注射 - みる会図書館


検索対象: あべこべ人間
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1. あべこべ人間

「それじゃ、リノ、今度は男に戻るんだよ」 金山は笑いながら注射液をとりあげた。茂はその前に自分の腕を差し出し、チクリと痛み と注射液が体内にしみていくのを感じながら、自分がふたたび女から男へ戻っていくのたな と思った。不安はなかった。この間の実験の結果がわかっているだけに、今度の成果を徴塵 も疑いはしなかった。注射が終ると金山は、 「じゃ、結果は電話ででも高野さんからお知らせ願いましよう。もっとも、伺わなくてもそ の成功は疑いありませんが 「いや、私も同じ気持ですー と高野は金山の機嫌をとるように言った。 会社を出ると、茂は感慨無量だった。今日一日たけ自分は女なのである。 そして明日はまたこの間のように男に戻るのだ。 「まあ、わずかな女の時間を楽しみたまえ」 別れ際に高野は皮肉な口調でそう言うと、茂の肩をポンと叩いこ。 高野と別れて、いっかと同じように茂は帝国ホテルに行った。帝国ホテルに行ったのは別 薬 のに理由はない。ただ女である最後の日と最後の時間、自分に注目する男の視線をここで楽し 二みたかったのだ。 回転ドアをあけて広いフロアを通りすぎる時、並んだ席に坐っていた男たちの視線が、磁 石に引かれる鉄粉のようにスーと自分に集まるのを感した。それらの視線を矢のようにうけ

2. あべこべ人間

324 ただ看護婦室に一一人の看護婦が椅子に腰かけているだけである。それが彼の狙いでもあっ エリダベス・テーラーの病室はすぐわかった。他の病室には名札がかけてあって日本名が そこに書いてあるのに、そこだけ名札は横文字で、特別病室の一つだった。 うかが 廊下をしばらく窺って看護婦が来ないのを確かめてから、彼はその病室に近づいた。そし てドアのノブをそっと音のしないようにまわした。 べッド・ランプが暗く部屋を照らしている。特別病室だけあって二間つづいている。こち ルームがある。 らは応接室、奥にべッド・ エリダベス・テーラーはうつ伏せに眠っている。あの烈しい腹痛も、痛みどめの注射をう ってもらったために鎮まったようだ。毛布を頭まですりあげ、白い肩だけを少し出している。 「プリーズ」 と茂は注射器を彼女に見せて了解をとろうとしたが、エリダベス・テーラーは熟睡してい るのか身動きもしなかった。 思いきって、その白い肩に針をうった。一瞬の痛みがある筈なのに、彼女はビクリともし ない。アンプルの液体を全部、彼女の体内に注入した。 すべては終った。 これでエリダベス・テーラーは三、四日の後には完全に男性となるだろう。世界を仰天さ せる珍事が起るのだ。世紀の美女の喉仏がとび出て、その豊かな胸が縮小する。彼女に莫大

3. あべこべ人間

230 「馬鹿なまねをするな。誰かが入ってきたらどうする 金山は必死で冷静を装ったが、相手はせせら笑って、 「二人を便所のなかで同性愛をやっている連中だと思うだろうね。今日、・ほくは男ものの服 を着てきているから、まともな人間は、おカマだと想像するだろう。そうすりゃあんたの名 に泥がつくよ 「やめてくれ。話し合おう。話せばわかる」 金山はもう必死だった。情けないことだが、そう言った時の声がふるえていた。 「君の条件は金か」 「金じゃないよ」 「何た」 「この薬をたしかあんたの研究所で何本かもっと強力なものを試作するといっか言っていた ね。その薬はどこにある。全部もらいたい」 「全部といっても、研究所に七本しかない」 「じゃ、こっちへ来い。もし変な真似をすると注射液を注入するそ。もう半分注入したけど 金山はズボンのチャックを開いたまま、ゆっくりと便器から体を離した。そして大便所の ポックスのなかに入れられた。 「いい、刀

