197 珍事 そして必然的に頭にのぼったのは、伊集院のことだった。伊集院ならば、自分のこの気持は わかってくれるかもしれないのだ。そうだ、明日、伊集院に連絡しよう。 うとうとと眠り、眠っては眼がさめた。眼がさめると屋根をとびまわる雀の声がやけにや かましかった。 昼前、もらった名刺を頼りに伊集院の会社に電話をかけ、 「話があるんです。会っていたたけないでしようか」 沈んだ茂の声に伊集院は驚いたように、 「どうしたの、病気ですか」 とやさしくたすねてくれた。 、え、病気じゃないんです」 伊集院は茂に午後の六時に赤坂のホテルに来るように言った。 六時、茂はロビーでしょん・ほり坐っていた。約束の時間を十分ほど過ぎた時、後ろから肩 を叩かれた。陽にやけた伊集院が白い歯をみせて笑っているのがうれしかった。 「この二階に串かつを食べさせる店がある。そこで話をしようじゃないの」 だが、時刻が時刻だけに店はたて混んでいて、しかも板前が眼の前をたえず動きまわって いるので、何もかもうち明けようという茂の気力は次第にし・ほんでいった。それに誰かにこ んな話をきかれれば変な眼でみられるにちがいなかった。 「で、話って何なの ? 」
茂はそう言うと、まぶしそうな顔をした。赤くなって春江はうつむいたが、 「岡本さん、どこの大学に進学するとですか」 と勇気をおこしてたすねた。 「俺 ? : : : 東京の大学ば受験したかよ」 「東大 ? 」 春江は眼を丸くした。 「いや、慶応ば受けようかと思うとる 春江は溜息をついた。何だか茂が、自分の手の届かない人のような気がしたのである。 アという溜息は、彼女のような女子高校生が佐世保に時々やって来る有名歌手を舞台でみた 時、思わず口から出る溜息とよく似ていた。春江の眼には、慶応の学生になった茂の制服姿 が、もう眼にうかんできた。 「そんで、君は 「うちは、就職ばするつもりです。お父さんが、女の子は大学など行く必要はなかと、そぎ ゃん言うもん 船は平戸港に近づきつつあった。両側に灯台の灯がみえ、電光に照らしだされた平戸城が 夜の空を背景に浮びあがっている。 船着場のあたりには、土産物屋の店の光があかるい。その付近が小さな平戸町の目抜き通
ニ一口 そのコーヒー店で、茂は自分に都合の悪いところははしよって、金山の話をこの美容師に うちあけた。そして、 「どうしたらいいでしようか」 と幼い弟が兄に何かを相談するような声をだした。 話の途中から高野の眼に次第に好奇心の色が炎のように燃えたが、聞きおわると、 「ミックスセックスだって ? やはり、そうか。眼のつけどころがちがうねえ」 彼は感にたえたような声をだした。 「俺は、自分がニ = ーヨークで、日本人美容師として成功したつもりだが、やはり金山広一 郎のスケールにはかなわない。そうか、彼はこれからはミックスセックスの時代だと言うの だな。リノ、その話、俺にも一枚、かませてくれないか」 茂はびつくりして眼を丸くすると、 「高野さんもですか」 「うん、金山さんに会って、俺もそのミックスセックスの美容をやらせてもらいたいんだ。 君という恰好の材料を使ってね。つまり、今までなかった人間美を君の上に創造すればいし 画 んだろー 業茂はこの時、上京一年たらずで、自分の運命が自分の意志をこえた渦中にまきこまれたの 事 を感じた。
ある。 「どうだい、今日は俺も美人を連れて来たろう」 と金山は店のママに紹介した。そのママは、斜視のために眼が色つ。ほくみえるような女だ 「まあ、ほんと。でもこんなお嬢さんがどうして金やんなどのお友達になったのかしらー やがて茂はそっと立ちあがってトイレに行った。何の異常もなかった。体は相変らず女性 のままである。 茂は何気なく脚に眼をむけた時、悲鳴のような叫び声をあげた。今朝よりも、もっと濃く、 もっとびっしり、すね毛がはえているのだ。脚だけはまったく男だった。 「どうしたんです」 トイレの外でママのびつくりした声がした。
204 セイをみることはあっても、茂の名も写真も一度も眼にしたことはなかった。 兵頭女史はさかんにこれからの性の問題は、男性女性の対立とか女性の独立とかいうよう 、と書いていた。これからは、男のなかにある女性的な要素、また女性 な古い問題ではない にある男性的要素を、お互いが恥ずかしがらす発展させるのが問題だなどとのべたてていた。 それがきっかけで、あちこちに両性具有論などというむつかしい活字が眼につくようにな った。あたらしい流行語だった。 時々、茂の夢をみた。 ( ま、茂さん ) そう思うぐらい夢のなかの茂は、華かなスポットライトを浴びたスターモデルとして出現 していた。 さまざまな衣装を着て彼が現われるたびに、場内ではどよめきとも溜息ともっかぬものが ひろがり、ファッションよりも茂の美しさにみな圧倒されているようだった。そしてその一 番隅の席で春江はそっとその茂の成功に拍手している可哀想な女だった。 ずっとむかし、「ライムライト」という映画があったけれど、あの老いたチャップリンの 役を自分が演しているような気さえした。恋人の華かな出世の陰に、一人淋しく立ち去って いく見すてられた芸人ーーその気持が今の自分の気持だった。そう思った瞬間、眼がさめて、 ( あ、夢だったのか ) と思うことも亠のった。
