158 「姉ちゃん、お嫁にいくって、本当かー と外から汗たらけになって戻ってきた小学生の弟にある午後聞かれ、春江はしんみり答え 「本当よ。姉ちゃんがお嫁に行っても、あんた、泣いたりせすに、父さん、母さん、大事に してね」 伯母がもって来てくれた縁談の相手は、松浦の漁業組合に勤めている人たった。その人が 佐世保に用事で出て来る日、春江は母親と伯母につれられて見合いの場所に行った。 場所は風林火山というレストランの小さな部屋だった。その部屋でアイスコーヒーを飲み ながら待っていると、土産物をたくさん入れた紙袋を両手にぶらさげ、実直そうな男があら われた。きちんと背広を着て、地味なネクタイを締めて、汗をかいた顔は将棋盤のように四 角かった。 文字通り真面目という三文字をベタッとはりつけたような人で、 「派手なことば好かっさん人せん、あんたもそのつもりでおおりよ と前から伯母に言われて来たのだが、その四角い顔をみると、春江は何だかすべてが味気 なくなってきた。 「この子はここの信用金庫に勤めとりました」 と伯母は話題を提供しようと懸命だったが、相手はしゃべることが不得手らしく何を言わ
げつぶをする音がした。 「すみませんが、泥棒にここへ閉し込められました。身ぐるみはがされました。何か着るも のを持ってきてくれませんか」 「あんた、酔っぱらってるのか。悪い冗談はよせ 金山は情けなかった。 客の知らせでポーイがとんで来た。そして事情をきくと、大急ぎで身につけるものを放り 込んでくれた。それから何人かに囲まれるようにしてホテルの部屋へつれて行かれた。すぐ に支配人が来て謝った。金山はあくまでも相手が物盗りのように言い、犯人の顔も見ること が出来なかったと嘘をついた。 「ホテルの名誉にもかかわりますし、新聞記者たちに嗅ぎつかれるとうるそうございますの で、何分にもご内聞に : と支配人は頭をさげた。金山は不愉快な顔をして、 「お宅の藤井社長とは親しくしていただいているから警察に訴える気持はない」 と恩を売った。 彼の着ていた洋服は、一時間後にみつかった。別のトイレの扉の陰に紙袋に入れ、かくし てあったのである。それに着かえて自宅に戻って来た時は零時前だった。 しつこく話しかけてくる細君を追い払うようにしてスルームに入ると、金山はさっきか
金山の机の上に置いた。 「おや、もう ? 」 金山はそのアンプルを見ると叫んだ。 「例の新ホルモンかい」 「そうですー 「もう手に入れたのか。君、よくやれたなア」 、え、実験室の加藤さんがくれたのです。彼女は傷ついたでしようが、決して・ほくを責 めませんでした」 と杉田は恨むような眼で金山をみつめた。金山は苦笑して、 「何を言ってるか。この間も教えたろう。企業の競争は戦争のようなものだ。多少の犠牲が 出るのもやむを得ない : : 君は・ほくを恨んでいるのかい」 「恨んではいませんけど : : : 」 「じゃ、つまらぬ感傷はすてて、このアンプルについて報告したまえ」 杉田はアンプルの一つをとりあげて、 験「これが猿の清が性変化をしたアンプルです。もう一つの方は、加藤さんの話によると、鬼 頭教授が新しくつくった牝が牡に変化する別のホルモンだそうですー 実 「えつ、牝が牡に変化する、そんなことも出来るのか」 「ただし、アンプル一本の注射ではどうにもなりませんよ。そう加藤さんも言ってました。
