の唐突な質問を訝りもせすに答えた。 「六月の中ごろ ! まちがいありませんか」 「ええ、でも実際に新車が届けられたのは、七月の末でした」 由紀子は車の届く直前に、時也と知り合ったのでよくおぼえていた。 「七月に車が届いた ? すると、下取りの車だけ先に出したのですか」 「ええ、父が早くもっていくようにディーラーに言ったのです」 たず ひだ

2. 青春の証明

122 笠岡道太郎は最近急激に体重が減っていることに気づいた。毎年夏になると一、二キロは減る。だが 今年は六キロも減ってしまった。しかも食欲はまったくなく、疲労感が全身を鉛のように包んで、体重 はますます減少していく気配である。 彼は比較的体重が安定していて、二十年来五十七、八キロを維持していた。それがこの調子でいくと 五十キロを割りそうな気配である。 特に最近にいたって、食物がいつも胸につつかえているような感じがした。水をのみ込んでも、落ち よい。しきりにゲップが出て、胃から逆流したいやな臭いがロ中に広がる。 「あなた、このごろひどく口が臭いわよ」 妻の時子が遠慮会釈なく指摘した。彼女に言われるまでもなく、ロに掌を当てて息を吹きかけると、 自分でもわかるような口臭であった。それはロ腔から発するものではなく、胃の奥深くから吹き上げて 来る悪臭であった。 「どうも近ごろ胃の調子がおかしいんだよ」 み 「そうね、あんまり食欲もないし、少し痩せたようだわ。一度、医者に診てもらったほうがいいわ 「うん、そうしよう」 笠岡が素直に病院へ行く気になったのも、それほど身体に異常を感じていたからである。五十代に入 り、頑丈なだけが取得だとおもっていた身体も、そろそろオー。ハーホールが必要な時期になったのかも

3. 青春の証明

遠された。特にうるさいのは思想関係で、友人に共産党機関紙の読者がいたという程度でも不採用にな っこ 0 笠岡の場合、すでに社会人として、いちおうの会社の安定した橇子に就いていたので、転職の理由を 詳しく聞かれた。彼のようなコース変更は珍しかったので、なにか隠れた動機があるとおもわれたらし 警察官になれば、給料もかなり落ちるし、勤務態様も厳しく、不規則になる。時には生命の危険もあ る。表面の物質的条件だけを見ても、恵まれたサラリー マンの椅子との交換パランスを保っためには、 ・ハラスト 特別の理由の加重が要る。 笠岡は、警官志望の理由を試験官に正直に話した。相手はいちおう納得したようにうなずいたが、そ の感傷的な理由は選考の客観的資料にならなかったらしい。身許調べは、特に厳重に慎重に行なわれた 模様だった。これは後で試験官が漏らしてくれたことだが、結局、彼の採用を決定したのは、笠岡の言 葉を裏づけてくれた松野時子だったそうである。 所轄署に依頼して、裏づけ調べに行ったところ、時子はびつくりしたように目を大きく開いて、「ま さかあの人がそこまで」と言ったという。 彼女は、笠岡の " 実行″にひどく感動した様子であった。こうして笠岡は、サラリーマン人生から警 くら 察官に鞍がえした。 松野時子と結婚したのは、一年間の警察学校での初任科教育を終わり、外勤勤務に就いたときであっ こ 0 笠岡は、時子に特に愛を感じたわけではない。結婚の動機は意地であったと言ってもよい 笠岡が初めて時子と渋谷の喫茶店で対い合って、松野の死に対してせめて自分のできる形での償いを むか

4. 青春の証明

妻に先立たれた父の身のまわりの面倒を見ている間に、縁遠くなってしまった感じの女性である。 さいじよう 笠岡は、葬儀に焼香に行ったとき、斎場の遣族席に周囲から身をすくめるようにして坐っている彼女 を初めて見た。 焼香の後、笠岡が時子の前に立って悔やみを述べると、時子はそれまで伏せていた目を上げて、彼を 見た。その視線は、笠岡の面にヒタと据えられた。 ′ズ かえん その一瞬、笠岡は時子の目に白熱の輝きを見たとおもった。その視線の先にあたかも火烙放射器の筒 先が向けられているような熱感をおぼえたのである。 笠岡はたしたしとしながらも、自分から視線をそらして、「申しわけありませんでした」と言ってし まった。 時子の目が、 ( あなたが父を殺したのだ ) と無一言の抗議をしていることを悟ったのである。そしてそ わ れに対してつい詫びるような言葉を返したことは、時子の無言の抗議を認めた形になった。 おお ふんいぎ 警察関係からいちおう生花や造花の花輪がにぎやかに贈られていたが、斎場を被う白々しい雰囲気は 救いようがなかった。同じ葬式でも存命中、勢力や人気のあった人のものは、活気がある。その活気の あいせき 底に死者に対する愛惜と、生者の悲しみが流れている。 だが松野の葬儀は、会葬者の数こそ、わりあい多かったが、枯れ葉が自然に枝から離れたように、死 けつべっ ぬべき人が死んだ葬儀の一種の見切りと、死者と生者の訣別の形式があるだけだった。それが葬儀をし らけたものにしていた。 いかにも一生、冷や飯を食いつづけた老刑事の敗北を確かめるような葬儀だった。遺族席に坐ってい るわすかな故人の縁者たちも、血縁という義理だけで止むを得すその席に連なっていることを表情に書 いている。 す や

