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検索対象: 非色
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1. 非色

106 立つのだ。こんなあえかに美しい花の眺めが、この日本以外の国にあろうとは思われなかった。 私は花の中に埋もれて、日本に生れて生きた幸せを味わいたいと思った。日本は美しい国だっ た。日本はいい国だった。ただ私にとっては運悪く住み難い国になってしまっただけなのだ。 「メアリイ、あの大きな鳥居の向うには戦争で死んだ兵隊さんたちが祀ってあるのよ 私の指さす彼方の遠い社殿を眺めても、メアリイは少しの感動も示さなかった。私は、やや しばらくして胸を衝たれるようにっていた。 この子の人生は、戦争の終ったところから始まっているのた、と。 べンチに腰を下して、私たちは持ってきたものを展げ、花見酒の代りにコカコーラの栓を抜 いた。サンドイッチを食べ、林檎を齧り、メアリイと私は意味なく顔を見合わせてはほほ笑み し」つよう あった。春うららの午後、花見がてらの逍遥に来ている人影は少く、彼らは私たち親娘を見つ みは けるとしばらく奇異の眼を瞠って立ちつくしていたが、今日の私たちにはそんなものはそれほ ど気にならなかった。春風に吹かれながら、私たちは実にのびのびと幸福な呼吸をしていた。 夫の待つアメリカへ出かけるといえば人は国際結婚の華やかさを想い、春の空に銀の翼をひ ろげた飛行機の旅行を考えつくだろうが、連合軍が私たちのために用意してくれたのは貨物船 だった。トムが乗ったのと変りのない野暮ったい船にのって私たちは横浜を出航した。

2. 非色

アップタウン ちの住むハアレムは、かなりの上町になるのであった。一二五丁目のハアレムから、「ヤョイ というその日本料理屋まで、八〇丁目も下らねばならなかったが、レキシントン街まで歩いて、 そこで地下鉄にのれば、そのすぐ近所で降りることができるたろうとトムは言った。トムはそ の近くのホテルで皿洗いをしたことがあるので、その辺りの地理には詳しいらしかった。 「ヤョイって、どんなレストラン ? 」 あくび トムは両手をひろけて、中にはいったことがないと言い、それから大欠伸を一つして、べッ ドに入って寝てしまった。 よ、つこ 0 冫 : し、刀子′、力 / 昼と夜をとっちがえた勤めなのたから、彼の睡眠を妨げるわけこま、 「マミイ、買物に行かないのフ メアリイが昨夜の約束を覚えていて催促したので、私は仕方なく彼女の手を曳いて外へ出た。 この家の中に閉じこもっていては、佝僂病になってしまうと思われた。家の中で・ほんやりして いるくらいなら、前の通りをぶらぶら歩いた方がよほど健康的だ。それに昨日来たばかりの私 たちは、とっくりと隣近所を見ておく必要もあった。 色 朝のうちから家の外にはかなりの人出があって私は驚かされた。どうやら私たちのような穴 非ぐら族が、呼吸をするために這出てきたところらしい。右を見ても左を見てもニグロばかりだ った。当然、肌の色も顔だちも違う私は人目を惹いた。だがメアリイを連れているのがいい身 分証明になった。人々は、少しも私に敵意を示さなかったし、意地の悪い視線も投げなかった。 135 くる

3. 非色

かったし、子供は滅多にいなかったし、何より肝心のメアリイが睡魔の腕の中でとろとろ眠り かけているので好都合だった。 半分眠っている子供を無理やり外へ連れ出して、湯につけ、シャポンの泡で洗う親を、ひと は残酷だというかもしれない。しかし、裸のメアリイに注がれる人々の残忍な視線から彼女を 護るためには、これ以外に方法がなかった。 その時間の常連たちは次第に私たち親娘連れを見馴れたが、たまに飛込んでくる人たちは、 メアリイに気がつくとまずぎよっとして、それから首をすくめた。見馴れている者は笑いなが ら、話しかける。 「驚いたでしよう ? 私も最初はどきっとしたものよ 「黒いわねえ」 「どこもかも黒いんだから驚いちゃうのよ 「日に灼けて黒くなってるわけじゃないんだわね」 てのひらあしのうら 「でも掌と蹠は、ほら見てごらん、白いでしよう ? 「まあ、ほんと」 囁きは湯気で籠って、私の耳に届くまでにはかなり鈍いものになっていたが、いっ聞いても 決して快いことではなかった。何事によらず自分のことで人々が耳打ちしあっているのを見る のは嫌ゃなものなのに、ましてそれが自分の産んだ子供のことを言っているのだ。魚油臭い石

