「すつ。ほかすより会ってさんざん金を使わして、最後のドタン場で引っぱたいてやるとい 「駄目駄目、とてもケチなんだから、いきなり自分のア。ハートへ連れて行こうとするのよ。 すつ。ほかす方がいいわ。それで文句言ったら、私がそうしろと言ったって言いなさいよ」 「麗ちゃん、こんなエ合のが多いんだから、よっ。ほど気をつかわないと馬鹿をみるわよ。 麗子は黙々として食べながら、先輩たちの話を注意深くきいている。私も気がついたが、麗 子はナイトオで働く女の中では目立って器量よしだったので、若い男が何かと話しかけたり、 帰りがけには麗子の手を握りしめてチップを渡したりするのである。あんまりもてすぎるのも 身をあやまるものたと思うから皆が自分たちの経験にてらして注意するのだが、それも麗子が いかにも育ちがよさそうに見えるからに違いなかった。 しかし船の中と違って、麗子は実によく食べた。痩せの大喰いという一一 = ロ葉があるけれども、 まるで飢えた者がいきなり丼飯を与えられたときのように、丼に顔を突っ込むようにして、箸 色 を動かしている。 非私はそっと竹子に訊いた。 「あのひと、いっから来ているの ? 「ええと、そうやな、まだ五日になれへんで」
327 である。彼は相も変らず日中はだらしなく眠り痴けていて、夜になるとごそごそと病院へ出か けてゆく。男の子が生れたというのに、彼は少しも感激しなかった。一度だけ、私は彼がサム を抱いて部屋の中を歩きまわっているところを見たことがあるが、彼の部厚い下唇はたらしな く垂れ下ったままで、子守唄も洩れては来なかった。神さま、もう沢山です ! と叫んたとき の彼は、しかし健在だった。トムは決してサムの出生を喜びもしなかったかわりに、呪いもし なかったのだ。泣けば抱き上げる。彼は私ほど苛々することはないようだった。 働き出せるようになった私は、しかしもう「ナイトオーには戻らなかった。仕事にはすっか り馴れて、収人も大層よかったから残念だったけれども、私には住込みの働きロの方が望まし かったからである。 その話を持って来てくれたのは隣のお婆さんだった。 「プロンクスヴィルの白人の家で日本人のメイドを探しているよ。住込みだが、条件は悪く ないよ」 、っていうのか 「・フロンクスヴィルじや通うわけにいかないわね。でもどうして日本人がいし しら」 「日本人は骨惜しみしないでよく働くからだろうよ」 住込みときいたのが一番魅力的だった。どんな悪い条件でも私は構わず引受けたに違いない。 四人の子供が食べるための最低ギリギリの給料だけでいいと考えた。住込みなら女中用のユニ こ
ートを探し廻っているのだが、 し、馴れないせいかなかなか眠れない。起きては条件のいいア。ハ ニ = ーヨークは住宅難で、ハアレムの中でさえいい部屋が見つからないのだ。それでもやっと 月に二十ドルという格安のところを見つけたので、一秒たりとも忘れたことのない笑子に手紙 を書いている。メアリイは元気か。会いたい。笑子を愛している。笑子もまた僕を愛している のが分る。二人でニューヨークへ来なさい。春には旅費を都合するから。笑子も働けば、きっ と楽しく暮せると思う。ニューヨークはムス日本より寒い ざっとこういう文面だった。 溜息をついて私が読み終ると、母はもどかしそうに私にせついて内容を知りたがった。 「ニューヨークは寒いんですってさ ートのように温かなんだろう 「そりや冬だろうからねえ。それでもビルの中は、青山のア。ハ よ。なんといったってアメリカなんだもの」 「トムは看護夫になったんですってよ」 「看護夫 ? なんだってまた」 「なかなか仕事が無いんだって」 「笑子に来るようにと言って来なかったのかいフ 「春までに旅費を送りますって。メアリイと二人で来なさいってー 「そりやよかったじゃないか」
