106 立つのだ。こんなあえかに美しい花の眺めが、この日本以外の国にあろうとは思われなかった。 私は花の中に埋もれて、日本に生れて生きた幸せを味わいたいと思った。日本は美しい国だっ た。日本はいい国だった。ただ私にとっては運悪く住み難い国になってしまっただけなのだ。 「メアリイ、あの大きな鳥居の向うには戦争で死んだ兵隊さんたちが祀ってあるのよ 私の指さす彼方の遠い社殿を眺めても、メアリイは少しの感動も示さなかった。私は、やや しばらくして胸を衝たれるようにっていた。 この子の人生は、戦争の終ったところから始まっているのた、と。 べンチに腰を下して、私たちは持ってきたものを展げ、花見酒の代りにコカコーラの栓を抜 いた。サンドイッチを食べ、林檎を齧り、メアリイと私は意味なく顔を見合わせてはほほ笑み し」つよう あった。春うららの午後、花見がてらの逍遥に来ている人影は少く、彼らは私たち親娘を見つ みは けるとしばらく奇異の眼を瞠って立ちつくしていたが、今日の私たちにはそんなものはそれほ ど気にならなかった。春風に吹かれながら、私たちは実にのびのびと幸福な呼吸をしていた。 夫の待つアメリカへ出かけるといえば人は国際結婚の華やかさを想い、春の空に銀の翼をひ ろげた飛行機の旅行を考えつくだろうが、連合軍が私たちのために用意してくれたのは貨物船 だった。トムが乗ったのと変りのない野暮ったい船にのって私たちは横浜を出航した。
私にはその意味が全く分らなかったから、腰掛けどころか女将さんさえ許してくれればいっ までも働きたいと答えた。多少いやらしい台詞でも、この場合は仕方がなかった。それに、食 事がついて、しかもトムより収入がいい働ぎロなどが他においそれとあろうとは考えられなか 二人の留学生はもうやめていて、かわりに背のおそろしく低い女が働いていた。 すぐ四月が来るというのに雪が降ったりして、外は身を切るほど寒かったが、建物の中は日 本と違ってどこも暖房が完備している。夏場と違って客も多かった。スキヤキの注文が一番多 い。たまにアメリカ人の客があって、浴衣を着て給仕する私に片言の日本語で話しかけてくる。 日本から来たか。いっ来たか。東京のサチコという女を知ってるか。いい娘だった。私の友だ ・ : といった類のものである。馬鹿馬鹿しいし、相手になっている暇もな ちだ、知ってるか。 かった。日本人の客は、たえまなく私たちを呼び、鶏卵や御飯のおかわりを言いつける。 「ハイ、二番さん、卵下さい。三番さん、御飯のおかわり二ツー 私は威勢よくキチンへ通した。もう一人の女中はしめつ。ほい娘で、注文の受け方も、料理の 色 運び方もおよそばっとしないので、私のやり方は人目もひいたし女将さんの心証も大分よくし 非たらしい 「あんたがいると、景気がよくっていいよ」 と彼女も喜んだし、主人はキチンから笑いながら、 っこ 0
220 「どうして ? 」 「そうやないか。。フェルトリコをかばうのはええ気持やろ ? 黒より下の亭主持ってる女や と思えば、単純な私らは嗤いものにするけど、あんたはもう一つ手工こんでいるだけや。同し ことなら嗤うたり悪口言うたりする方が私は好きゃな、正直で」 私は咄嗟に返事ができなかった。血の気がひいているのが分る。それは竹子の言うことが、 まるきりの見当外れというわけではなかったからたろうか。 その夜、レストランが閉いて、私たちが更衣室で着更えているところへ麗子が戻ってきた。 赤く上気した顔で、手早くストールをとるとロッカーにしまいこみ、かわ・りに外套を出して羽 織ると、こそこそと出て行ってしまった。ホセがまた迎えに来ているのに違いなかった。 日本商社の外国駐在員が妻子連れで赴任してくるという例は少かったので、ニューヨークで ぶりようかこ も若い日本の男たちは無聊を喞っていた。東京のように男同士で遊べる場所というのは少く、 どこでも男女一対が単位になって出人りする仕掛けになっているから、度胸とドルのない男た ちは手も足も出ないのである。それでホームシックにかかったりノイローゼになったりするの がいるのは気の毒たったが、病気のよりつかない図々しい男もいて、そういう連中は白人女の おなご