と春江はロに入れたケーキをのみこんで、 「しゃあ、男の人が女のように頬紅をつけたり、口紅をつけたりするのも東京しやおかしく ないですね」 ちくわ 「おかしくないわよ。おかしいと思う方が時代遅れだわ。わたしの親友の竹輪明広さんをみ なさいよ。堂々と化粧してテレビに出ているしゃないの。おカマとかホモの感覚じゃないの よ。あの人は時には男に戻ったり、時には女になったり、性を多面的に使いわけているわ。 あれが新しい時代の感覚よ」 「平戸じゃ、そぎゃんことは考えられまっせんー 「平戸は平戸、東京は東京よ。春江ちゃんも東京へ来た以上、東京の新しい感覚を学ばなく ちゃ 「でも先生、うちが男の恰好ばするって 「どうしていけないのよ。春江ちゃんこそ美しい青年の変装ができると、わたし睨んでいる んだがなあ」 ここに来て二週目の日曜日、春江は暇をもらって、自由な一日をすごすことになった。 午前中は従姉のスズ子の家へ遊びに行った。スズ子の夫は会社の仲間と野球の練習がある と言って出かけ、スズ子は赤ん坊のおむつをかえていた。 「春江ちゃん、東京になれた ? 兵頭先生は親切にしてくれる ? 」 にら
139 試作品 セックスのモデルだ。つまり、男にあらず女にもあらす、男でもあり女でもあるミックスセ ックスの微妙な肉体をもったモデルが欲しいのだよ。その時、我社は一挙に他の社が真似の 出来ない新流行のモードを売り出し、日本だけでなく。ハリまで征服しようと思っている」 リへ行けるのですか」 「すると、 「当り前だろ、君。君は世界的な有名人になれるんだよ。ビエール・カルダンだって君をモ デルとして使いたがるたろう。しかし、君はあくまで我社の専属モデルであることを忘れな いでくれたまえ。もちろん、契約金ははずむつもりだ。高野さんのほうは、特別コンサルタ ントとして我社に参加していただければ有難いですー それを聞いて高野の顔にも満足そうな表情が浮んだ。 傍らでこの会話を聞きながら、杉田は心のなかで加藤文子のことを思った。この薬はもと もと文子がおればこそ手に入ったのである。しかし、その彼女はまったく無視され、薬だけ が大きな企業の渦のなかに放り込まれ、世界のモードをつくっていくようになった。杉田は また、猿の清のことを考えた。清は牝猿にされて不幸になっているのに、この岡本茂という 青年は女になったゆえに莫大な契約金を手に入れるだろう。杉田の月給の五百倍もあるよう な契約金を・ : そう思うと彼は、ラッシアワーの電車にゆられてアクセク働いている自分が馬鹿馬鹿し くなってきた。 ( いっそ、俺もこの注射をうってもらい、女になってみようか、その方が : : : )
茂は高校時代、友たちから針金一本で車のドアをあける方法を習ったことがある。 「・ほく、みてみましようか。でも、針金がありますか」 その紳士は、駅のそばの雑貨屋に行って針金を買ってきた。茂がそれほど困らすに車のド アをあけてやると、 「助かったよ。礼というわけじゃないが、何かおごらせてくれないか しゃれ 遠慮する茂をつれて、原宿の洒落た店に案内した。それが高野と知り合ったはじまりだっ た。あとになって知ったのたが、このアメリカ帰りの美容師は、茂にあらかじめ眼をつけて、 わざと鍵を車におき忘れたと嘘を言ったそうである。それはアメリカで、男が男の子を誘う 時によく使う手だった。 土深くねむっていた種が、春の光にめざめるように、高野との交際で、茂のほんとうの欲 望が眼をさました。それはむんむんとする若葉のように青くさかった。烈しく、あっく渦を まいて噴きあげた。 / 。 彼よ、まるで女のように高野の胸のなかに顔をうずめた。 「君はいろんなことを学ばなくちゃいけないよ」 情事の戯れが終ると、高野は茂に教えた。 「ます、その平戸訛を入れすに標準語をしゃべること。二番目に服装のセンスや色の調和を、 三番目に話し方や食事の仕方」 茂は自分に女装の趣味があることをそっとうちあけた。すると、高野はデ。ハ ートの高級品 売場やパレ・フランセの二階のフランスやイタリーの婦人服を買って与えた。そして彼が茂
