「鼠小僧次郎吉 ? 」 なんのことだろう、一体 : 「こん薬あ人間の性を変える奇蹟的な薬ばい。今までアインシタインも湯川秀樹博士も考 そん薬が存在し、そればこん・ほくが持っとるとば知っとると えたことのなか世紀の薬ばい。 は、春江ちゃんのほか三、四人しかおらんじやろ」 「ほくはこん薬ば使うて、世のなかばアッといわせることもでくるたいね」 彼女は自分がみた夢のことを思いだしていた。山口百恵がステージで男になり、力士が女 ひょっとして、茂はそのようなことを行い、世間をアッと 性に変ったあの奇怪な夢を : ・ いわせるのたろうか。 「どぎゃんことば : : : 、茂さん、するつもりねー 「どぎゃんこと ? なして春江ちゃんはそう言うとね」 春江は仕方なく、自分のみた夢のことを告白した。顔を赤らめて、然るべきところは言葉 情を濁しながら : ・ 茂は笑いだした。それはあの日以来、彼がはじめてみせた笑いだった。 「そりゃあよか」 茂の笑いはとまらなかった。 253
とスズ子がつぶやいた。いらぬお世話であゑいかにファンとはいえ、他人の夫婦生活に まで関心をもっ権利はない。 その第一の夢のあと、 ( 夢でよかったと春江は思った ) すぐに二番目の夢をみた。テレビ すもう で角力の中継が出てきた。行司が向きあった高見山と千代の富士との間に軍配を入れてさっ とひいた。待ったなしである。 瞬間、まるで魔法にかけられたように両力士の胸がふくらんで、豊かな乳房と変った。 観客はあっけにとられていた。取り組みももう何もない。なぜなら、女に変った両力士は 胸をおさえて逃けるように走り去ったからである。 この時も行司は茂に変っていた。 そんな夢をつづけてみたあと、 ( あと一週間、茂さんに会えなければ平戸へ帰ろう ) と春江は決心した。 彼女はもう一度だけアパートをたずねようと思った。い くらなんでも、茂が荷物を置きっ 放しのまま、あのアパートにこのまま戻らないとは思えなかった。 彼女がアパートをたすねたのは、いつものようにタ暮の時間で、夏のきびしい陽ざしが、 道やビルに余熱を残していた。彼女がアパートの管理人室の女に声をかけると、例によって 週刊誌を読んでいた女が、 「ちょうどよかった。珍しく岡本さんの妹さんがいるわよ。長い間、平戸に戻ってたんだっ
252 そうとしか感しなかったのた。 。こが、今 全身でぶつかってくる春江の愛情が茂の胸にじんときた。この子は自分の性を変えてもい いとさえ一言ってくれるのだ。男になってもよい、そして茂と結婚しよう、と言ってくれてい るのだ。 ゆがんだ茂の気持に、はじめて春の水のように暖かいものがあふれ出た。 「なア」 と茂は春江をいたわるように言った。 「君のそん気持は嬉しかよ。ばってん、・ほくはこのままですます心にはとてもなりきらん。 わかるしやろ」 「それはわかるばって : 「・ほくはこの薬ばたしかに盗んだばい。それは・ほくばこぎゃん体にして、使いもんにならん と、あとは知らん顔ばしとる連中に仕返しばするつもりじゃった。ばって、今は少し考えの 変ってきたとさ」 春江はだまって茂の話をぎいていた。茂の胸は春江のそれよりはもっと豊かで、大柄な女 性を連想させた。これが二年前までは高校生の制服を着て、通学をしていた男の子だったの 「春江ちゃん。・ほくは鼠小僧次郎吉になるつもりたい」
