こないんだって」 「へーエ、それはまたどうして ? 」 「大庭グンの手紙って、とても名文なんだって。百五十円の特製っていうのになると、思わず涙が 出るほどだっていうわよ」 渥美弓子というのは、この町のはすれにある私立女子高校渥美学園の二年生の生徒である。 、ほ、つか あつみきゅうぞう 渥美学園という学校は、この町の素封家で町長などをしたこともある、渥美久蔵が建てた学校 で、弓子はその孫に当たる。渥美久蔵はこの地方一帯にその名がとどろきわたっているガンコじい さんで、男女共学の猛烈な反対者である。渥美学園を建てたのも、大事な孫娘を、男女共学の学校 へ入れたくないために作ったといわれるくらいで、町長時代に北山高校の運動会を見にきて、男女 の学生がフォークダンスをはじめたのを見て、来賓席からいきなり立ちあがってどなったという話 は有名である。 「勉学にいそしむべき男子学生と女子学生が手をとりあって踊るとはなにごとか ! そんなことを そっこく 教える教師は即刻グビだ ! 」 世のなかというものはうまくいかないことが多いもので、そういうガンコおやじの孫にかぎって 美人でチャーミングときている。弓子は見るからにやわらかそうな髪を短くカットし、祖父ゆずり の勝気そうなきれ長の目を、いまにも笑いだしそうにグルグル動かしては、片頬にエクポを刻んで まと いる女の子だ。彼女は北山高校の男生徒たちのあこがれの的なのである。 ろうにん だが、男の子たちは、だれも弓子に近づくことができない。去年北山高校を卒業して、浪人をし
初子はふたたびメガネをかけた。 「やあ、そのほうが似合うぜ」 久は初子のメガネの顔を見ていった。 「メガネをやめたおハツの顔はどうも親しみがなかったけれど、これで、おハッらしくなったぜ」 そんな久のことばに初子は喜んでいいのか、怒っていいのかわからない。 学校では学年末の総合テストがはじまろうとしていた。このテストが終わるとあとは卒業式の日 序まで、三年の授業はもうない。受験生たちは家で最後の勉強にとりかかり、就職組のなかには、は や就職さきへ見習いに出かける者もいて、グラスにはなんとなく落ちつかぬ気分がただよってい る。 せ お「ねえ、おハッちゃん、大庭クンと岩山のケンカ、どうなったのかしらねえ」 その後、安べ工はときどき、思い出したようにそういう。実は初子もそれが知りたくてしようが 初子のこころ
174 の家は学校を中心にして正反対の方角にあるのだ。 下校のとき、美緒はときどき、雄策といっしょの・ハスになる。雄策はあたりの女の子など見むき もせすにパスに腰をおろすと、かならすや、むずかしげな本を開く。美緒は雄策のまねをして、か ばんからアランの罰幸福論』などをとりだすと、おもむろに開いて目を落とすのだ。 しかし賢い人は心のなか 「スピノザはいっている。人間が情念を持っていないということはない。 に見事な思想を大きく作っているので、これにくらべると情念はいたって小さいものだと : そんな箇所に目をさらしていると、わけがわからぬばからぬほど、何となくヒトミは賢そうに輝 き、ロもとはキリリと引きしまって思索的な女の子の風貌をそなえてきたような気持ちがしてくる のである。 「きみ、アラン、好き ? 」 ある日、パスのなかでとなりにすわった雄策が、ふと美緒に声をかけた。 「いつもアランを読んでるね」 なかむら 好きというわけではないが、となりの中村さんへ本を借りに行ったら、これしかなかったのだか らしようがない。だが美緒はそんなことは気ぶりにも出さず、雄策を見あげて、かすかにほほえん ( じつはあまりし でみせた。うなすきもせす、否定もせす、何もいわすに神秘的にはほえむ。 ゃべって、アランについての話題がひろがると困るのだ ) 雄策は・ハスから降りようとして、立ちあがりながらいった。 、し、く 「アランの「わが思索のあと』よかったら貸してあげようカ 、。ばく、三年組の嵐っていうもので あらし かしこ