130 「ほんとですか。金山さん と高野は眼を輝かせた。 「もちろんです。今、秘書の杉田に持って来させるのがその薬のサンプルです。これを手に 入れるのにうちの社は随分大きな投資をしましたよ」 「そりやアそうでしようねえ、しかし驚きましたなあ と高野は驚いた声をだした。 「リノ、君はその薬で体を改造する気はないか」 と金山は茂の顔をじっとみつめてたずねた。茂は眼をまるくして、 「本当に女の体になるのですか」 「そうたよ」 茂の顔に不安が走った。彼が女装したり、女になりたいなどと言えたのも、実は体の原型 がいつまでも男だという安心感があったからである。だが体まで女になりきってしまえばこ れは得たろうか、損だろうか。 「女になってしまうと、もう男に : : : 戻れないのでしようか」 「いや、その点は大丈夫だよ。女から男へ変る薬も、我々は今手に入れているのたからー 「そうですか、じゃまた男に戻れるのですねー と茂は念を押した。 「なら、結構です」
改造 春江は平戸の純情な娘だったから、恋する茂の言うことならみんなほんとうだと思おうと した。乙女の恋心が彼女をそうさせたのである。 「これからはミックスセックスの時代だ」 「これからは、男だの女だの、服装でも化粧でも、はっきり区分けする時代しゃない」 「だから、男が女の服装をしたり、女が男の服装をしても、それが本人に悦びを与えるなら いっこうかまわない」 「東京の若者はみんな少しすっそんな気持になっていっている。折角、東京に来たのなら、 ・ほくと同じようにならなくちゃ」 茂のそれらの言葉は春江の耳の底に焼きつくように残った。しかもそれらは、平生、兵頭 造先生の言っていることと同じだった。兵頭先生もお茶を一緒に飲む時、 「五年前なら、男の恰好をする女をレズと言ったのよ。レズとかホモとかは、蔑んた眼でみ られたのよ。でも、今はそんな眼をする人は東京では逆に軽蔑されるわ。新しい時代の感覚 がわからないからよ」
328 と代って答えたのは春江だった。 「じゃ、アンプルはまだ残っているんだな」 、え、最後の一本ばこんわたしの体にうってもらいました」 と春江は胸をはって答えた。 「わたしは男になります。茂さんが女なら、その方がよかと思うたとですー その間、茂はほとんど眼を伏せて何も言わなかった。 「わたしたちアベコペになったばって、どっちっちやかまいません。若かっせんもう一度、 人生ばやりなおせますもん」 杉田は二人の間に何が起ったかは知ることができなかった。しかし、二人の間に何かが起 ったとは信ずることができた。 「そうか、やりなおすのか」 「それじゃ、みつからないうちにここを早く出るといい」 三人はそのまま病院を出た。夜、日比谷の通りはあまり人影はない。 「ここで失礼します」 「さようなら 若い二人は肩をならべ、杉田とは反対の方向に歩きだした。ふりかえった杉田の眼に、む しろ茂を リードしているような春江の姿がうつった。二人は手をつないでいた。
280 「・ほく、県立の高校なんかに行きたくないんだ」 と息子が言った時、彼は半分は妻にたいして、 「ざまみろー という快感をお・ほえ、あとの半分でこの息子に何とも言えぬ不さを感じた。しかし、同 時にその息子の気持を、妻に抵抗してまで伝えることのできぬ自分の不甲斐なさも自覚せざ るをえなかった。 ( 俺にそんなことを言っても駄目だよ。お前の教育となると、お母さんは眼の色を変えるだ 彼は息子に心の底からわびたかった。 ( 俺がもっと強い性格だったら ) たとえば、一家の家長として頑と妻を抑えつけるような男だったら たとえば、眼にあまる皮肉や嫌味を言われれば何も言わず、。ハシーツと妻の頬に平手打ち をくわせる男だったら だが、持って生れた弱気の性格は直せるものではなかった。 ( 強くなりたい。強い夫、強い父親になりたい ) それがせつなる彼の願いだった。 彼の願いはほとんど不可能に近かった。長い間、妻に圧迫されつづけたため、彼は自分に はたち向う勇気も気力もなくなっていることを知っていたからである。
( この人は高野さんと同じだ ) 瞬間的に彼は思った。銀座でホステスや歌手との浮名を流している金山に、そんなかくれ た傾向があるとはだれも思っていない。週刊誌も暴露新聞もまだ気づいていないことを茂は 金山の手の感触だけで見抜いたのだ。 さっそう 一時間ぐらい店にいたあと、金山は颯爽として帰っていった。 「さすがねえ」 とマネージャーが感にたえないような顔で言った。 茂がその金山のことを高野に話すと、いつもは嫉妬の色を眼にうかべる高野が、この時だ 「ほう」 と感嘆の声をあげ、 「やはり、切れ者だけあって、眼のつけどころがちがうね。そうか、これから日本人の風俗 習慣には、性の差別はなくなると言ったか : : : 」 としばし、何かを考えこんでいた。 自分の言ったことが高野の興味をこれほど惹くとは思わなかったので、 「そんなに面白いのでしようか。あの人の言っていることー 「聞く能力のある奴には面白い。そうか、新しい流行は、美容でも男と女の境界線をなくす ことからはじまるんだな」 ひ