220 プルを入れた箱があるか調べてくれないかー 「承知しました」 杉田は受話器を手にもったままイライラして、渡辺が連絡してくるのを待っていた。だが 七、八分後、彼のおそれていた答えがもどってきた。 「そんなもん、見あたりません」
実際、眼下に羽田のきたない海と煤煙でよごれた空が見えた時、春江は、海も清らかで、 緑に恵まれた平戸のことを思い出し、何とも = = ロえぬ不安を感じたのである。 「春江ちゃん、よう来てくれたね」 と従姉は、とびついてくる春江の手を握った。 「大助かりだわ。あんたが来てくれたら」 なか 「そぎゃんお腹で、外へ出てもよかとー と春江は生命の宿った従姉の大きなお腹をこわごわ眺めた。 「大丈夫だよ。時々動くの」 スズ子は、もはや母親になったようにいとおし気な眼をした。 「兄さんは ? 」 「彼、外で、車のなかで待ってるわ。ここは無断駐車がうるさかー 地方弁と東京言葉と交えて従姉は話する。春江は自分も早く標準語を使いこなせねばなら なまり ぬと思う。まわりで聞える言葉もすべて、歯切れのいい東京弁一色で、あの九州訛は一つも 人「春江ちゃん、久しぶりだねー いと車にスーツケースを入れてくれながら、スズ子の夫は言った。 新 「東京は何度目だい」 「二度目です」 ばいえん
「おいしか : : : 空気の : : : 」 黄昏の空気には樹々の匂いがましっている。土の匂いもこもっている。東京の空気では絶 対感じられない味だ。 そしてビャガーデンからあまい音楽がながれてきた : すべてのお膳立がまるで映画のようにロマンチックだ。そしてそのロマンチックな時間が あと四時間もすれば、二人はこの部屋のこのべッドに入るのだと春江は思った。 夕食はそのビャガーデンですることにした。おでんや焼鳥まで出してくれるとポーイが教 えてくれたからである。 日がまったく暮れると、キラキラと街の灯がこまかく光りはじめる。平戸の海の沖で漁船 の灯が一列に光ったように : 二人は酔った。楽しかった。 このビャガーデンには涼しい風がかろやかに吹いてきたし、まわりの人たちもそれそれ陽 気に、嬉しそうに、笑ったり、飲んだり、話したりしていた。 そして耳には心にとろけるような甘い音楽。二人の女性歌手がステージで入れかわり、た 向 舫ちかわり歌っている。 ビールの飲みすぎか、茂が途中で、 「ごめんよ」 と立ちあがった。
242 「そんな馬鹿な」 「じゃあ、もう一度、抱いてください」 高野は仕方なく茂の体をひきよせた。そして彼の頬に自分の頬をあてたまま、我慢しなが らしっと動かなかった。 突然、肩のあたりにチクッと針でさされたような痛みを感した。思わす体を離そうとした が、茂は強いカで高野の体をおさえている。 「何をするんだ」 と高野はびつくりして叫んだ。茂の顔にうす笑いがうかんで、 「痛いですか、注射器の針ですよ」 「針 ? 」 「ええ、あの薬を入れた注射器の針です。あなたもぼくと同じように、今から女になってい くのです」 「やめてくれ、助けてくれー 高野は恥も外聞も忘れて茂の体をつきとばした。茂は高い声をだして笑った。 「あなたも、結局はそんな人たったんですね。これからはミックスセックスの時代たと言い ながら、自分のほうは男性を失うことがいやなんだ。あなたはそういう人だったんだ。安し なさい、今のは注射針じゃない、画鋲です。そこに落ちていた画鋲です」 茂は指の間にはさんだ丸い小さな物を高野に見せて、また高い声で笑った。