なかや、この体」 「もし犬と猫とが交配して、半分犬で、半分猫の動物の生れ、そればニャンワンと名づけた ならば、世間の人は面白がるしやろうばって、そぎゃんなったニャンワンは、どぎゃん悲し ゅうして辛かじやろうか。犬でもなければ猫でもなか自分の身ば、どぎゃん悲しかって思う じやろうか」 茂は狂ったようにひとりごとを言いつづけた。その傍らで春江は何と慰めていいかわから す、ただ、両手を膝においたままうなだれていた。 窓の外で子供たちが四、五人、歌をうたいながら遊んでいる。夕暮に子供たちの声を聞く のは悲しかった。 「ね、茂さん、平戸に帰ろう。一緒に帰ろう」 「なして帰るるや ? みんなの笑いもんになるだけじゃなかや。あぎゃん狭か町じゃ噂は一 日でひろまる。町の人はみんな、・ほくが怪物になったことば知るじやろ」 「そんならどこか遠い町に行こ。東北でも北海道でも。そうすりゃあだれもわからんたいね。 おなご だれも茂さんば前から女子って思うたいね」 「ばって、この脚のすね毛ばどうしてくるる ? 」 茂は憤然として首をふった。 「他人は騙せても、自分は騙せんよ。この脚に毛のはえとる限り、自分は化けものだってい だま
280 「・ほく、県立の高校なんかに行きたくないんだ」 と息子が言った時、彼は半分は妻にたいして、 「ざまみろー という快感をお・ほえ、あとの半分でこの息子に何とも言えぬ不さを感じた。しかし、同 時にその息子の気持を、妻に抵抗してまで伝えることのできぬ自分の不甲斐なさも自覚せざ るをえなかった。 ( 俺にそんなことを言っても駄目だよ。お前の教育となると、お母さんは眼の色を変えるだ 彼は息子に心の底からわびたかった。 ( 俺がもっと強い性格だったら ) たとえば、一家の家長として頑と妻を抑えつけるような男だったら たとえば、眼にあまる皮肉や嫌味を言われれば何も言わず、。ハシーツと妻の頬に平手打ち をくわせる男だったら だが、持って生れた弱気の性格は直せるものではなかった。 ( 強くなりたい。強い夫、強い父親になりたい ) それがせつなる彼の願いだった。 彼の願いはほとんど不可能に近かった。長い間、妻に圧迫されつづけたため、彼は自分に はたち向う勇気も気力もなくなっていることを知っていたからである。
338 だが今、その疑問は氷解した。なに、女の乳房と同じようなものなのた。 なによりも嬉しいのは女だった時とちがって、オシッコが上下左右、自由にとぶことであ る。女にはこの芸当ができない。 だから、トイレで春江は存分にこのオシッコの自由曲芸をたのしんでいる。 ( これが男みよう利たい ) と自分に一一一一口いきかせる。 そんなわけでトイレのなかで時間をかけて遊んでから席に戻ると、 「長かねー と茂がつぶやいた。 「もう平泉たいね」 あみ棚の荷物をとるのは女の茂である。そして、それを持つのも女の茂である。 平泉の駅にはチリン、チリンと風鈴がなっていた。ここは南部風鈴の産地でもあるのだ。 観光客が列をなしておりる。有名な中尊寺にみな行くらしい。 たかだて 春江と茂とは、たから高館のほうに先に足をむけることにした。 ( わたしたちの新婚旅行 : : : ) 春江は倖せだった。女子高校生の頃に新婚旅行のことを考えるとういういしい新妻の自分 の姿がまぶたにあつつ。ほく浮んだが、現実にはそうではなかった。自分は新妻ではなく : 夫なのだ。