4. 非色

165 もりなら承知しないと言った理由がこれだったのだ。五六丁目に「ヤョイ」があるのに、隣の 五五丁目に十ドルの一品料理を出すレストランが開店すれば、これはすぐ「ヤョイーの客足に 影響するに違いない。女将が神経を尖らすのは無理もなかったが、この話は私の好奇心をひど く刺戟してしまっていた。 その夜、帰りに私は廻り道をして五五丁目に行ってみた。六番街に近いホテル・。フルポンの 一階全部がそのレストランのために改装されているところであった。ホテル・・フルポンは古い 七階建てのホテルだが、一階のレストランは表から見るだけでもかなり大きな規模のものであ るように思われた。「ヤョイ」などは比較にならない。 しかし一皿十ドルとは、思いきった値段をつけるものだ。三ドルの天どんでさえ、小田老人 も毎日食べられないのに、私たちの家では三ドルかければ大した贅沢な食事になってしまうの に、十ドルだなんて ! 外貨の枠に抑えられているドル貧乏の日本人たちが、果してそんな料 理を食べにくるものだろうか。 そんな心配をしながらも、私はそれからというものは「ヤョイ」に通う前後に、ちよくちょ く五五丁目へ出ては改装の様子を見守って行った。通りに面したところには大きな硝子がはら ( アと、左には天ぶらの屋台店のようなものが見えるようになった。料理を れ、右にスタンド、、 食べるテーブルは、ずっと奥まった部屋の中にあるようだった。あるときは、障子や畳がバア のスタンドに立てかけてあって、私を驚かせた。想像したよりも、もっと大仕掛けな料理屋ら

5. 非色

216 「どうして ? 竹子さんと一緒に御飯を食べるだけなのよ」 「ええ、私は行きたいんだけど、ホセがハアレムでは迎えに行けないからって」 「あら、一人で帰ればいいしゃないの。なんなら私たちが送っていってもいいわ」 私はホセに何を心配することもないし、ちゃんと時間には帰れるようにするからと、直接話 してみたが、彼は態度を硬化させてしまって、私の英語は分るくせに返事はスペイン語で麗子 に一一 = ロうのである。 「ご免なさい、笑子さん。いずれ話すけど、駄目だわ、どうしても」 「あなたを信用しないのフ 「そうじゃないけど」 「まるで自由がないみたいじゃないの。あなたがこの人を養ってるんでしよう ? それで何 を遠慮することがあるのよ」 私も到頭腹を立ててしまったが、それでどうなるものでもなかった。ホセが何を懸念してい るのか分らなかったけれども、麗子が来ればトムも私も彼女に日本へ逃げて帰れと忠告する筈 だったから、私もホセに向ってシラを切りぬいて説くわけにもいかなかったのである。その意 味ではホセのとった態度は利ロだったと一一一一口えるかもしれない。 いずれ話すと言ったけれども、麗子はその後も自分の方から打明け話を持ってくる様子は見 せなかった。

6. 非色

124 んで来る度に、眼を輝かした。 , 彼女は間違いなくアメリカに来たことを認めたのかもしれない。 だが、私はずっと当惑し続けていた。 ニ = ーヨークの地下鉄は深い。穴ぐらから出てきたような思いで土の上に這上ると、トムは また頤をしやくって歩き出した。一刻も早く重い荷物から解放される為に一分でも早く私たち のア。ハ ートに着かなければならないと思っているらしい。私は小走りでメアリイを急きたてて 通りを渡った。 ハアレムと呼ばれている区域は一二五丁目から一五五丁目までの、東西にまたがる広いとこ ろたったが、そこへ一歩踏みこんだ私は、辺りの光景にしばらく呆気にとられていた。貧民 窟 ! 言ってしまえば、それであった。灰色の建物はビルらしい建築で十階近くまで聳えたっ ていたが、窓という窓から溢れるように様々な色彩がだらしなく垂れ下っていた。それらは洗 濯物を干しているのであったり、家具が覗いているのであったり、ニグロのお婆さんや子供た ちが・ほんやり日向・ほっこをしているのであったりした。何をしているのか、街路にもニグロが ごろごろしていて、通り過ぎる私たちを疲れた眼でじろりじろりと見る。 これがアメリカなのだろうか、本当に : 絵葉書などで見た = ーヨークは、まるでお菓子で作ったような形のいい美しいビルが立並 んで、空も青ければ街行く人々はトップモードで身を包み、華やかで豪華な雰囲気が充満した 都会のように思われたのに、私のアメリカ第一日に見た総てのものには、その片鱗さえなかっ

7. 非色

んでお尻をさつばりさせてやった。親の身贔屓をどう引締めても、私にはメアリイが人並み外 れて利ロな子供であるように思われてならなかった。古本屋で育児の本や母親読本を買って来 て読んでは較べてみたが、メアリイが母乳から幼児食へ移ったのも、お坐りも、這い這いも、 立っちも、最初の言葉が口から出たのも、標準より平均三か月は早かったのである。 私は得意だった。トムが帰ってくると、私はその日の出来事を総て報告した。メアリイが笑 った。メアリイが泣いた。メアリイが立った。何秒間だった。メアリイが動いた。何十センチ 動いた。メアリイが食べた。メアリイがどういううんこをした。私は細々と報告した。そうい うとき私の顔は、半分溶けてしまっていたかもしれない。メアリイの誕生前後のトムの熱狂ぶ りが、いつの間にか私に移ってしまって、トムは呆気にとられて私の顔を見るばかりだった。 だが、そんなトムもメアリイがよちょち歩き始める頃には父親らしさを取戻したらしい カモン・ ウエルウエルべリイ・ウエルウエル・ダン べイビイ 「さあ、おいで。ここまでおいで、メアリイ。そう、そう、そうだよ。でかしたそ」 休日には一日メアリイの相手になって、仔犬のように一緒になってじゃれ廻るようになった。 メアリイに白い皮の靴をはかせたとき、私はどうしてもこの可愛い子供を世間に誇示して歩 きたくなった。白いレースのベビー帽にピンクのドレスとケープ。それに白い靴などという贅 イ。いかにも敗 沢な身装りをした子供など、その頃の日本では見当らなかった。日本人の子共よ、 戦国の子供のように襤褸にくるまってぎゃあぎゃあ泣き喚いていた。そういう子供を産んだ親 たちは、栄養が躰中に行き渡り、美しい高価な舶来品の幼児服を纏ったこの子供を、どんなに