語で話しかける。 くやしいが睦子に 何がイヤといって睦子にとってそのときほどイヤな気持ちがすることはない。 ード大学進学を夢みて はその質問に英語をもって返すことが不可能である。節子は、将来、ハー おり、そのために英語の個人教授について猛烈な勉強をしているのだ。節子の英語の実力は姉の睦 子をさらに追い越しているのである。 夏休みになると睦子は何かにつけてこの妹から圧迫を受ける。節子のほうも圧迫しているつもり はないのだが、睦子が勝手に圧迫を感じているのだ。片方がまじめくさって勉強しているのに、片 方がゴロゴロ寝ころがっては、塩セン・ヘイをかじりテレビを見たり、コドモのマンガ本を読んでゲ ラゲラ笑っていてはどうにも具合が悪い。しかも、それが姉のほうなのだからいっそう具合が悪 「節ちゃん、勉強もいいけど、ほどほどにしとかないとからだをこわすわよ」 おりにふれ、母がそんなことをいうのも睦子にはおもしろくない。睦子が母から『はどほどにし すいか とかないと』などといわれるときは、たいてい西瓜を食べているときとか、枝豆を食べているとき にかぎられているのである。 と、まあ、そういう次第で睦子は夏休みがきらいなのである。はじめのうちは朝寝坊ができるの でうれしいと思っているが、それもせいぜい二、三日のことで、四日目あたりから早く学校がはじ まらないかなアと思いはじめる。睦子にとって学校は勉強する場ではなくて、遊びに行く場なの いきな 。睦子は家にいるとションポリしているが、学校へ行くと元気づく。睦子の友だちには、
「じゃあ、遠應しないで、お借りするわ」 決、いしたように新子はいっこ。 : きっと : 「いっか、きっとお返しします。お金だけじゃなく、心でも : ああ、なんといいセリフをいってくれるんだー ここんところをひと目、太平に見せてやりた きかせてやりたい。新子の目のなかに涙がふくれあがっている。ばくへの感謝の涙だ。この感 : きっと : : か ! ああ ! : お金だけじゃなく、、いでも : 謝の涙がやがて愛情に変わるだろう。 二月にはいると学校のなかには、中間テストを終わったあとの、ほっとくつろいだ気分が満ちて いる。三年生はもうほとんど学校へ来ない。進学組は家で勉強しているし、就職組のなかにはもう 退屈そ 見習いに就職さきへ出向いている者もいる。進学も就職もしない太平のようなやつだけが、 うにぶらぶらと学校へ来ているだけだ。 太平は卒業後は家業の肉屋を手伝いながら、伯父さんの空 手道場の教官をやることになっているからノンキなのだ。だが太平は元気がなかった。けつきよく 太平は坂東妻五郎の芝居をミキといっしょに見ることができなかったのだ。ミキは太平が『青の会』 に来たことでツムジを曲げてしまった。 「『青の会』で会ったんだから、もう芝居はやめ」 ミキはそういったのだ。つまり太平ははっきりフラレたというわけなのだ。 「いい金もうけがあるぞ。滞納授業料くらい、全部カタづく金もうけだ」 太平がそういってやってきた。 手に一枚のチラシを持っている。
「うーん、そうか、そういわれてみればそれもそうだな」 太平はやっと正気にもどったらしい 「そ、つか、ダメか」 太平はしょんばりといっこ。 「あの床屋がいったんだよ。とにかく個性的におやりなさいって : : : 人と同じようなことをしてい ~ 、 てはダメだ。審査要に印象づけるのがいちばんたって : : : 」 「あれじゃ印象づけすぎだよ」 ばくはプリプリしていった。 「第一、あんなところで金井グンの名を使うなんて、失礼じゃよ、 ばくはそ、つい、つと太平はしばらくだまっていてから、ポツリといっこ。 「だって、きみの恋人の名前ても、 しいって審査員がいったんだから」 「なんだって ! 」 譜ばくは太平の顔がいっかのように、赤黒くマダラになっていくのを見つめた。そしてばくは知っ 早た。太平はついに九人目の女の子を好きになってしまったことを。 レ ロ レ その日のことは、その翌日のうちにばくらの学校じゅうの評判になってしまった。学校だけでな
「じゃあ帰りましよ、つか」 「こんなところに立っていてもしようがないわ」 ばくは彼女のうしろからノソノソとついて行った。彼女はばくが思っていたよりずっと愛ら , 。自分で編んだらしい毛糸の手袋。 く、やさしく、寂しそうな女の子だった。質素な黒いオー 肩に垂れた三つアミ。 「あたしは知ってるのよ。森グンにとってあたしなんかなんのイミもない存在であったこと。で。 あたしってダメな女の子よ。知ってるくせに森グンに相談したくて・ : ・ : 」 ばくは田 5 い出した。森はばくに、 「彼女は相談があるっていうから、それを聞いてやってくれよ」 といったのだ。 このってやっ 「ばくでよかったら、それを話してみてくれないかな。森にも頼まれたんだ。相談。 くれって : : : 」 彼女はしばらくだまって歩いていたが、やがて決心したようにいオ 「あたし、学校をやめなくちゃならないの」 「学校を ? なぜ ? 」 「去年の春、父が事業に失敗して北海道へ行ってしまったのよ。そのとき、ちょうど合格の発表【 あったばかりだったんだけどあたしは進学をやめる決心をしたの、でも母がせつかく受かったん ~ し高校だけはどうでも出ておかなければといって、伯父さんに頼んで学資を出してもらうように ,
