200 竹子は私の視線を追ってから私の心を読んだらしく、 「碌に喰わせてもうてへんのやで、きっと。初からあの調子や。あれみたら男は口説く気イ にもなれへんと思うわ。飢えに飢えていたんやな」 と一一一一口った。 十時過ぎに店を閉めると、ウェイトレスたちは更衣室に入って通勤着と着更える。学生は学 生らしく、ダンサー上りの戦争花嫁はそれと見える服装に戻るのである。概して誰もあまり趣 味のいい洋服は着ないのだが、麗子たけは日本から持って来たドレスがまだいたんでいないの か上品な。ヒンクのワンビースを着て、まっ直ぐな髪を長く肩に垂らすとまるでハイスクールガ ールのようになった。 私は船の中での友情を取戻したく、なんとか麗子に声をかけて話しあいたいと思っていたの だが、。フェルトリコときいてからは私の方が気おくれしてしまって、なかなかきっかけが攫め なかった。帰りがけになって、やっと私は、 「麗子さん、一緒に帰らない ? と肩を並べて外へ出ようとしたのだが、 麗子は困ったような顔をした。 ス。ハニッシュ ハアレムに住んでいると知られたくないのだろうか。それとも住所が変った
いのさ。分れば気を悪くするに違いない話を、どうしてするの ? ご馳走になった上に黒い黒 いといって、それでいいと思ってんの ? 」 「黒いのを黒いと言ったのがどうだってんだい ? 」 家の主人が居直った形で私に切返してきた。私は自分の眼が吊上って行くのを感じた。 「気を悪くするようなことは言わないものでしよ。あんたが何をやって暮しているのか私が 知らないと思ってるの ? 」 相手はせせら嗤った。 「なるほどねえ、その通りだ。俺たちもあんたが黒ンポ相手のパン。ハンだとは言わないから 「なんですって。もう一度言ってごらん 「一一一一口わないよ。言うなと言ったじゃないか。林さん、どうもお邪魔しましたねえ。じゃあト ムさん又どうそ来て下さいよ。さよなら。さ、下へ降りるんだよ」 私はあまりのことにロもきけないほど興奮していた。黒ンポ相手の。ハンパン : 繰返さ れなくても私の耳朶に突き刺さった言葉は容易なことでは消えそうになかった。 客たちが退散してしまったあと、トムはおろおろして何が原因で私が怒り出したのか知ろう とした。私を抱きかかえるようにしながら、どうしたのか、彼は何を言ったのか、きっと彼は 私の立場を誤解したのだろうと思うが、それで笑子は機嫌を悪くしているのか。それならば僕 な」
334 はにか 当の、、ハア。ハラは含羞んで答えなか 9 たかわりに、メアリイが教えた。 「お早よう、、、ハア、、ハラ。お早う、べティ シモンは勢よく、、 ( ア、、 ( ラを抱きあげてその頬に音高く接吻し、それからべティをしつこく抱 きしめて、到頭泣かしてしまった。 「お早う、兄弟」 ちょっかい シモンは泣いているべティを床におろすと今度は私の胸許を覗きこんでサムに猪介を出そう とする。歯の臭さを私の鼻に吹きつけて、その騒々しさといったらなかった。子供たちに愛敬 を振撒きながら、彼はもう鼻を鳴らして台所の匂を嗅ぎつけていた。 「不思議な匂がするそ ! あれはいったい何だろう」 次の瞬間、台所で彼の叫び声がきこえた。 「神様、これはアメリカの料理ではありません ! メアリイ、なんだい、 子供たちは、この頓狂な男の出現を充分面白がっているらしかった。 髪型の形をつけたメアリイはブラシを掴んだまま台所を覗きこんで、 「すてきだわ。これは日本料理よ。ミソシルというのよ 「ミソンル 「あなたが来たので、マミイが歓迎して日本料理を作ったのねー 「おお、笑子 ! 」 こりゃあ
非色 329 私はそれから眼をさましたメアリイをシモンに紹介した。シモンはまた両手をあげて挨拶し たが、メアリイは不愉快そうに眠い顔のままで頤をしやくり、 すぐまた長椅子の毛布の中へも ぐりこんでしまった。 ハア。ハラとべティとは、それそれ大人のべッドに一人ずつ眠っていた。私が名前を教えると、 その都度シモンは二人の額に接吻したものである。それから彼はべティの寝ているべッドの端 に腰をおろした。 その頃になって、ようやく私は当惑し始めた。何をしにシモンはニューヨークへやって来た 。・ツドの端に腰かけたシ のだろう。それより、今夜、彼はどこへ泊るつもりでいるのだろうへ モンは、ごく気軽な態度でもう鼻唄でジャズを唄っている。片脚をジャズにあわせて。ヒクビク 動かすのが私には貧乏ぶるいのように見えた。 「シモン、あなたは何をしにニューヨークへ来たの ? 私は遠慮なく訊くことにした。 「何って別に。ただアラ。ハマにはいられなくなったものだから」 「どうしていられなくなったの ? 」 「働いていた工場が閉鎖したから。南部は不景気なんですよ」 「それじゃ、ニューヨークで暮すつもりなんですか」 シモンはひゆっとロ笛を吹いてから、そうだと言った。トムと違って、この弟は陽気な性質
