224 杉田は頭を下げたが、心中、気のすすまぬ仕事たと思った。」 用事の真似をするのは彼の最 力しかし、サラリー も趣味にあわぬことだった。 ; 、 マンの常として、上司の命令には従わね ばならぬ。 杉田は副社長の部屋を出ると、そのまま会社を出た。言われた通り、まず高野から調べて みようと思ったのである。 通りの公衆電話で、高野の名刺を出し、そこに電話をした。 「ちょっと重大な話がありますので : : : おめにかからせていただけませんか 杉田の言葉に、高野は少しうれしそうな声で、 「結構ですよ。どこでおめにかかりましようか。私が会社へ行きましようか 「いえ、会社よりも帝国ホテルのロビーで十一時にお待ちしていますが : : : 」 「承知しました」 電話をきったあと、杉田は今の高野のうれしそうな声を思い出した。あのうれしそうな声 は、働き場所がきまったのか、と期待するような声だった。もし高野が薬を盗んだのなら、 もう少しとりつくろった声をするはずた。直感的に杉田は、高野は犯人でないと思った。 十一時に帝国ホテルに行くと、高野はすでにロビーで待っていた。その洒落た恰好を見た 時、杉田はますます高野を疑うことは出来なくなった。犯人ならば、心に迷いがあって約束 時間より前に来ることなど絶対にないからである。
杉田はわからなかった。あれほどそのホルモンを人間に使うべきではないと言いつづけて いた加藤文子が、自分がだまされていたと知ると、その信念を一瞬にして棄ててしまった。 わな 嘘をつかれているのか、罠にかけられているような気さえ杉田にはした。 しかし、それは罠でも嘘でもなかった。約束通り、その翌日、同じ時間に先にこの喫茶店 に来て煙草をくゆらせていた彼は、加藤文子がドアをあけて店に入りこちらへ近づいてくる 姿を見た。 「はい これが杉田さんの欲しがっていたものです。二つのアンプルしか持ってきませんで したが、その二つのうち一つは清に使ったものです。あとの一つは牝が牡に変るかも知れな い新ホルモンです。もちろん、一本ぐらい打ったって効き目はありません。でもわたしに出 来るのはこれだけです。さようなら」 そう言って、加藤文子は眼に一杯涙をため、くるりとうしろをむくと暮色につつまれた外 に消えていった。 杉田は翌日の朝、出社すると、副社長の部屋に行った。 この日、金山は社員よりも半時間早く来て仕事にかかったから、杉田が現われた時はもう 机に向って書類をめくっていた。 「お早うございます」 うやうや びつくりして杉田は頭を恭しく下げた。そして、ポケットから例のアンプルをとり出し、
320 彼女はまた おそらく病人は三階に運ばれたのだろうと思った。杉田はまだ戻ってこない。 , 溜息をついて長椅子に腰をかけた。 入口に物見だかいファンが四、五人、姿をみせた。しきりになかを覗きこんでいる。その ファンの一人が春江にたずねた。 「見たかい。エリダベス・テーラー」 春江は首をふった。その間、待合室の隅にあるトイレから頬かむりをしてモップを持った 掃除のおばさんがあらわれ、足をひきずるようにして〒レベーターのなかに消えたほかは誰 もなかに入ってこなかった。 杉田が戻ってきた。裏門がやつばりあるから、自分はそちらを見張っていると告げにきた のである。 この病院に来てもう四十分ちかく過ぎ、入口近くにたっていたファンたちも、 「つまんネ工。出てこねえのか」 「裏から逃げたんじゃないか。エリダベス・テーラーは」 などと言いながら一人去り、二人去って消えていった。 それなのに、杉田はまだ帰ろうとしてくれない。そして茂らしい姿はあらわれない。 ( あん人がここに来ると、杉田さん、なして思ったとじやろ ) 春江は急に杉田の推理が怪しいような気さえしてきた。杉田は帝国劇場に茂がきっと出現 するにちがいないと、何故か急に思いこんだのだ。それには特に確実な根拠もなく、言って