「茂さん、あなたは女が男になる薬ば持っとるとでしようが : : : 」 突然、自分でもわからぬ衝動にかられて春江はロばしった。 「持っとったら、それがどぎゃんしたっていうとね」 「わたしの体にその薬ばうってください」 茂はびつくりしたように春江の顔をみて、 「なして : 「わたしが男になったら、茂さんと結婚の出来るとでしよう。脚にすね毛のはえとるぐらい、 何も思いまっせん。女の茂さんば、今と同じ気持で愛しゆると思います。注射ばうって」 そう言いながら春江の眼から滂沱と涙が流れた。 茂はその春江をじっとみつめていたが、やがて小さな声で呟いた。 「そぎゃんこと、いくら何でもでけんよ 茂は今日まで、春江がそこまで自分のことを思っているとは夢にも考えてはいなかった。 東京の軽薄な流行を、金魚が水面で空気を吸うように吸いこんだ茂には、春江は相変らす ほ」り・ 埃くさいセーラー服をきて、フ = リーポートで通学する女子高校生の頃とおなじ娘にしか見 情えなかった。 だから、このアパートにしつこく来られるのも、何かとこちらを案ずるロぶりをされるの 純 も、 ( うるさか : : : ) ば、つだ
「ねえ、赤ちゃんものの売場にいってみましようか」 「そうだな」 また数カ月先のことなのに、夫婦の足は赤ちゃんの産着や可愛い靴下をならべているコー ナーに向った。 そしてそこで食いいるような眼で品物をみつめた揚句、 「少し休もうよ」 と九階のティールームで休憩をとることにした。 「ねえ、この頃はあなた、会社から晴々した顔をしてお戻りになるわねえ」 とアイスティーを飲みながら純子は言った。 「前は時々、憂鬱そうだったけれど 「そうかな。別に何も変ったつもりはないけれど : : : 」 一。田社長の金山がこの頃 杉田はお茶を濁したが、心のなかで女はやはり眼が鋭いと思った。リ すっかり変化したのだ。というより、女性的に変ったと言ってよい。その秘密を知っている のは彼だけだったから、昔のようにビクビクしなくなったような気がする。その表情が帰宅 向 訪時の彼の顔に正直にあらわれるのかもしれない。 「流行も随分変ってきたわね。わたしの娘時代と」 と何もしらぬ妻は言った。 「ほう、どう変ったと思う
なかや、この体」 「もし犬と猫とが交配して、半分犬で、半分猫の動物の生れ、そればニャンワンと名づけた ならば、世間の人は面白がるしやろうばって、そぎゃんなったニャンワンは、どぎゃん悲し ゅうして辛かじやろうか。犬でもなければ猫でもなか自分の身ば、どぎゃん悲しかって思う じやろうか」 茂は狂ったようにひとりごとを言いつづけた。その傍らで春江は何と慰めていいかわから す、ただ、両手を膝においたままうなだれていた。 窓の外で子供たちが四、五人、歌をうたいながら遊んでいる。夕暮に子供たちの声を聞く のは悲しかった。 「ね、茂さん、平戸に帰ろう。一緒に帰ろう」 「なして帰るるや ? みんなの笑いもんになるだけじゃなかや。あぎゃん狭か町じゃ噂は一 日でひろまる。町の人はみんな、・ほくが怪物になったことば知るじやろ」 「そんならどこか遠い町に行こ。東北でも北海道でも。そうすりゃあだれもわからんたいね。 おなご だれも茂さんば前から女子って思うたいね」 「ばって、この脚のすね毛ばどうしてくるる ? 」 茂は憤然として首をふった。 「他人は騙せても、自分は騙せんよ。この脚に毛のはえとる限り、自分は化けものだってい だま
「茂さんな慶応ば、落っこちらしたごたるよ 「まさか ばち 「あぎゃん風に女子の心ば踏みつけにしたせんね、罰のあたったとよ」 どんなに彼は今頃、気を落し、落胆しているだろうと、春江は茂が可哀想でならなかつな 人の好い彼女は時間がたつにつれて、自分が贈ったチョコレートをフェリーポートで友だ ちに分け与え、ザビエル教会に来なかったことをもう忘れていた。 あふ 卒業式が終った。平戸の町は花が散り急に若葉が泉のように溢れ、海の色さえゆたかに暖 かくなった。 ーポートで 毎朝、春江は信用金庫の仕事をお・ほえるため、高校時代と同じように、フェリ 島から本州に通った。しかしそのフェリ ーポートには相変らすたくさんの男子高校生の姿は あっても、もう茂の姿はない。受験失敗後、彼は東京の予備校にそのまま通っているそうで ある。 土曜になると、長崎からみえ子とタ工とが平戸に戻ってくる。生活は違っても、昔の友情 のほと・ほりがまだ残っていて、三人はだれかの家に集まっては、相変らす他愛のない話をや 生 りつづけた。 人 以短大に入った二人は、新しい友だちや学校の話をし、春江は自分の上役や同僚のことをお 新しゃべりしたが、話題の中心はやつばり男のことで、 「ほんとに女心は、風のなかの羽のごたるよ