130 れば、この苦い水が、私がアメリカに来て初めて口にしたアメリカの味だった。 「トム、どうやって電気をつけるの ? 私は、わざと大声を出して訊いた。 「今つける。ちょっと待ってくれ」 トムは起上って、暗い中で身ごしらえをした。彼もメアリイの存在を意識しているのに違い ない。急に電気がつくと、部屋中が黄色く染まって現われた。裸電球が一つ、天井に心細く輝 いている。夜になってみると、部屋はいよいよ船の中に似てきた。急に明るくなったのに、メ アリイの眼は瞬きもせずに、とろんと力なく私たちの顔を交互に見較べているようだった。私 はわざとメアリイを黙殺し、構ってやらなかった。夫婦の当然の行為を娘に恥じるのは嫌やで あったし、わざとらしく話しかけるのは面映ゆかった。 トムはキチンで ( この家には洗面所がないので洗面も洗濯も、後には入浴もキチンでするこ とになった ) 顔を洗い、髭を剃り始めた。 私はこちらの部屋から大声でひやかしてやった。できるだけメアリイの関心を別のものに向 ける必要があったのだ。 「ダディ、今ごろから、おめかしなの ? 」 「うん、行かなくちゃならない。遅れたら大変だ」 彼の返事は私を驚かせた。
トムに帰国命令が下ったとき、メアリイは三歳になっていた。私たちの住む青山のアパート 色には、五年近い私たちの夫婦の歴史がところどころにしみついていた。トムは七年前に召集さ れたニューヨークに戻り、そこで除隊されるのだという。 「帰って、僕の家族を迎える準備をする。一年以内に必す呼ふ とトムは繰返し私の肩を抱いて言ったが、私は曖昧な顔をして肯いていた。この私が、生れ していた。 ヒロイック トムと結婚するとぎも、私の愛は英雄的であった。メアリイを産むときも、私の愛は英雄的 であった。今また一人の子供を此の世から抹殺した行為も英雄的なものなのである。愛は本来 平和なものたという常識があることを私は思い出した。どうして私の愛ばかりは、どんな場合 でも猛々しいのたろう。私はいったい何時から英雄主義を信奉するようになっていたのだろう。 なぜ私は、もっと静かで穏やかな愛を持ち、育てることができないのだろう。瞼を閉じても、 天井にひろがっていた大きな雨洩りの地図は消えなかった。それどころか、それはまるで世界 地図の部分のようになって私にのしかかってくるような気がした。 看護婦が飛んで来た。私は思わず悲鳴を上げていたのだった。 ヾ 0 、、
300 初めて見たブルックリンの街の光景は、いつまでも私の記憶に鮮かに残っていて、 ( アレム の路上でニグロばかりの人群れを見るごとに思い出された。それは更に、竹子の行ったヴァジ ニアへ連想を伸し、どんなところなのだろうかと私に楽しい空想をさせた。この子供が産れて、 また貯金ができたら ( これで子供は終だ ! どんなことがあっても ! ) 子供たちを全部連れて トムの故郷のアラ、、ハマへ出かけてみよう。アラバマ州 ハーミンガムには、トムの姉さんと弟二 人と母親が住んでいて、年に一度ぐらい手紙をくれ、そこにはきっと、いっか来て欲しい、会 いたいと書かれてあった。私もアラ、、ハマへ行くのだ、、、ハスに乗って。このニ、ーヨークを一歩 出て河向うへ渡っただけでも、あんな別天地があるのたから、アラバマはまあどんなに素晴ら しいだろう。 出産後、更に何年か先のことであるのに、私はこの計画を娘たちに話さずにはいられなかっ た。そしてメアリイは眼を輝かした。 「ハア、、ハラ、べティ、聞いた ? アラバマへ行くんですって ! ダディの生れ故郷よ ! 私 が二割以上あるときいている。私はマン ( ッタンから河を越えてきただけで新しい世界を見て、 考えることが多くなったが、竹子はヴァジニアへ出かけて、何を見て、何を感じるだろうか。