すー 突然、彼女は思いつめたような顔をしている杉田にたすねた。狼狽した杉田はあわてて、 「そりや : 正直言うと、あの薬を手に入れてこいというのが、上司の命令だったんで 嘘をつけぬ彼はついにほんとうのことを言ってしまった。 「そう : 加藤文子は寂しそうな顔をしてテープルの一点を見つめながら呟いた。 「しゃあ、わたくしを誘ってくださったのも、ほんとうはそのためなのですね」 しばらく沈黙した後、杉田はかすれた声であやまった。 「申しわけありません。悪かったです」 、え、あなたよりも、そんなことまでしてあの薬を欲しがる上役の方が悪いのですわ : いいです。その薬、少しだけならわたし何とか手に入れてきますー あまりのことに杉田は仰天して、 「それしゃあ、あまりにあなたが気の毒ですー 「いいんです。でないと、杉田さんがお困りになるんでしよう。しゃあ、明日、同し時刻に この喫茶店に来てください」 そう言って彼女は頭をさげると、足早に喫茶店から出て行った。 ろ、つばい
100 「なあに」 「いや、何でもない」 杉田は言いかけて、やはり言い出せなかった。 その数日後、彼は重い気持で鬼頭教授の助手の加藤文子に電話をした。 「あの時はいろいろお世話になりました杉田です」 「あらつ、お役にもたちませんでー 「猿の清君は元気ですか」 「いいえ、ますますしおれています。可哀想ですわ」 「もう一度、清君に会いたいのですが」 と杉田は彼女に頼んだ。 独身だと偽って杉田は、それから数度夕方に、大学から出てくる加藤とデートした。 教授の眼もかすめて、実験室にもぐりこみ、意気消沈している猿の清に人参をやった。実 験室に行く時は、助手の女性たちの歓心を得るため、ケーキの箱を持って行くことを忘れな かった。もちろんそれらのことは、妻の純子には秘密にしていた。 「鬼頭先生は今、新しい実験を試みていられますの」 杉田を独身男と信じた加藤文子は数度目のデートの時、コーヒーのスプーンをかきまわし ながらそっとうちあけた。 「ほオ。新しい実験って ? 」
「ええ」 「一体、その薬を君は何に使うつもりなの」 「ほくは鼠小僧次郎吉になるのですー と茂はニャニヤ笑いながら答えた。春江とちがって杉田にはその意味がすぐわかり、 「あの薬を使って、次郎吉の真似をするの ? 狙う相手は ? 」 「今の世の中にはいくらでもいるでしよう。人を踏みつけにする奴、威張っている奴、人の 悲しみのわからない奴。その中からターゲットを決めるつもりですー 茂の答えに杉田はだまった。 彼はこの時、茂を非難するよりは羨ましいとさえ思っていた。金山広一郎の下で杉田は毎 日、宮仕えの辛さを味わわねばならなかった。たとえば、金山の命令であの加藤文子を傷つ けねばならなかったし、その時のいやな記憶は杉田の胸から消えることはなかった。 ・こ , かり 茂があの薬を盗み出した時、狼狽した金山の姿を見て、彼は心の中で痛快な気分さえ味わ ったのだ。 情金山が事業のため、利益のために使おうとしている薬を茂が奪いとった、そして鼠小僧次 郎吉になろうとしている。 純 「リノ君、よくわかったよ」 と杉田はうつむいた顔をあけた。