「なにさ、なんだってのよ。自分だって : : : 」 初子はそこまでいいかけて、ビ のことばを初子はのみこむ。 : 自分だって「ビョコタン』のくせに : 『ビョコタン』とい , っことばを口に ままでに何度そのことば : だが初子はそれをいえない。い オキリギリのところでそれをくいとめる。それをいえばお 出しそうになったかしれないのだ。、、こが、・ しまいだという気がする。どんなことがあってもそれだけはいってはならないと思う。 てつ はちまん 大庭久は左足が悪い。 ト学校三年生のときに酒屋の鉄チャンという同級生と八幡さまのケヤキに のばっていておっこちた。それ以来、左足が不自由になったのだ。そうして久はみんなから「ビョ コタン』と呼ばれるよ , つになったのだ。ビョコタンビョコタンと一くからである。 はじめのうち、久はビョコタンといわれると、 いった相手につかみかかっていったりしていた。 だが中学生になったころには、ビョコタンといわれても「なんだ」と返事をするようになって キュク た。試験の答案に「大庭ビョコ久』と書いて先生にしかられたりするようになったのは、高校へは 章 序いってからのことだ。 そのころから、久はやたらとふざけるようになった。先生に質問されるとダジャレで答えたり、 っ その先生のコワイロを使って本を読んだりした。久が初子の気にかかるようになったのは、どうも お そのころからのことらしい 「大庭クンってユカイねえ。学校へ来るたのしみのひとつに、きようは大庭クンがどんなことをす ーの歯で下唇をかみしめる : : : 自分だって : : : だがそのあと
「どうしたんだよ、おムツ」 としごくノンビリしたものだ。あんなウソをついて運平になんの変化も起きないのが睦子にはけ しからぬことに思われる。あたしは変わったというのに彼は変わらない。 : ああ、あたしは変わったというのに : : : チクショウ ! ウン公のやつは平気のヘーサ : : : そ う思うと運平のあの大きな図体を原爆投げかなにかでエイヤとやつつけ、ノビたところへ水をぶつ かけて、実春に見物させてやりたくなる。 学校がはじまって一週間たった。この一週間、睦子は運平と口をきいていないのだ。運平がやっ てくるとスーツと逃げる。そして反応やいかにとそっと見れば、相変わらずの象のおシリ。 「まったく ! アタマにくるツ ! 」 睦子はそう叫び、なんの罪もない神田グンの白ズボンに赤イングを飛ばしたり、塚本友代に向か って、あなたは絶対セシールカットが似合う。ぜひセシールカットにしなさいよ、と極力すすめた りする。 毛質がかたい友代がセシールカットにすると、山賊坊主みたいになることを考えた上でのことな のである。 そんなある日、例によってふたりは連平の悪口をいいながら学校から帰ってくると、西山公園の 前でうしろからだれかに呼びとめられた。 おふたりさん。いまお帰りかい。おそいぞ」 ふりかえると志津子の兄の耕吉である。
久が桜ヶ丘へ行くことはもう明らかである。 「するとやつばり図書館へ行くのかしら ? 」 と安べ工がつぶやしオネ 、こ。刀子はものもいわずに久のうしろ姿をにらみすえて歩いている。久の足 はだんだんいそぎ足になる。ときどき腕時計を見る。やがて走りだした。 「早く、安べ工、いそがないと見失うわ : : : 」 「待ってよ、そんなにいそがないでよ」 「いそがないでったって、むこうがいそいでるのよ、さあ、ノソノソしないで走るのよ」 「走る ? ダメよ、そんなこと。わたしが走らないことを知ってるじゃないの。わたしは学校を遅 刻してもゼッタイ走らないという主義を立てて、きようまで通算十二年間の学校生活を : : : 」 初子は安べ工をおきざりにして走りだした。雑木林を通りぬけ、丘への坂道をかけあがる。そう とうきゅうな坂だ。のばったところは図書館の裏手だ。久の姿はない。静かだ。久はどこへ行った のか。あたりを見まわしているとふとラケットでポールを打っ音がきこえてきた。 渥美家のテニスコートだ。そこでだれかがテニスをやっているらしい 「わ、すごい、スマッシュ という明るい声が響いた。引きよせられるようにそっちのはうへいってみると、白いスカートに プルーのセーターを着た少女が、転がったポールを追いかけて、こちらへ走ってくるところだっ た。弓子だ。ポールをひろって顔をあげたその目と目があった。初子はハッとした。弓子をこんな