第二の薬 つかの間だったが、茂は自分が女性であることを充分に楽しんだ。それはまるで未知の国 に行ったような新鮮な体験だった。昨日まで男の眼で見なれていたすべてのものが、女性の 感覚を通して眺めると、別種の色彩、別の匂いをともなって変容するのだった。 例えばタ焼けーー茂は平戸にいた小さい時からタ焼けが好きたった。そしてこの東京へ来 てもよくビルの屋上への・ほって、えんじ色の豪華な幕につつまれた大都会のタ焼けをながめ た。しかしその美しさは、男の眼から見た「美しさ」だった。そして女性になった今、同じ タ焼けはもっと微妙な、もっと複雑な「美しさ」を帯びていた。 ( そうか、そうだったのか ) と茂はその時、狂おしいような歓喜を感じた。 の彼はまた路を歩いて、男たちが自分にどういう視線を浴びせるかがよくわかった。そんな 二時の女であるよろこび、自尊心、誇りーーそれらは男の頃の彼には観念的には想像できても 実感的にはつかめないものだった。たが今、茂には実感として感じることが出来た。 今の茂の体には、ある一ヶ所を除いてもはや男のものは何もない。その一ヶ所だって、虫
356 たとえば謙信という名がそうである。謙信が女性説を言う人は、謙信の本名が兼子だった という。兼子はケンシともよむ。ケンシに通ずる謙信の名をつけたのも無理もない。 敵に塩を送ったという話は名高いが、これも武田信玄が太りすぎて血圧の高いことが女の 謙信によくわかったからだそうだ。血圧に塩分がよくないことは現代医学のよく言うことだ が、女性である謙信は調味料に塩を使いすぎると肥満の男が卒中で倒れるのをよく承知して だから、信玄に塩を送ったのではないか、という説もある。その説が本当たとすると、そ れは女性らしい手口である。 ( さそかし、苦労したろうなあ ) 謙信は生涯独身だったというが、独身だったのは自分が女たったことを伴侶者にさえ知ら れたくなかったためたろう。一国の領主ともなるにはそれほどの苦労がいるとわかり、副社 長の金山は同感、同情を禁じえず、めくる頁に涙を落したくらいだ。 だがある日、トイレで彼は自分が男に復帰しつつあることに気づいた。その時は夢でも見 ている気持たった。彼は復帰したものを引っぱってみては、 ( 本当だ、本当だ ) 思わず歓喜の声をあげたくなった。まだ小芋の先ぐらいだったが、たしかに存在している のだ。 杉田はあの薬の効果が一時的であることを加藤文子の口から知ったが、彼は意地わるにも
らして春江は茂が声をかけてくれるのをじっと待っていた : 茂のほうは自分のべッドに腰かけると、 「ほっ . な・せか溜息をついて、なぜか何か考えこんでじっと身じろがなかった。やがて決心したよ うに枕元のスタンドの灯を消してべッドにもぐりこんだ。 一分たった。五分たった。十分たった。 たが、茂から何も誘いの声はない。 といって眠っているようでもない。石のように沈黙し ている。 ( わたしが何か言うのを待っているのかしら ) 春江はそう気づくと、意を決して、 「茂さん」 清水の舞台からとびおりるつもりで声をかけてみた。 「うん 向 方「眠っとるとね 外「いや、眠っとらんよ」 「くたびれた ? 」 「くたびれん」
「でも、なぜ、この頃は抱いてくださらないの」 「それどころしゃない、体がクタクタなんた」 はじめはそのように言い逃れをしていた彼も、一カ月ちかくなるとやむをえす、妻の求め に応じねばならなかった。 彼女は白けきった顔をしてべッドから起きあがった。 「あなた、ほかに女の人がいるのね。そうよ、そうだわ」 金山には残された道は一つしかない。それは岡本茂を探しだし、彼と話し合うことである。 「草の根をわけても見つけてほしい」 と彼は秘書の杉田を呼んで命令した。命令したというよりは、この時はむしろ哀願に近か 杉田は杉田で、もうとっくから金山広一郎の変りように気がついていたから、 ( ざまみろ ) 行と心のなかでは幾分、痛快な気持だった。自分では恨みをはらせぬ相手に、だれかが代っ のて仕返しをしてくれた時、感するあの無責任な痛快感である。 茂 「探しましよう」 彼は唇を皮肉に一寸ゆがめ、部屋を出た。