5. 青春の証明

彼らは、その公園へ初めて迷い込んで来た。ようやく米を除くすべての食物が自由に買えるようにな り、日本人が食生活から自由を取り戻しつつあった。 今夜、二人は都心に装いも新たによみがえったばかりのレストランで食事をしてきた。 きずあと その後すぐには別れ難く、男が女を送って来る途中、霧が出た。霧は、戦争の傷痕を完全に癒しきら へんぼう ない東京の街を、メルヘンの町のように変貌させた。まるで霧に物の性質を和ませる成分でもあって、 優然たる化学変化をおこしたかのようであった。平凡な家並みやなんの変哲もない街路樹までが、輪郭 ただよ しんし を失った半透明の姿態を霧の中に漂わせていた。まがまがしいものはすべて霧に浸漬されて、その悪意 の牙や角を失ってしまったようである。 霧に感傷的になった女が、途中で電車から下りたいと言いだした。男も悪くない考えだとおもった。 まち こうして彼らは東京の夜の街を女の家の方向におよその見当をつけて歩きだした。少し歩くうちに方向 の感覚は失われた。 迷ったところで東京の街中である。彼らは霧の流れに漂うように歩き、この公園の中に歩み入った。 小一時間歩いたので、少し疲れをおぼえていた。彼らはこわれかけたべンチの中から比較的ましなのを やす 選んで、そこで憩んだ。 ほどよい運動がレストランで飲んだぶどう酒を全身に行きわたらせて、血が火照った。それを霧が柔 みだ もすそ らかく包容した。霧は冷たかったが、どことなくしどけなく淫らな感じがあった。乳白の裳裾と夢幻的 しゅうちきしやく つつし な奥行きが羞恥を希釈し、日ごろの慎みを忘れさせた。 「だれか来るわよ」 のほう と言いながらも、女のほうから男を需めている。霧のせいだわと女は平素は考えられない自分の野放 途な大胆さを弁解した。なにもかも霧のせいにして、奔放な姿態が霧の底に開き、結び合い、からみ合 がた なご

6. 青春の証明

「それはちがうでしようよ。ちがう人間がべつの時期に登「てるんですから。まして積雪状態なんて 指紋のように完全に同じ状態なんてあり得ない」 「それは認める。しかし、二年前にはなか 0 た岳樺が、わすか二年後に突如成長したり、見えないビ 1 クや空が急に見えるようになるだろうか」 「登山は、先輩もよくご存じのように異常な心理状態におかれます。死に直面しての非常な緊張の持 続と体力の消耗が、時として認識を甘くしたり、誤らせたりします。かえ 0 て記録が完全に一致するほ うがおかしいでしよう」 「主観的な認識は異なるだろう。だが、山は不動だ。二年では風化も大してうけない」 「先輩はやはり・ほくを疑っているんですね」 「疑ってはいない。だがこのままにしておくと、遠からずして必す同じルートを登った者から疑惑を 突きつけられるだろう。、 しや、おれのように途中まで登った者もいるかもしれない。その前におもいち がいなら、それとして訂正しておいたほうが、おまえのためだとおもうんだ」 「おもいちがいではありません」 「おまえが自信をもってそう言い切れるのなら問題はない。だがこの際、おまえと同行したという佐 竹申吾氏にも登場してもらっておいたほうがいいそ。それこそなによりの証明だ」 「どうしてそんな証明をする必要があるんですか」 明 ケ時也は激しい口調で言ったが、山梨市の佐竹の名を出されたときから心なし、その言葉の底に脆弱な 青ものが感じられた。 やま 「おまえに疚しいところがなければ、いまのうちに疑惑を晴らしておいたほうがいいんじゃないの か」 ぜいじゃく

7. 青春の証明

「憎んでいた」 下田は、、ツ と目が覚めたようなおもいがした。笠岡の示唆によって、入院中生じたかもしれない栗 山の人間関係を洗っていたのだが、その示唆による先入観から、「関係」を親しい方へ傾斜させていた。 人の過去を追う場合、陥りやすい盲点心理である。殺人事件の捜査であるから、人間関係の焦点を憎悪 おんねん や怨念に据えるべきであった。 「その人物はだれですか」 「名前をいまちょっとおもい出せないのです。その人が、栗山さんを知っていたのです」 「憎んでいたというのは、怨みがあったとか、あるいは、ただ仲が悪かったとか、し 、う感じでした 「軍隊時代、栗山さんの部下でひどい目にあったようです。初めて病院の中で出会ったとき、いきな なぐ り撲りかかろうとして周囲に居合わせた人に抱き止められたくらいです」 「それは相当の怨みのようですね、それでその人は、どんな病気で入院して来たのですか」 「盲腸炎の手術です。三週間ぐらいで退院しましたけど、その間、予後室で、手術後の治療をしてい た栗山さんと出会ったのです」 「すると、栗山のほうがだいぶ以前に入院していたのですね」 「そうですね、入院後半年ぐらいだったとおもいます」 「栗山は退院後、また刑務所へ戻ったのですか」 、え、発病したとき、ほとんど刑期を終えていたそうで、退院すると仮釈放になりました」 「栗山を知っていたという盲腸の患者をなんとかおもいだせませんか」 「ちょっと度忘れしてしまっていまおもいだせないですが、そのうちにおもいだすかもしれません」 か」