「まあ」 と春江は思わす叫んだ。眼前に髪をクシャクシャにして蒼ざめた茂が男物のパジャマ姿で 立っていた。 茂はそのまま部屋の真ん中に戻ると、仰向けに倒れて天井をじっと見あげた。 「気を落したらためです」 「ばってん、こぎゃん体にされて、平気でおりきる筈なかよ 茂の口から珍しく平戸弁が出た。春江は彼がもう東京弁を使う心の余裕さえないのだと思 って悲しかった。 「ばってん、見たところどこもおかしゅうはなかですよ、茂さん 「そりや 、パジャマば着とるからたい。 これば見てみんや」 茂はパジャマの上着をもぎとるようこぬ、ど。 冫しオ二つの乳房がりんごのように盛りあがった 女の体が春江の眼にとまった。 茂はパジャマのズボンをたくしあけた。毛むくじゃらの男の脚があらわれた。 なん 「こりで何もかんも絶望ってことのわかったしやろが : : : 」 会茂のその言葉に春江は何も言い返すことが出来なかった。もし自分が茂と同し目にあった なら、自殺したい気持にかられてもふしぎじゃないと思った。 ひょ、つ 「昔、どっかの動物園で豹とライオンと交配させてレオポンていう動物ばっくったちゅうば ってーーそりは半分、豹の顔ばしていて、胴や尾つぼはライオンでーー、それとそっくりじゃ
288 と彼はひとりごちた。 家に戻ると玄関はあいていたが、妻は出てこなかった。 茶の間ではテレビをみている妻の背中が硬直しているのがよくわかった。「お帰りなさい」 とも「どこへ行ってたの」とも言わない。 台所へ行って水を飲んだ。そして水を入れたコップを手に持って、妻の機嫌をとるように、 「それは何の番組だ」 とたすねてみた。だが妻は返事もしない。 「あいつはもう寝たのか」 「さあー 妻はテレビを。 ( チリと消すと、茶の間から出て行った。何ともいえぬ不快なものが胸にひ ろがった。しかし、それは今日だけのことではなく毎日のことだった。 ( あの約束など、やつばり当てにならないじゃないか。ひょっとすると、酔った俺の神経が つくった幻覚だったかもしれない ) 茶の間のたたすまいも、そこにいる彼にも今までとどこも変りはない。横暴な妻の態度も 同じである。これからも彼は横暴な妻に圧迫され、軽蔑され、生きていくだろう。 立ちあがって、洗面所に歯をみがきに行った。そこでは妻が先に口をそそいでいる最中だ
「失礼ですが、金山さまでいらっしゃいますか。光栄です」 と挨拶すると、 「気に入ったよ と意外に謙虚なポーズをとった。それから水割りを飲みながら、連れてきた二人の男に、 「君たち、よくここを見ておき給え。・ほくの考えでは、これからの若い世代には、男性とか 女性の区別が、なくなるそ。服装や態度で、どんどん消えていくと思うのだ。すでにその傾 向ははじまっているが、もっと極端化されると思うね。だからファッションなどにも、思い きって新しいものをとり入れるコーナーをうちの店につくってみたいのだ」 「しかし、それはまだごく一部の趣味だけでしよう : ・ と男の一人が反対すると金山は首をふって、 「だめだな。この間、三宅一生さんや山本寛斎君と話したけれど、あの先生たちはこの・ほく の計画に両手をあげて賛成してくれたよ。うちのデザイナー部はどうも保守的でいけない。 それじゃ、まるで他のデ。ハ ートと感覚が同しじゃないかー 彼等はしばらくそんな商売上の話に熱中していたが、やがて茂に気づいて、 「いや、失敬。野暮な話をしたな」 そう言って茂の手を握った。 茂には経験上、ほんとうにホモの客と、そうでない客との区別が、 . 手を握った時の感触で わかる。