216 「どうして ? 竹子さんと一緒に御飯を食べるだけなのよ」 「ええ、私は行きたいんだけど、ホセがハアレムでは迎えに行けないからって」 「あら、一人で帰ればいいしゃないの。なんなら私たちが送っていってもいいわ」 私はホセに何を心配することもないし、ちゃんと時間には帰れるようにするからと、直接話 してみたが、彼は態度を硬化させてしまって、私の英語は分るくせに返事はスペイン語で麗子 に一一 = ロうのである。 「ご免なさい、笑子さん。いずれ話すけど、駄目だわ、どうしても」 「あなたを信用しないのフ 「そうじゃないけど」 「まるで自由がないみたいじゃないの。あなたがこの人を養ってるんでしよう ? それで何 を遠慮することがあるのよ」 私も到頭腹を立ててしまったが、それでどうなるものでもなかった。ホセが何を懸念してい るのか分らなかったけれども、麗子が来ればトムも私も彼女に日本へ逃げて帰れと忠告する筈 だったから、私もホセに向ってシラを切りぬいて説くわけにもいかなかったのである。その意 味ではホセのとった態度は利ロだったと一一一一口えるかもしれない。 いずれ話すと言ったけれども、麗子はその後も自分の方から打明け話を持ってくる様子は見 せなかった。
ところがあって、何事によらず打明け話をする相手ではなかったのである。 仮にもレストランをやるからには、料理の心得はあろうと思われるのに、どう見ても「ヤョ てんや イ」で売っている料理は素人の盛りつけで、日本のいわゆる店屋ものにも及ばないのである。 スキヤキなどはもともと素人のする料理なのだからともかくとしても、天ぶらや豚カツや牛肉 のてり焼きなどの作り方は、見てくれの格好もついていなかった。不景気な店だったが、それ でも客が来るのは不思議に思えるくらいである。 しかし、「ヤョイーの料理にそんな感想を持つのは日本から来て間もない日本人だけなので あった。週に一度きまって現われる常連の一人は、年寄りだったが、 「天どんー こう注文するのが何よりも楽しみであるらしかった。 割箸を音高く割って、 「有難いよ、この割箸というのは間違いなく日本のものなんだから」 と、天どんの蓋をとるときから笑み崩れている。 色 「うまいー 非舌鼓を打ちながら平らげて、帰りがけには十セントのチップを置いて出て行くのであった。 「変ってるよ、小田さんは、まったく」 後を見送っている女将さんに訊いてみると、戦前からの一世で、女房を亡くしたあとは気楽
174 「へえ、大阪は私の生れて育ったところですさかい、 ここで江尸ッ子になれ言われても、土 台無理ですがな、奥さん」 「大阪弁が悪いと言ってるんじゃないんですよ。大阪弁にだって、もっと品のいい言葉づか いがあるでしよう ? あんたの言い方は、まるで場末のチャブ屋の女みたいですよ。どんない い道具を置いたって、あんたの日本語で滅茶滅茶だ」 竹子はキチンの窓口で私を見かけると傍へ寄って来て愚痴をこ・ほした。 「三十年使うて来た一一一一口葉やさかいな、どないしても直れへんわ。私が船場や芦屋で育ったん ゃないことぐらい、分りそうなもんやけどな。なんちゅうたかて黒の女房に向いてるんや」 ニグロと結婚していることを自分から吹聴して歩く竹子が、実はそれについて強い劣等感を 持っているのだということに私が気づいたのはこのときである。日本にいたときだって育ちが 悪かったのだ と竹子は嘯いていた。だが、奥さんに注意された後の彼女は、しばらく勢が なかった。他の言葉を器用に使うことができないので、そうなると寡黙になるのであり、お喋 りな人間が口を封じられたときほど哀れつ。ほく見えるものはないからであった。だが、そんな 彼女が生色を取戻すのは、志満子が叱られるときであった。 「なあ気取っていても化の皮は剥がれるわ。あれも育ちはええことないんやで。白人ちゅう たかて、あんな女と一緒になる男に碌な奴がいるもんか。黒より上等のつもりでいても、白い のにもビンからキリまであるさかいにな」
アップタウン ちの住むハアレムは、かなりの上町になるのであった。一二五丁目のハアレムから、「ヤョイ というその日本料理屋まで、八〇丁目も下らねばならなかったが、レキシントン街まで歩いて、 そこで地下鉄にのれば、そのすぐ近所で降りることができるたろうとトムは言った。トムはそ の近くのホテルで皿洗いをしたことがあるので、その辺りの地理には詳しいらしかった。 「ヤョイって、どんなレストラン ? 」 あくび トムは両手をひろけて、中にはいったことがないと言い、それから大欠伸を一つして、べッ ドに入って寝てしまった。 よ、つこ 0 冫 : し、刀子′、力 / 昼と夜をとっちがえた勤めなのたから、彼の睡眠を妨げるわけこま、 「マミイ、買物に行かないのフ メアリイが昨夜の約束を覚えていて催促したので、私は仕方なく彼女の手を曳いて外へ出た。 この家の中に閉じこもっていては、佝僂病になってしまうと思われた。家の中で・ほんやりして いるくらいなら、前の通りをぶらぶら歩いた方がよほど健康的だ。それに昨日来たばかりの私 たちは、とっくりと隣近所を見ておく必要もあった。 色 朝のうちから家の外にはかなりの人出があって私は驚かされた。どうやら私たちのような穴 非ぐら族が、呼吸をするために這出てきたところらしい。右を見ても左を見てもニグロばかりだ った。当然、肌の色も顔だちも違う私は人目を惹いた。だがメアリイを連れているのがいい身 分証明になった。人々は、少しも私に敵意を示さなかったし、意地の悪い視線も投げなかった。 135 くる