8. 青春の証明

手術のおかげで笠岡道太郎の病状は小康状態を取り戻した。彼の最大の関心事は、その後の捜査の行 方であった。彼とコンビを組んだ本庁捜査一課の若手下田刑事が、その後の進展の報告がてら見舞いに 来てくれた。 明 笠岡は下田を出し抜いた形になっていたので、彼の顔を見るのがおもはゆかった。ところが下田はま リ 1 ト意識にこり固まった刑事が 青ったくそんなことは気にかけていない様子である。本庁詰めには、エ おうよう 多い中で、下田は若いに似あわす鷹揚なところがある。 「やあ、下田さん。今度は勝手に動いてしまって中しわけない」 「きみが前に来て、・ほくと向かい合うんだ」 「恐いわ」 「やつばりだめだ。マシンが嫉くよ」 が落ちる。恐怖がよみがえってきた。 無理な体位に自衛本能が働いて、たちまちス。ヒード 「マシンが嫉くの ? 」 「そうさ、完全に " 停止 ~ しているときは、マシンとセックスしているんだよ。マシンと一つになっ て初めてあんな感じになれるんだ」 「練習すれば、できるようになるんじゃない 英司は、少女と語り合っている間に、極限の走行中のマシンと少女との " 三角関係 ~ に異常なスリル をお・ほえてきた。

9. 青春の証明

かくはん ちょうり 夜の帳裏に白い霧が流れていた。霧は無数の徴粒子を攪拌しながら、夜と化合している。霧は単純な やみ 闇に幻想的な奥行きをあたえながらも、視野を数メートル四方に封しこめていた。手をのばすと指先が かすむような濃い霧が、しきりに移動している。 都内のある小さな公園だった。時間が遅いので人影は見えない。公園の中央に池があり、小さな噴水 とう 塔の跡がある。ブランコ数基に滑り台一基と、こわれかけた木のべンチがいくつか置かれているだけの 公園というより、子供の遊び場といった感じの小広場である。それが霧のおかげで、地平も見えない霧 の原のように仕立てられていた。 すど 「凄い霧だわね」 証霧の底から急に声が湧いた。無人と見えた公園のべンチに霧に溶けていたように二人の人間が腰かけ 春ていたのである。彼らは愛し合う若者であった。だいぶ以前からそのべンチに腰を下ろして熱い抱擁と 青せつぶん 接吻の反復の中に時間の経つのも忘れていたのである。まだ完全に治安が回復されていない時期で、夜 とう十・い になると、闇にまぎれて物騒な事件が頻発していたが、青春の陶酔が不安と恐怖を吸収していた。 ゝ、 ひんばっ ほうよ、フ ふんすい

10. 青春の証明

「大丈夫って、もう話したの ? 」 、え。でもそれとなく打診はしておいたの。あの人、長男ではないし、脈は大いにあるわ」 母も朝山家の家付き娘である。朝山家はどうしたわけか女系で、明治以来の老舗も三代にわたって婿 を取っていた。 もんち 朝山家ほどの門地と、資産のある家に入るのを拒否する男はいない。母の自信は、家付き娘としての 自負であると同時に、美しい娘をもった母親の自信でもあった。 「私、困るわ」 由美子の口調はだいぶ弱腰になっている。母に言われて、矢村に代わるべき人間がいる事実の発見に、 」ようが ~ 、 自分でも驚愕した。矢村の失踪を悲しみながらも、もうその悲嘆の傷口をべつの男をもって手当てして けんお いる自分に当惑し、嫌悪していた。 だが嫌悪はあくまでも自分に向けているものであって、木田に対してではなかった。 「なにも困ることなんかないじゃないの、おまえさえいやでなければ、すぐにも人をたてて、先方へ 正式に中し込むつもりよ」 「あんまり急すぎるわよ」 「少しも急でないよ、おまえももう二十二歳だからね、来年になると、少し嫁き遅れた感じになるよ。 女の花の盛りは短いんだからね」 母は、すっかりその気になってしまっていた。 朝山家から正式に中し込まれた木田の家では断わるべきいかなる理由もなかった。木田の家は、宮城 県の旧家であるが、木田の父親の代に主たる持ち山に大きな山火事があってから、家運が傾いていた。 しにせ