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検索対象: 非色
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1. 非色

282 題がついていた。日本のお寺のお説教よりは遥かに分りやすかったけれども、私はゆっくり聴 いている暇がなかった。麗子の支度を手伝わなければならなかったからである。 「麗子さん、どこか悪いんじゃない ? 顔色がよくないけど ハアレムへ訪ねて来たとき以来、彼女は痩せ細って、大きな眼がまた一廻り大きく見えた。 五年前の長い船旅に船酔で弱りきっていた麗子を、また見るようだった。しかし麗子は大丈夫 よ、と強い声音でいい、楽屋を与えられると、すぐに化粧にかかった。 かつらは冠らなくても、日本式の厚化粧にしてほしいと小田老人から注文があったので、白 い粉白粉を買ってきて化粧水で溶いて水白粉を作り、刷毛でこってりと塗ることにした。紅も、 わざと口紅を瞼にも頬にもさして伸ばした。そこまでは私も知恵を出したが、化粧にかかると まゆずみ 麗子は鏡を見詰めて物も言わなくなった。まっ白に塗りつぶした上から、紅をさし、黛をひき、 目ばりを紅筆で人れた上に、更に麗子がふだん使っている水色のアイシャドウを使って、その 上に付け睫毛をした。美しく大きな眼が、より一層ばっちりと開き、黒々と輝く。 「きれいよ、麗子さんー 私は溜息をついた。 麗子はパアマをかけずに結い上げていた髪をほぐして、背に長く垂らした。見事な黒髪だっ た。額から前髪をとって日本髪のように丸くふくらませ、純白のリポンを飾ったのは私のアイ デアである。鏡の中の麗子は、まるで無垢の少女のようだった。この厚化粧の下に蒼ざめた肌

2. 非色

330 らしかった。彼はまた両手をひろげ振りまわし、それでリズムをつけながら喋り出した。 「ニーヨークは南部の人間の憧れなんですよ。おお、文明の都市。おお、世界一の大都会。 人間みな平等の国。天国。誰でも憧れますよ。でも、悲しいかな南部の人間が全部ニューヨー クへ出てくることはできない。なぜって、それは皆が皆ッテを持ってるわけじゃないからです ねえ よ。おふくろが言いましたよ、シモン、お前は幸福だって。そうですよ。嫂さん、僕にはツテ があったんた。トムとあなたがニューヨークにいたから ! 」 私は大きな溜息が出てくるのを抑えようともしなかった。 「シモン、あなたはそれで今晩はどうするつもりなの ? 「今晩 ? もちろん兄さんの家に泊るつもりですよー 「トムは明日の朝にならなきや帰らないわ」 「勿論知ってますよ。おふくろが言ってました。夜はトムのべッドが空いている筈たっ 私はもう一度大きく吐息をつき、それから無愛想に言った。 「いいわ、分ったわ。メアリイを起して。ハアバラと一緒に寝かせますから、あなたは長椅子 へ寝て頂だい」 「有難う。歓迎してくれると思ってましたよ。トムはあなたをこの世で最も素晴らしい女性 だと言っていましたからね。日本人というのは、世界中で一番親切な国民ですってね。アラバ

3. 非色

141 非色 よろと歩き始めた。母親は私を認めると、大きな顔を開けひろげて笑いかけてきた。私は慌て て微笑を返し、反射的に、 「なんて可愛いんでしよ」 などと言ったものだ。 「可愛いものかね。八人もいて、家の中はまるで犬小屋だ。これが大きくなって親不孝をす るかと思うと腹が立つよ」 体驅にふさわしい大声で彼女は喚いたが、その眼は一一一一口葉と裏腹に優しく、満足げに末の子の 動きを見守っていた。私はとても彼女に向って妊娠して困っているとは言えそうになかった。 マリリンが訪ねてきたのは、そんな頃であった。トムの自慢の従姉だ。金髪と白い肌のホワ イトニグロ。その実物を初めて見たとき、私は自分の顔から血の気のひくのを感じた。彼女よ 白人なみに背が高く、その上に高いハイヒールをはいて、颯爽と私たちの地下室へ舞い降りた のだったが。 「あなたが笑子ね。私、マリリン。こんにちは ! まあ、メアリイでしよ、トムにそっくり だから、すぐ分るわ ! 」 ハアレムの住人たちと違って、彼女の言葉は軽快で大仰だった。が、私も、抱き上げられた メアリイでさえ小さな恐怖を覚えて、咄嗟には返事ができなかったのだ。 トムは彼らの祖父であるアイルランド人の純粋の血が、一人のマリリンに混りけなく流れこ