321 メアリイほどには軽蔑の目で見ないだろうから。 だが麗子は : : : 。麗子は帰らなかった。帰れない事情が、彼女のついた嘘なのか、その嘘を 信じている両親の存在だったのか、それとも麗子は既にニ、ーヨークという複雑な大都会に魅 せられていたのか、麗子の死んだ今は聞糺す術もない。 それにしても、と私は今更のように思う。やはり問題は肌の色ではないのではないか、と。 ひょっとすると、ニグロの肌が、白人と同じように白くても、私たちは ( アレムに住んでい たかもしれない。なぜなら、ニグロは、このアメリカ大陸ではつい百年前まで奴隷だったから。 奴隷の子孫は、まだまだ奴隷なのだ。人々は過去の記憶を決して拭い去ろうとはしない。恰度、 罪人の眷族が目ひき袖ひきされていつまでも罪人の眷族だと後指さされるように。私は、子供 の頃にそれと似た記憶を幾つか持っていた。小学生の頃、私の級に綺麗な女の子がいて、身装 りもいいものだから先生にも可愛がられていたし、男の子たちも特別の眼でみているようだっ た。ある日、級の一人が重大なニ = ースを持ちこんできた。「あの人のお祖父さんは乞食たっ たんだって ! ーその日のうちに、この話は級中に知れわたり、意地の悪い子は面と向って言っ たものだ。「あなたのお祖父さん乞食だったって、本当 ? ー言われた子供は驚いて顔を赤らめ、 返事ができなかった。翌日から三日休んだ。出てきたときは、前のような朗らかさは少しもな くなっていた。いつもおすおずとして、どんな囁きにもビクッと身を震わせていた。六年生に なって、その子が第一志望の女学校が不合格になったとき、それがお嬢さま学校と噂されてい けんぞく
くちやかま 志満子の方ではジャミイがニグロの子と遊ぶことを快く思わない。かねて口喧しく言いきか せていたから、志満子の姿を見つけると、どんなに楽しく遊んでいるときでも眼から全身に電 気が走るように四肢を硬直させた。 「お帰り、ジャミイ。こっちへ来るんだってば。分らないのかい ? 」 志満子は英語で喚き、ジャミイはバネ仕掛けの人形のように飛上って走って行ってしまう。 私は前から気がついていたが、ジャミイは日本語が全く通じないらしく、ケニイやメアリイに 話すのにもその点で大分おどおどしていた。母親が徹底して英語で教育していたのである。 それにしても折角楽しく遊んでいる子供を友だちからもぎとるような母親は酷く、ジャミイ も哀れで私は胸がっかえたが、 「白人の家の犬みたいなもんやな、あの子。英語やなけりや通じへんー 竹子は、せせら笑って見送っていた。 せつかん 私は子供の監督を彼女に任せて甲板を降りた。ジャミイが折檻されるようなら止めなければ ならないし、麗子の容態も気になっていた。 志満子は大声でジャミイに絵本を読んでやっているところだった。ジャミイのような細い子 には日光浴や運動が大層必要なことなのに、暗い船室に閉じこめるからいよいよもやしのよう になってしまうのだと思ったが、言えば噛みつかれるから一一一一口うわけこよ、
「お醤油も、ない ? 」 そうた、醤油も入れなければならない、塩とソースの味つけだけで何日も暮すことなど私に は想像もできなかった。 「まるで奥地へ探険に行くみたいだねえ」 と、私の母は私が用意した品々の山を見て呆れたように言った。 「だって皆目見当がっかないのだもの」 「そりやそうたね、家で洋行するのは笑子が初めてなんだから」 「御先祖さまが吃驚してるんじゃないかしらね」 皮肉で言ったのではなかった。母や妹の態度に殺してやりたいほど腹をたてたこともあった が、いざ日本を出るときまってみると、何もかもがかしかったのだ。私は、この国に生れて 今日まで二十八年この国に生きてきたのである。その日本から多分永遠に出て行ってしまうと いうとき、怨みよりかしさの方が強く大きかった。 出立の日は四月二十七日に決った。大きなトランク三つに親娘の物を詰めて、私たちの準備 色 はその一週間前には完了していた。そんなとき私は、メアリイを見詰めて考えることがあった。 非この娘は五年この国に生きた。が、間もなくメアリイは日本語を忘れ、日本で暮した生活も忘 れてしまうのではないか。感傷だと言って人は笑うかもしれない。だが感傷だとして、それが どうだと言うのだ。祖国を出て行く人間が感傷に溺れることを誰が咎めることがでぎるだろう。 103