「冗談じゃないわよ。私も働けば暮せるっていうのよ。誰がアメリカまで出かけて行って働 くものか、莫迦莫迦しい」 「それでも笑子。トムさんが日本にいたときだって、笑子が闇をやっていたから贅沢に暮せ たんじゃないのかい ? 」 それはその通りに違いなかった。トムが軍隊から貰ってくる月給は、日本人の生活水準を遥 かに上廻るものではあったが、 p-4>< の品の闇流しをやっているのでなかったら、あれだけ潤沢 な生活ができたかどうかは確かに疑わしかった。そうなのだ。闇をやっていたのは私と母とで あった。つまり私も働いていたのだ。そしてトムと別れてからは、私は今メイドまでして働い ている しかし、だからといって私は、母の一一 = ロう理屈通りニューヨークまで出かけて働く 気にはなれなかった。第一、トムの方でどう思っていようと私は離婚したつもりではないか。 「ねえ笑子、こうやってトムさんから手紙が来て、むこうでは笑子たちを迎えるつもりがあ るのなら、離婚なんそと物騒なことを言わない方がいいのじゃないのかねえ。子供はやつばり 双親が揃っていた方がいいのだから」 「父親が無くったって、戸籍がちゃんとしてなくったって、娘は立派に育つものですよ、私 たちのようにね 「それでも笑子、メリーちゃんのことだって考えてやらなくちゃ。どこへも連れて歩けなく て、友だちも出来ないんじゃ、この子だって不幸ですよ」
ビッグ・ワ 1 ド 平等などという大きな一言葉を私が覚えていたのは例のテキストの第一頁に〈連合軍は日本の 国民に平和と平等を与えるために進駐してきたのです。あなたがたの自由も財産も守られてい ます〉というのがあったからである。これはアメリカ兵たちのスローガンに違いなかった。 トムの返事を聞いた人々は喜んで、殊に彼が日本を好きで、それはアメリカに帰りたくない ほど好きで、永住したいくらいに思っているというところでは大受けに受けた。 「こんなに焼野原になっている東京を見ても好きなんですかねえ」 「我々は直ぐに美しい建物を建てて東京を復興します」 「食物が碌になくっても日本はいいですか」 「食物はみんなアメリカからこうやって運んでくれば、ですよ」 「一一一一口葉の分るものが少いので済みませんねえ。日本語は覚えにくいでしよう ? 」 「心です。心があれば、誰とでも話をすることができる。平等さえあれば、言葉がなくても 話は通じます」 莫迦莫迦しい質問に対して、彼は常に明快な返事を与えた。英語というものが、日本語より 色単純にできているせいか、あるいはトムが私の語学力の程度をわきまえていて分り易く喋った のか、多分その両方の為であったろう。彼の話は、内容はともかく景気がいいのでみんなは大 いに満足していた。ただ私たけにはトムが繰返して言う〈平等〉という言葉が耳だって心に止 まった。
鹸を使っている日本人の中で、キャミーの泡と匂をたてながら垢を落しても、私は一向さつば しばしば りせずに湯から上ることが屡々たった。 クリスマスが近いある日、トムからようやく便りがあった。ずっと前に青山のア。ハートに届 いていたらしいのだが、管理人が怠けていて、母が出かけて私宛ての手紙がないかと訊いたと ころが、そう一一一口えばと思い出して渡してくれたものだ。 三枚の不揃いな紙が便箋がわりで、ポールペンのインクがトムの掌に圧されて文字がかすれ、 大層読みづらかった。それでなくてもトムの手紙は綴りが滅茶滅茶なのだから、判読しなけれ ば意味がとれないのだ。 「なんて書いてあるんだいー 母が覗きこんだが、 「待ってよ」 私は眉をしかめた。 内容もはかばかしいものではなかった。ニューヨークに帰るとすぐ働き口を探したが、いい 職がなかなかなくて、それに住むところもなく、友だちの家を転々としていたので手紙の書き ようがなかった。ようやくマンハッタンの中の市立病院の看護夫のロを見つけたので、臨時の つもりで就職した。これは夜から朝までの勤務なので、少し調子が違い、日中に眠るのが辛い
いのさ。分れば気を悪くするに違いない話を、どうしてするの ? ご馳走になった上に黒い黒 いといって、それでいいと思ってんの ? 」 「黒いのを黒いと言ったのがどうだってんだい ? 」 家の主人が居直った形で私に切返してきた。私は自分の眼が吊上って行くのを感じた。 「気を悪くするようなことは言わないものでしよ。あんたが何をやって暮しているのか私が 知らないと思ってるの ? 」 相手はせせら嗤った。 「なるほどねえ、その通りだ。俺たちもあんたが黒ンポ相手のパン。ハンだとは言わないから 「なんですって。もう一度言ってごらん 「一一一一口わないよ。言うなと言ったじゃないか。林さん、どうもお邪魔しましたねえ。じゃあト ムさん又どうそ来て下さいよ。さよなら。さ、下へ降りるんだよ」 私はあまりのことにロもきけないほど興奮していた。黒ンポ相手の。ハンパン : 繰返さ れなくても私の耳朶に突き刺さった言葉は容易なことでは消えそうになかった。 客たちが退散してしまったあと、トムはおろおろして何が原因で私が怒り出したのか知ろう とした。私を抱きかかえるようにしながら、どうしたのか、彼は何を言ったのか、きっと彼は 私の立場を誤解したのだろうと思うが、それで笑子は機嫌を悪くしているのか。それならば僕 な」