4. 非色

「お醤油も、ない ? 」 そうた、醤油も入れなければならない、塩とソースの味つけだけで何日も暮すことなど私に は想像もできなかった。 「まるで奥地へ探険に行くみたいだねえ」 と、私の母は私が用意した品々の山を見て呆れたように言った。 「だって皆目見当がっかないのだもの」 「そりやそうたね、家で洋行するのは笑子が初めてなんだから」 「御先祖さまが吃驚してるんじゃないかしらね」 皮肉で言ったのではなかった。母や妹の態度に殺してやりたいほど腹をたてたこともあった が、いざ日本を出るときまってみると、何もかもがかしかったのだ。私は、この国に生れて 今日まで二十八年この国に生きてきたのである。その日本から多分永遠に出て行ってしまうと いうとき、怨みよりかしさの方が強く大きかった。 出立の日は四月二十七日に決った。大きなトランク三つに親娘の物を詰めて、私たちの準備 色 はその一週間前には完了していた。そんなとき私は、メアリイを見詰めて考えることがあった。 非この娘は五年この国に生きた。が、間もなくメアリイは日本語を忘れ、日本で暮した生活も忘 れてしまうのではないか。感傷だと言って人は笑うかもしれない。だが感傷だとして、それが どうだと言うのだ。祖国を出て行く人間が感傷に溺れることを誰が咎めることがでぎるだろう。 103

5. 非色

364 で中をゆすげばみつけものたった。匙でミルクを計り、目分量で湯を注いで、乱暴にサムのロ へゴムの乳首を突っこんでいるのが私の眼には見えるようだった。私は膝の上に大切に抱き上 げて、静かにミルクを飲ませている王女さまを見ながら、人間の世間には人種差別よりもっと 大きな差別があるのではないかと考えていた。オジョオチャマとサムの育てられ方の違いは、 一方が白人と日本人、一方がニグロと日本人の混血だからということではない。確かにサムは 黒いけれども、だから参めなのではない。色の故ではない。では何なのか。 私は今こそはっきり一一一口うことができる。この世の中には使う人間と使われる人間という二つ の人種しかないのではないか、と。それは皮膚の色による差別よりも大きく、強く、絶望的な ものではないだろうか。使う人は自分の子供を人に任せても充分な育て方ができるけれど、使 われている人間は自分の子供を人間並に育てるのを放擲して働かなければならない。肌が黒い とか白いとかいうのは偶然のことで、たまたまニグロはより多く使われる側に属しているだけ ではないのか。この差別は奴隷時代からも今もなお根深く続いているのだ。 私はやはり日本料理屋で働くべきであった、と私は後悔していた。あの場所でも私が使われ ていることに変りはなかったが、しかし少くとも「ナイトオーの奥さんには子供がなかった。 そうだ、辞めよう ! 私は急に立上り、腕の中の子供に気がついて慌てて椅子に腰をおろし た。授乳後すぐに動くと赤ン坊は乳を吐くから安静にしているようにとナンシイに仕込まれて いたからである。住込んでからやっと一週間になるやならずであったが、サムと較べてあれた ほうてき

6. 非色

トムが年に一、二度病院から持って帰る雑誌の中に『エボニ』という大判の週刊誌があった。 どの頁にもニグロの写真があり、ニグロの中の有名人やその立身出世物語で埋っている。いわ ば『ライフ』の黒人版といったものだ。その中に、殆ど十頁おきぐらいに、様々な特製ボマー トの広告が出ているのに私は気がついた。 十九セントのボマードは三オンス足らすの中身しかなくて、二晩でなくなってしまった。針 金のようにこわくてぎしぎしと縮れている髪をしなやかにして大きなウェープに変えるために は、顔に流れてくるくらいどっふりとつけなくては効果がなかったのだ。メアリイが泣き出し そうな顔をして、瓶の底を眺めているのを見ると、私は私の方から積極的に次の瓶を買ってや よ、つこ 0 らないわけこま、 それから今日までの二年間に、私はまあどれくらい多くのボマードを買ったことだろう。最 初のボマードが臭いばかりで効果がないと分ると、私とメアリイは『エボニ』をひっくり返し て次々と製品を変えていった。「風や雨や汗や湿り気で元に戻らない最新のボマード」という うた 謳い文句を信して四ドルも出して買ったものもある。それもまた猛烈にいやな臭みがあったが、 色 私は我慢してメアリイの背後に立ち、念入りに櫛で梳ぎながらつけてやった。櫛の歯に髪がひ 非つかかり大層梳きにくいのが、油をつければつけるほど櫛の歯の通りがよくなり、そのうちに ウェー・フが大きくなって、髪は思うように私の指先の言うことをきくようになる。だが、それ でセットして夜寝れば、朝はもうちりちりなのだ。またボマードをつけ足して念人りに・フラシ 239