4. あべこべ人間

132 と金山は注射器をとりあげ、 「大丈夫だよ。これでも・ほくは注射を打つのは名人だからね。お袋が病気の時、看護婦に代 ってビタミン注射をやっていたんだ。医師法にふれる話だが : : : 」 アンプルを切って溶液を注射器に入れた金山は器用に脱脂綿をつけた針先を上へ向けて、 「さあ」 とリノを促した。 「そのアルコールで腕を消毒したまえ。そうそう、すんだら腕をこっちに出して」 注射針が茂の腕に入り、水のような溶液が消えていった。 「どうだ、上手いだろ」 金山は得意そうに針を抜き、茂は脱脂綿をあてたまましばらくこわそうにしっとしていた。 「気分が悪いかねー 、え、何でもありません」 と茂は顔を強張らせたまま首をふり、 「君、椅子に坐らせていただけよ」 と高野が心配そうに横から声をかけた。 五分たった。十分たった。 「どうたい。。 とこか変ったような気がするか。女になったような気がするか」 「何だか、股ぐらのあたりが軽くなってきたような気がします」 こわば

5. あべこべ人間

168 「アメリカではいよいよ人工授精で天才児をつくることをやりはじめたらしい」 「天才児をですかー 「そう、ノーベル賞受賞者の精子を貯蔵して、それを頭のいい女性の子宮に注入する。遺伝 によって当然、天才児が生れるという発想です」 「なるほど」 「これからの時代はこのように人間の手によって天才児を生み出せたり、あるいは男女を自 由に出産できるようになっていくでしような。正に自然の法則にたいする人間の知恵の勝利 だが。そういう意味で、我々のやっていることも新しい文化にそっていることだと思います よ 金山はひとりごとのように呟いたが、その秘書の杉田は何ともいえぬ反撥心を感じた。彼 は人工授精で天才児をつくったり、薬によって男性を女性に変えるような行為が極端にいけ ば、つとく ば、それは人間にたいする冒漬であり、神を恐れぬ行為になるのではないかと思った。まさ しくそれは人間を愚弄する悪魔的な科学のカではないのか。 しかし、一介の秘書にすぎぬ杉田は、とてもそんなことを言う勇気はなくだまりこくって その杉田に金山は、 「おい杉田君、注射の用意は出来ているか」 「はい、出来ております」

6. あべこべ人間

ジャーナリズムからひつばり凧だもんね それから彼女はちょっと眼をそらせて、 「でも、やつばりあなたはあの金山さんの注射をうたないでよかったよ 「なしてですか」 「どうも、あの注射がね、未完成らしく、金山さんの思い通りにならなかったようよ。あの ミックスセックスにしようとして、失敗したらしいよ」 男の子のモデルを金山さんは、 不吉な黒い胸騒ぎが春江の心に起った。 お昼に冷やしうどんをご馳走になって、兵頭先生の家を出た。そして新宿に向う電車のな かで、春江が考えつづけたことは、もちろん、茂のことだった。 先生が言っていたことが本当ならば、茂はあの注射でわけのわからぬ体になってしまった のだ。わけのわからぬというのは、どういう意味だろう。 彼女はもちろん、薬害の恐ろしさを新聞や雑誌で知っていた。それと同じことなのたろう か。同じだとするなら、茂は廃人同様の体になったのだろうか。 東京ではなやかに生きていると思っていた茂が、意外にもみしめな破目になっていたこと は春江に衝撃を与えた。もちろん、心のなかでは、 ( わたしはあんな注射をうたないでよかった ) というホッとした気持が起きなかったわけではない。しかし、そのホッとした気持以上に 茂にたいする同情が春江の胸を今しめつけていた。

7. あべこべ人間

「お前、ヤクをうってんのか」 と不安そうにたすねた。ヤクをうっているのなら、背後に男がいるにちがいない。何組の 奴だろう。 「ヤクなんかじゃないわよ。わたし、あれをする時はいつも注射をうつの。そうすると余計 に興奮して気持がいいんだもの。赤まむしのエキスの注射」 彼女はビーズのバッグから注射液とアンプルを入れた白い箱をとり出し、手なれた手つき でアンプルを切った。ヤクを何回も見たことのある牧田には、彼女が嘘を言っているのでは ないことがすぐわかった。第一、この女の顔や皮膚にはヤク患者の症状は出ていない。 「そんなに効くのか、そのエキスは」 「そりやもう。お兄さんにも一本、うってあげましようか。燃えるわよ、とっても」 「痛くないようにやってくれ 牧田はズボンを少しおろして、神経のあまりない尻に注射をうってもらうことにした。 チクッとした痛みがした。 吉「そのままじっとしてて」 次牧田が気を抜いた瞬間、女は彼のズボンを急に膝までおろした。そのズボンのせいでポッ クスから逃げだした女を追いかけることの出来なくなった彼は、彼女が出口から闇に消える のを手をこまねいて見ているより仕方なかった。