338 だのだから殺されたに違いないって、みんな言ってる」 「どんな一代記たい ? 「最高齢ニグロの一代記という題だった。僕は読んでないが、五十年前の白人がニグロを 私刑したときの様子が詳しく激しく書いてあったので、過激派の学生たちに祭り上げられてし まったらしいよ」 「どうしてそんなことになってしまったんだろう。伯父さんは温厚な人だったのに 「おふくろもそう言って泣くんだよ。若い奴らに利用されたんだって。伯父さんは満足して 静かに暮していたのにつて。よく読めば人種差別も昔よりすっとよくなったということを書い てあるんたそうだけど、騒ぎにまきこまれたので白人たちも怒り出してしまったんだ」 「畜生 ! 訴えてやればいい」 「駄目だ。病院では病気で死んだと言ってるんだ。学生たちも騒いだんだけど、それきりに なってしまった」 私は思わず息をひそめて聞きいっていた。この話の間は、シモンもあの上ずった陽気な調子 こめかみ そしやく では話さなかった。テーブルを挟んで、黙って食物を咀嚼している二人の横顔は、顳額がひく ひくと動く度に沈痛な表情を浮彫にした。 「ニューヨークには、そういうことだけは決してないよ。だから俺はアラ、、ハマには帰らない のさ」
110 りアメリカへ行くことは、メアリイのためにいし 、ことだったのだと肯くことができて、何より 有難かった。 志満子の子供のジャミイが空いている二階のべッドを占領したので、竹子も私もそれそれの 子供を、狭いべ ッドの中で抱いて寝ることになった。その夜、私はメアリイの耳に口をあてて、 「よかったね、友だちができて」 と一一一一口うと、メアリイも同しように私の耳に口を寄せてから、 「マミイ、あの子、黒いね」 と言って私を驚かせた。まだ幼いメアリイは、自分の姿に充分気がついていないのか、それ とも早くも肌の色を見較べてそういうことを言ったのか、私には分らなかった。 船の中の生活は時間通りに食事の知らせがあるだけで、見渡せば青い水ばかりでそれを見倦 きれば、あとは単調なものであったのだが、竹子・カリナンのおかげで私たちは少しも退屈す ることがなかった。 竹子が気のいい女だということは間もなく分ったが、万事が闘争的で、およそ我慢などとい うことは生涯するまいと心に決めているらしかった。彼女はまず留学生たちのエリ ト意識が むやみと腹立たしく思えたらしく、彼女たちが私たちを避ければ避けるほど猛り立って喧嘩を 売りつけるのだ。 「なんや、その、私たちは特別でございますちゅう構えは。留学生がそんなに偉いのか ?
292 「志満子がげえげえやってますよ。あなたは悪阻が軽くっていいわねェ」 「志満子さんがー 私は驚いて反芻した。そういえばこの一週間ほど姿が見えなかったが : そうたったのか、 あの志満子が、やはり妊娠したのか : 横浜を出てからの長い船旅を、暗く、臭く、暑い部屋で共に過した仲間が、戦争花嫁ばかり りつぜん が揃って四人、同じ年に子供を妊ったというのは、どこか因縁話めいていて、私を慄然とさせ た。竹子も、麗子も、志満子も、そして私も 。竹子はアメリカへ来て二度目の妊娠だし、 私は三度目で、志満子はジャミイの次の子を殆ど十年ぶりで産むことになる。そして麗子は初 産を控えて苦しんでいるのだ。成り年とは、しかしなんとうまいことを言ったものだろう。樹 すもも 樹が一斉に実をつける図を私は想い描いてみた。李やオレンジや林檎の成っているところを私 は実際に見たことがないのたけれども、すぐ目の前に色鮮かな果樹園が見えるようだった。そ の桃には一つ一つ色がついていてーー竹子はどんな子を産むだろうか。ケニイの兄弟なら、や はり黒いだろうか。しかし私の。ハア、、ハラの例もあることだし : これは生れてみなければ分 らない。志満子はどんな子を産むだろう。ジャミイのように鼻の高い白人そっくりの子供だろ うか。それとも今度は志満子に似て、一重瞼で大きな口をした女の子が生れるかもしれない。 麗子はどんな子を産むだろう。父親に似ても、母親に似ても、器量よしが生れることだけは間 おもかげ 違いない。が、しかし、麗子は果して産むだろうか。私には、あの少女の俤を残し持っている