でも塗りつぶしたように真っ黒だった。怒りと絶望、憎しみと自暴自棄、いろんな感情がそ の真っ黒な胸のなかを交錯した。 夢遊病者のように歩いていつの間にか自分が駅の前の公衆電話に立っているのに気づいた。 その赤電話をとりあげ、茂は高野に電話した。今、頼れるのは高野しかない。 「ああ、君か」 受話器の奥で高野のカのない声が、 「さっき、杉田君から電話をもらってね。事情は一切わかっているよ。杉田君もそうだろう が、私も何と言って君を慰めていいかわからない。 こんな結果になろうとは、まったく思わ なかった」 「金山さんを恨みます。彼を告訴してください」 受話器を握りしめて、茂はなりふりかまわずそう叫んだ。 「訴える ? それはやめた方がいい。訴えれば、君はジャーナリズムの知るところとなり、 世間の笑い者として扱われるよ。半分男で半分女の両性具有者として。それに、金山さんだ って責任を感じているだろう。決して悪いようにはしないと思う」 事「先生、今からそこへ行っていいでしようか。ひどく孤独なんですー 「いや、今夜は困るよ。用事があるんた」 珍 高野の声には何だか冷たい、そらそらしいものがあった。ホモの彼が女性の性器を持った 茂にかってのような愛情をもっていないことは確かだった。
334 「そうでしたか : : : 」 と文子はうつむいて、 「エリダベス・テーラーが一寸、入院をしたとは週刊誌で読みましたけど、そんないきさっ があったとは知りませんでした」 「でも大事に至らず、不幸中の幸いでした」 「それにお宅の副社長さんまでが : : : そんな目におあいになって : さび 「そうなんです。しかし、考えようによってはそれも身から出た錆です。彼自身も今、ひた かくしに自分が半分、女性になったことをかくしていますが : : : 上杉謙信のことを書いた小 説を読んでいるから、どういう心境かわかります」 「上杉謙信 ? あの川中島の戦いの。なぜですの」 「謙信は本当は女だという説があります。女なのに男の恰好をして一生を生きたのがあの人 には身につまされるのでしよう」 突然、文子は声をたてて笑いだした。杉田はびつくりして彼女の顔をみた。 笑いたした加藤文子に杉田はキョトンとして、 「どうかしましたか」 、え。ごめんなさい。何でもありません。でも : とこちらを文子は見あげて、
197 珍事 そして必然的に頭にのぼったのは、伊集院のことだった。伊集院ならば、自分のこの気持は わかってくれるかもしれないのだ。そうだ、明日、伊集院に連絡しよう。 うとうとと眠り、眠っては眼がさめた。眼がさめると屋根をとびまわる雀の声がやけにや かましかった。 昼前、もらった名刺を頼りに伊集院の会社に電話をかけ、 「話があるんです。会っていたたけないでしようか」 沈んだ茂の声に伊集院は驚いたように、 「どうしたの、病気ですか」 とやさしくたすねてくれた。 、え、病気じゃないんです」 伊集院は茂に午後の六時に赤坂のホテルに来るように言った。 六時、茂はロビーでしょん・ほり坐っていた。約束の時間を十分ほど過ぎた時、後ろから肩 を叩かれた。陽にやけた伊集院が白い歯をみせて笑っているのがうれしかった。 「この二階に串かつを食べさせる店がある。そこで話をしようじゃないの」 だが、時刻が時刻だけに店はたて混んでいて、しかも板前が眼の前をたえず動きまわって いるので、何もかもうち明けようという茂の気力は次第にし・ほんでいった。それに誰かにこ んな話をきかれれば変な眼でみられるにちがいなかった。 「で、話って何なの ? 」