8. 非色

ところがあって、何事によらず打明け話をする相手ではなかったのである。 仮にもレストランをやるからには、料理の心得はあろうと思われるのに、どう見ても「ヤョ てんや イ」で売っている料理は素人の盛りつけで、日本のいわゆる店屋ものにも及ばないのである。 スキヤキなどはもともと素人のする料理なのだからともかくとしても、天ぶらや豚カツや牛肉 のてり焼きなどの作り方は、見てくれの格好もついていなかった。不景気な店だったが、それ でも客が来るのは不思議に思えるくらいである。 しかし、「ヤョイーの料理にそんな感想を持つのは日本から来て間もない日本人だけなので あった。週に一度きまって現われる常連の一人は、年寄りだったが、 「天どんー こう注文するのが何よりも楽しみであるらしかった。 割箸を音高く割って、 「有難いよ、この割箸というのは間違いなく日本のものなんだから」 と、天どんの蓋をとるときから笑み崩れている。 色 「うまいー 非舌鼓を打ちながら平らげて、帰りがけには十セントのチップを置いて出て行くのであった。 「変ってるよ、小田さんは、まったく」 後を見送っている女将さんに訊いてみると、戦前からの一世で、女房を亡くしたあとは気楽

9. 非色

105 靖国神社の桜は冾度まっ盛りであった。花曇りの日が続いていたのに、運よくこの日は晴れ 上った、暖かい春の陽ざしが辺りを明るく照らしていた。 「きれいでしよう、メアリイ」 「うん」 「見ておきなさいね、これが日本の桜よ。英語ではチェリー。フロッサムって一一 = ロうの」 「チェリープロッサム、チェリープロッサム、チェリープロッサム 「あっちの方の色の濃いのが八重桜よ。まだ少し早かったわね , 「うん」 「ほら、こっちで散ってるわ。きれいねえ、花吹雪って一一一口うのよ。言ってごらん、はなふぶ き」 「はなふぶき」 幼いメアリイにはそれほどの感動はなかったようだが、私はといえばこれは全く夢中たった。 花見などという優雅な習慣は、もともと私の家にはなかったし、戦争中から戦後の今日まで にはとてもそんなことを思いつく余裕もなかった。それが俄かに思い立って、私もメアリイも 生れて初めての花見をしているのだ。 桜の花は間近く寄ってみると花びらの肉も色も繊細で痛々しいほどデリケイトだったが、少 し離れてみると花霞とはよくも言ったものだと感心させられる。花が夢のように白く淡く煙り

10. 非色

リ 1 ・フェスティバル 「桜祭りを見に行くのよ。ベスにも是非見せたいの。ポトマック河畔の桜が満開に なったところを笑さんにも見せてあけたいわ。土曜日の朝早くから出かけて、その夜は。 ( ・フの フェスティバル お友たちの家に泊るのよ。お祭りはつまりパレードね、それは日曜の午前中だけ見て、それで 帰って来ましよう。私たちはイースターのお休みがあるから、笑さんはそれから月曜一日お休 みをとってよくってよ。どう ? この計画は楽しいでしよう ? これが桜祭りでなかったら、本当のところは断りたいところだった。レイドン夫妻の労りを、 まる一日受けるのは気が重かったから。だが、有名なポトマック河畔の桜というのは見たかっ た。何十年前に日本から贈られた桜の苗木が大木に育って年々花咲かせているからという他に、 桜の花には私も思い出があったからである。日本を出ると決意したとき、幼いメアリイの手を ひいて、私は九段の靖国神社に桜を見に出かけたのだ。もう一一度と帰れるかどうか分らない日 本を記憶に刻みこむために、私らしくもなくお花見に出かけたのだ。あの日のことが鮮かに思 い出された。白い花びらが、ハ ラハラと舞い舞う下で、メアリイにコカコーラを飲ませたとき のことが、今では胸苦しくなるほど懐かしかった。 土曜日の朝、私はオジョオチャマの衣類を二日分用意し、乳幼児用の携帯食を。ハスケットに 詰めてシポレーの後のシートに腰をおろした。運転は奥さんがして、レイドン氏は並んで助手 台に坐っている。オジョオチャマはもちろん私の膝の上だ。お花見に出かけると聞かされたと き、私はメアリイを同行させてもらえまいかと、喉許まで出かけたのを押殺した。レイドン夫