8. あべこべ人間

131 試作品 茂の返事に金山の頬に満足そうな微笑が浮んた。そして先程、杉田を呼んだのとは別のポ タンを押して、 「ああ、紅茶を三つ持ってきたまえ」 とその時はしめて飲物を注文した。 余談になるが、商売上の客が来るとすぐ茶を出すようなのはほんとうの実業家とは言えな 、とロックフェラ 1 が言っている。客の接待は商談が成立した後にすればいい、成立しな ければする必要がないと富豪カーネギーも書いている。日本と米国の習慣の違いはあるが、 だいたい出世しない男ほど、すぐ人に奢りたがるものなのた。 三人が紅茶を飲んでいる時、杉田が試イ 乍のアンプルを入れた箱を運んできた。その箱には 注射器も入っている。 「ほオ、これがそんな魔術的な薬ですか」 と高野も茂も信しられぬといった表情で、無色透明の液体の入ったアンプルをしげしげと 眺めた。 アンプルの液体はたんなる水のようだった。こんな水のような液体の中に、長い人間の歴 史をひっくり返すエキスが含まれているとはどうしても考えられなかった。男が女になり、 くつがえ 女が男になるーーーあの神の定め給うたその法則を覆す力が、何でもないアンプルにひそん でいるとはとても思えない。 「リノ、腕を出したまえ」 おご

9. あべこべ人間

「奇妙な猿になってしまったのです」 「奇妙な猿とおっしゃいますと ? 」 「ええ、杉田さんがご覧になった時は、あの子は第一の注射ですっかり牝猿になっていまし たね」 「そうです。それで少し萎縮していましたよ」 「それが : : : 可哀想だとおっしやって男に戻る注射を鬼頭先生がおうちになったのです。で も、どうしたわけか一番目の注射のようにうまくいきませんでした。清は半分牡で、半分牝 という奇妙な猿になってしまったのです」 「半分、牡で、半分、牝とは、どういうことですか」 杉田のおどろいたような声に、文子はうなすき、 「あの : : : オッパイは大きいのに、手とか足は男のようにたくましいんです」 「それでセックスはどうなんですか」 「女のものです」 さすがに文子は真っ赤になって答えた。 「なるほど : : : 」 なるほどと言ったのは杉田が昨夜のことをまざまざと思い出したからだった。 昨夜、 ー・コンシャンテのトイレで、客がびつくりするような悲鳴をきいた。そして便 所から真っ蒼な顔をした茂がよろめくように出てきた。 いしゆく

10. あべこべ人間

な保険を支払わなければならぬ保険会社はあわてるだろう。各国の特派員はこの出来事に、 砂糖にむらがる蟻のように飛びつくにちがいない。 注射をうたれてもエリダベス・テーラーはまるでマネキン人形のようにうつ伏せになった まま、じっとしていた。しかし、マネキン人形の体に注射針が入るはずはなかった。彼とし てはむしろ騒がれずにこの病室を出られるのが有難かった。 うす笑いをうかべて部屋を出ようとした時、 「茂さん」 突然、背後から声がかかった。 愕然としてふりむいた岡本茂は、うす暗いべッド・ランプの光が上半身を起した春江の微 笑した顔をうっしているのを見た。 「君は : : : 」 「エリダベス・テーラーじゃなかとよ。彼女の病室は隣よ」 「ばって、〒リダベス・テーラーと英語の名札の出とったよ」 茂は狼狽して平戸弁で答えた。 「うちが取りかえたもん、あん名札ば」 「そんなら、俺のくることば、知っとったとや」 「掃除のおばさんに化けとったとでしよう」 「俺 : : : ひでえことばしてしまった。君にあん注射ばうってしもうたばい」