んでお尻をさつばりさせてやった。親の身贔屓をどう引締めても、私にはメアリイが人並み外 れて利ロな子供であるように思われてならなかった。古本屋で育児の本や母親読本を買って来 て読んでは較べてみたが、メアリイが母乳から幼児食へ移ったのも、お坐りも、這い這いも、 立っちも、最初の言葉が口から出たのも、標準より平均三か月は早かったのである。 私は得意だった。トムが帰ってくると、私はその日の出来事を総て報告した。メアリイが笑 った。メアリイが泣いた。メアリイが立った。何秒間だった。メアリイが動いた。何十センチ 動いた。メアリイが食べた。メアリイがどういううんこをした。私は細々と報告した。そうい うとき私の顔は、半分溶けてしまっていたかもしれない。メアリイの誕生前後のトムの熱狂ぶ りが、いつの間にか私に移ってしまって、トムは呆気にとられて私の顔を見るばかりだった。 だが、そんなトムもメアリイがよちょち歩き始める頃には父親らしさを取戻したらしい カモン・ ウエルウエルべリイ・ウエルウエル・ダン べイビイ 「さあ、おいで。ここまでおいで、メアリイ。そう、そう、そうだよ。でかしたそ」 休日には一日メアリイの相手になって、仔犬のように一緒になってじゃれ廻るようになった。 メアリイに白い皮の靴をはかせたとき、私はどうしてもこの可愛い子供を世間に誇示して歩 きたくなった。白いレースのベビー帽にピンクのドレスとケープ。それに白い靴などという贅 イ。いかにも敗 沢な身装りをした子供など、その頃の日本では見当らなかった。日本人の子共よ、 戦国の子供のように襤褸にくるまってぎゃあぎゃあ泣き喚いていた。そういう子供を産んだ親 たちは、栄養が躰中に行き渡り、美しい高価な舶来品の幼児服を纏ったこの子供を、どんなに
非色 229 に飲むのだろうか。 「飲めるんじゃないですか、強いんだね、なかなか」 しいえ、初めて飲んでみたのよ」 初めて、という一一一一口葉で、井村はまた前のように、けたけたと笑った。 「初めて、そいつはいい」 反射的に私は訊いた。 「井村さんは、お子さんは」 「いますよー 「何人ですかー 「二人」 「男の子 ? 女の子 ? 」 「なんだっていいじゃないか」 , 。明らかに気分を害していた。これから寝ようかと迫っている女から子供のことを訊かれ ひる るのは、彼の神聖な家庭を冒すものだと思ったのかもしれない。だが、私は怯まなかった。 「私は女ばかりなんですよ。三人とも。一人は日本で産んだんだけど、あとは = ーヨーク へ来てから次々と生れちゃって、だから、丸三年たっても、どこも知らないんですよ」 「旦那さんは何をしてるんですー
しているのは彼の姉であった。この部屋にはマイミ一族が大家族制度のまま。フェルトリコから 移り住んで来ていたのだ。ああ、麗子が、ここで、どうして妊娠したのだろう。 「ホセ、麗子に赤ちゃんが出来ていたのを知らなかったの、あなたは」 「知っていました。私は大変喜んたのですが、麗子は欲しくないと言って泣きました。私た ちが喧嘩をしたのは、後にも先にもあのときだけです」 「子供が生れてくるのが嫌やで、それで麗子は自殺したんでしよう ? 」 「とんでもない ! 」 ホセが眼を剥き出して、私に喰ってかかるように喋り出した。 「子供が産れるというのは神の恵で素晴らしいことなんですよ。どうして、それが原因で人 間が死んだりするものですか ! 」 「じゃ何故麗子は死んだんですー 「分りません。全く分りません」 私はだんだん腹が立ってきた。分らないことがあるものか。この部屋の中を見渡してみろ。 色 マイミ一家がとぐろを巻いていて、麗子の稼ぎだって瞬く間に喰い尽してしまっただろう。働 非きのある麗子が豆ばかり食べさせられて、それで生きていけるとでも思っていたのかフとん なに働いてもホセの身内に吸いとられるだけだと思えば、麗子は収入を誤魔化して不相応に贅 沢な品でも買う気にもなったのだろう。誰だってこんな生活の中に自分の稼ぎをそっくり投げ