7. 非色

非色 319 ているプエルトリコ、その種族に属した麗子が、精一杯に生きるためには、こういう形で自尊 心なり夢なりを養うしかなかったのではないか。最下級の、最も惨めな生活の中で、麗子を支 えていたのは日本向けに作りあげた虚偽の物語であったのだ。まっ白くふかふかしたストール。 ホテルのような家。この夏はマイアミで : : : 。麗子は獏のようにそうした夢を食べながら、ナ イトオの店員用丼で栄養を摂り、瑞々しく美しくニ、ーヨークで生きていたのだ。三年したら 遊びに帰ります・ : ミンクも宝石も揃ったところで旅費と滞在費を貯めこんで、麗子は颯爽 と故郷に錦を飾るつもりだったのだろうか。 「笑子さん、 : ご免なさいね」 地下鉄の入口で、弱々しく私に詫びた麗子が思い出される。あの大きな漆黒の瞳が濡れたよ うに力ない輝きを帯びていたことも。麗子は、あれから間もなく死んだのだ。 しかし、それにしても何故麗子が死ぬ決意を持ったのか、その理由は定かには分り難かった。 日本に向って嘘をつき通すことなど容易な筈だったし、麗子だけの貯金があれば出産前後に働 くのを止めていたところで、それで先に行って困ることもない。私と同じようこ、 冫いくら産ん でも、前と同じ暮しが続くたけのことなのた。 だが、そうは言っても、私は麗子が死んだ理由が全く分らないというわけではない。夢で辛 うじて支えられていた麗子の生活が、妊娠という事実の前でもろくも潰え去ったのだ。女の体 の変調は、大きく精神を揺さぶってどんな愚かな女をも現実にめざめさせる。麗子は母となる

8. 非色

189 「罰当りなことを言うもんじゃない」 奥さんは。ヒシリと言い、大きな眼で私を睨むと、しばらく物を言わずに煙草を吸っていたが、 「クロークも、キャッシャーも、見えちまうねえ」 などと呟き始めた。客のコートや帽子を預かるクロークの仕事は、私もずっと前に「。ハレ ス」でやっていたから出来ないことはなかったが、客から大きな腹が見えるのは、どうもまず いというのであろう。 「ここはどうフ・」 しばらくして、奥さんが訊いた。 「はあ ? ここで働いたら ? 大きなおなかでお客をぎよっとさせるのも面白いよ。 「志満子の代りに、 志満子はそろそろ店へ出そうと思っていたところだし。ここなら掃除と洗濯だけで、どっちも 機械がやることだし。お昼から出てきてもらうことになるけど皿洗いより楽ですよ。どう ? 」 こんな思いやりをかけて貰えるとは思ってもいなかったので、私は感動し、涙ぐむばかりで、 碌に感謝の一一一口葉も出せないのにじれったい想いをした。 奥さんは志満子を呼んで、私と交替させる旨を申渡し、仕事のやり方を今から私に教えるよ うにと一一一口った。 私たちは奥さんの居間を出ると、隣の清潔なキチンに入り、志満子は奥さんが昼の十二時前

9. 非色

あった。 「色というならば、アフリカこそ結束するべきたね」 や、色の中から我々は独立したのだ」 「そうとも。しかし問題は色ではない。い 「そうだ。独立したのだ ! 」 ウエル・エデュケイテド 彼らは教養ある黒人であった。女性に対する礼は失しなかった。チ = ニジアの青年は、 あらためて私に恭しく答えた。 「ジャクソン夫人、アメリカのニグロも独立すべきなのではないでしようか ? 」 ガーナの青年は、すかさず同意して、それから朗らかに笑い出した。彼の大きな笑い声は他 の客たちの注意を惹き、すると二人は私に会釈して向うに行ってしまった。 気がつくと、人々はビッフ , の皿をもどして、デザートに移っていた。大喰いなアメリカ 人たちは食事の後でかならず大きなスポンジ・ケーキを食べるのである。アラブ人の大男が、 むしやむしや音をたてながら、チリの女性にピラミッドの説明をしていた。私はようやく我に 帰った。汚れた皿を台所に下げなければならない。料理の残りも下けて、かわりにコーヒーと 紅茶を運ばなければならない。 汚れた皿を積上けて台所に入ると、奥さんがコーヒーと紅茶の用意をしているところだった。 「運びます」 「いいわよ、私がサーヴするわー

10. 非色

138 行かれる生活が、妊娠によって私が働けなくなり、やがて口がもう一つ殖えるというのは想像 みごも するだけで絶望的であった。だが、このニューヨークでは、妊った女はどんな理由があっても 産まなければならなかった。 終戦後八年たった日本でさえ、復興はめざましく、人々の生活は一年一年向上していたとい うのに、戦争に勝った国のアメリカで、しかも世界最大の経済都市のド真ン中に、こんな惨め な、こんなにも低い生活があろうとは、誰に想像することができただろう。ハアレム ーヨークの黒人街は、実にそういうところであった。失業者が溢れていた。大人も子供も餓死 だけはしないというギリギリのところで暮していた。だが同じ身の上の者ばかりが集った中で はそれを格別の不満とも思わずにいられるのかもしれない。みんな案外暢気な顔をしていた。 黒い肌と、白い部分の大きな丸い眼と、肉の盛上った丸い鼻、厚く大きな唇というニグロの 顔の造作は、白や黄色の顔を見馴れた者には動物的に見えるかもしれないけれども、その中で 暮してみれば、彼らの顔がどんなに人間的かということに気づく。恰度石膏の彫刻よりも・フロ ンズの塑像の方が迫力を持っているように、ニグロの肌の色が強烈な印象を人に与えるだけで、 それに馴れてしまえば、彼らの造作の一つ一つが大層優しく見えてくるのである。ハアレムの