「杉田君、君の出番だ」 「は ? ・私がワ・」 杉田と呼ばれた秘書はうしろをふりかえって、びつくりしたように叫んだ。 「そうだ。君はあの女性の話を知っているだろう。恋人のために自分の働いている銀行の金 けなげ を横領してフィリ。ヒンに行った健気な女性の話を」 「ええ、そりやア新聞やテレビでたびたび見ましたけど」 と杉田は不安そうに答えた。彼は秘書として、今まで金山が普通考えられぬような奇策を 仕事の上で使うのを知っていたからである。 「なら、杉田君、君は・ほくが何を考えているかわかるだろう」 「わかりません : : : 」 「勘のにぶい男だな。さっき研究室に加藤という若い女性がいたろう。あの女性がもし君に 惚れたら、どうなる : やっと杉田は金山広一郎の言わんと欲することがわかった。あの加藤という女性とねんご ろになって、新ホルモンを盗ませて来いという暗示なのだ。 「ほ , 、は : : この間、結婚したばかりです。できません」 「そんなことが仕事と何の関係がある。君、自由主義経済の世界は競争だそ、非情だそ、生 きるか、死ぬかだそ」
332 「わたしの娘の頃は、男の子の着るものと女の子の着るものが随分ちがっていたわ。でも年 これからもそんな流行がつづくのかしら」 と共にその差がなくなってきたみたい。 妻の話をききながら、杉田の視線は何けなくカウンターにそそがれた。そして彼は思わす 膝をかたくした。 加藤文子がそのカウンターでこちらを見ていたのに気づいたからである。彼女は杉田と視 線があうと、あわてたように会釈をして雑踏のなかに消えていった。 「どうなさったの」 妻にいわれ、杉田は、 「いや、何でもない」 と強くうち消した。 妻の手前、顔色の変ったのを何とか誤魔化したものの、杉田の意識下には加藤文子にたい する自責の念がふたたび強く甦った。 あの時、金山の命令で ーマンの身としてやむなく そして宮仕えのサラリ はっきりではないが、結 杉田は独身のふりをして加藤文子とっきあった。それとなく 婚する可能性のある青年のような真似をして、彼女からアンプルを手に入れたのだ。 ( ほかに手はなかった : : : 仕方なかった : : : ) その自己弁護はしかし、彼の良心をしすめてはくれなかった。彼が加藤文子に一瞬の希望
256 と茂は箸をおいて呟いた。春江もコックリうなすいた。 春江が帰ったあと、引越しの準備をつづけている茂の夜の部屋にもう一人、客があった。 杉田だった。 「随分君を探したんだよ」 と杉田も春江と同じことを言った。 「正直にたすねるよ」 「どうそ」 茂はひらき直った顔にうす笑いをうかべてうなずいた。 「君だろ、あの薬を盗んだのは」 と杉田はたすねた。 「そうです」 「そして副社長を脅迫して研究所に行ったのも君だろう」 「そうですー 「じゃああの薬を返してもらうわけこよ、 と杉田は穏便にたすねた。しかし、心のなかで、茂が素直に薬を返してくれるとはいっこ うに期待していなかった。 「だめですー 「どうしても ? 」
しかし彼女は、それ以上は実験室から持って来れなかったそうです。私も更に盗んでくれと : とても言えませんでした」 杉田は副社長にこの言葉を仕返しのつもりでロにした。あなたの命令は実行した。しかし その分量だけではあなたの目的は達せられまい、と彼は心のなかでそう叫びたかったのであ る。 「そんなこと簡単に解決するさ」 金山は杉田の無言の抗議には気づかず、回転椅子をギィーと軋ませて、 「この薬を、早速、分析させるんだ。そして、専門家に同じものを、いや、もっと強力なも のを製造できるかどうか、すぐ調べてもらいたまえ」 「副社長はあくまで人体実験を決行なさるおつもりですかー と杉田は悲しそうに言った。 「でもだれに実験なさるのです」 「そんな相手はいくらでもみつかる。杉田君、君は・ほくの秘書としてそばにいながら、まだ まだ企業競争のきびしさを身にしみてわかっていない。早く仕事にとりかかりたまえ」 杉田は仕方なく二つのアンプルを手に持っと副社長室を出ていった。 一週間後、研究室から報告があった。分析の結果、時間をかければ、もっと即効性のある ものを作れるだろうという報告だった。