カ合衆国だけれどヴィグトリアはカナダとなっている。日本から万里の波濤を越えてヴィクトリ アへ着いたひとりの東洋娘が、千三百キロ離れたサンフランシスコへ売られるのと百キロしか離 がいぜんせい れていないシアトルへ売り飛ばされるのとでは、どちらに蓋然性があるかは言わずしてあきらか 」つ、つ しかも、これまた重いのにわざわざ携えて来た一、二のアメリカ西部開拓史によるなら、十九 世紀末より今世紀の初頭にかけての頃は、合衆国に比して英領カナダは政治的・法律的にたいそ ゆる う緩やかであったらしい。合衆国に属するシアトルでは正規のパスポートを持っていなければ上 陸させなかったが、カナダ領では検閲も有名無実に近く検閲官たちへの鼻薬も効いたので、日本 ーで下船する例が や中国から密航しようとする者は、カナダ領のヴィクトリアまたは・ハンクー ばんかい 多かった というのである。してみれば、故郷の家のいきおいの挽回を夢みて横浜の港から船 に乗った山田わかが、「直接合衆国へは行かないで、先づ、英領ヴィクトリヤへ着いた」と書い ているのは、疑いもなくそれが事実であったからだ。 それなのに彼女が、「亜米利加の婦人へ」という文中にただ一箇所ヴィクトリアに言及して るはかは、如何なる文章においてもシアトルの名すら出していないというのは、一体何を意味し ているのだろうか。高名な女流評論家となった彼女が、処世の必要からその娼婦時代のことを言 わず、したがって、そうした生活を送ったアメリカ北西海岸の町の名を口にしなかったーーーと考 えるのが、まずもって妥当であるのかもしれない。 はなぐすり
ずおそらくは世界じゅうの男性の大半が、暗黒街にいる女性たちへの同情は惜しまぬであろうし、 また彼女たちを救うためなにがしかの手助けをしようという人も少くはないだろうが、そういう ところが山田嘉吉という人物 所にいた女性を自分の妻にまでしようとする人ははとんどいない だけは、われとわが身を切り売る世界に身を置いていた女性を、みずからの生涯の伴侶とする 〈勇気〉を持っていたのだ。 これまた世の多くの男性たちが、妻を自分の半奴隷としておく しかも、そればかりではない。 ための便宜から、彼女の知的に向上することをあまり歓迎しないのが常であるのに、嘉吉は、無 学なわかを教え導いて知識人にまで成長させたというのである。すべての男性がこのような生き 方をしたならば、この社会にある女性問題の過半はたちどころに解決してしまうだろうし、第一、 わたしは、四十半ばの今日まで生きてき 女性問題それ自体が生まれて来ないにちがいない ひっそく て、青春独身の時代には知識もあれば思考力もあった女性が、結婚によって家庭内に逼塞を余儀 なくさせられたばかりに知的にいちじるしく退歩したという伊をいやというほど見ているので、 その実感からしても、嘉吉という男性に、いを揺さぶられたのであった。 話 だが、そうした話のなかでわたしがもっとも強く胸打たれたのは、わかを救出するにあたって、 の ん レ」い、つ 嘉吉がシーツを割いてロープとし、それを垂らして二階もしくは三階から脱出させた 房ドラマである。 刺そういう方法を嘉吉は単に教えただけなのか、それとも手を貸して一緒に脱出したものなのか、 詳細はいずれ渡米して生き残りの証人たちより聞くしかないけれど、どちらにしてもこれは大変
三原氏の紹介してくださった人は景山昇さんといい、歳の程は五十代の後半か。シアトルに生 まれてシアトルに育ち、のち事情あって日本に帰ったが、祖国の風が肌に合わなかったのかふた たびシアトルに戻って今日に至った由で、日本人会の書記をつとめておられ、誠実この上ない方 であった。 わたしは、この景山さんに連れられて、そのむかしこのシアトルの人肉の市にいたという山田 わかを直接に見知っていそうな老人たちを、幾人かその家に訪ねてみた。しかし、年齢八十歳、 九十歳という老人たちが、まるで申し合わせたように、「ああ、山田わかさん。あの人は若いと きこのシアトルで、人前ではちょっと言、 しにくい商売をしていたそうですが、残念ながらわたし は直接には存じませんーー・・」と言われるのである。 はじめわたしは、老人たちが心を開いてくれないのだと思った。肉体を売っていた女性を直接 ゅうやろう に知っていたと告げることは、彼等が男性であるだけに、そのむかし彼が遊冶郎であったという ことの証明になりかねず、そこでロを鎖して語ってくれないのだと考えざるを得なかったのであ る。まして、旅人としてのわたしひとりならばまだしも、日本人会の書記である景山さんが一緒 き芋 ル であり、隣室には彼等の子どもや孫たちが嬉戯しているにおいてをや。 ア シ しかし、幾人かの老人たちを歴訪するうち、わたしは、彼等がわたしを警戒し心を開いてくれ の 雪ないのではないらしい と信じられるようになった。山田わかが娼婦の境涯にあったのは二十 世紀の声を聞いた前後の数年間だったはずであり、今から数えれば七十年以上の遠いむかしのこ とざ
152 験とすぐれた教養とによって、この仕事に最適の人であったのに」と。 かくて嘉吉とわかはめでたく結婚したのだが、しかしふたりには、それに先立ってしたことが ひとつあった。それは、コルマの日本人墓地に、立井信三郎の墓石を建てたことである。 「アラビャお八重出世物語」の伝えるところによるならば、わかが嘉吉のプロポーズを承諾した しかばね あとの一日、彼は彼女に向かって、「あなたは、立井の屍をあのままで置いてはいけません」と 言い、石碑を建てて供養することをすすめたという。すでに記したとおり立井の自裁の後の始末 は友人の鷲津尺魔がつけたのだが、 しかしそのときには、野辺の送りをしたのみで白木の墓標く らいしか建てなかったのだろうか。そこで、おそらくは嘉吉が経済的負担を負って、立井の墓ど ころに石碑を建てさせ、その周囲に手ずから幾株かの薔薇を植えたのであった。 こうした行動の軌跡から推察すると、山田嘉吉は、わかがシアトルの娼館に春を売っていたこ とを知っていたのみならず、立井信三郎という男性の存在も承知していたのだ。さして広くない サンフランシスコ日本人社会のことだから、立井の失恋自殺という異常な出来ごとは嘉吉の耳に も届いていて不思議はないし、また、結婚承諾にあたってわかが告白したのかもしれない。そし て嘉吉は、四十歳に近い年輪とそれまでの苦難の人生の体験から、ふたっとないわが命を捨てて りよう まで彼女を愛した立井の心を諒として、せめてその志に報い且つはその霊を慰めるべく、彼の墓 石を建て薔薇を手植えたのだと思われる。 常識の裡にない結婚をしたふたりには、当然ながらさまざまな雑音が聞こえて来た。「山田先 」とい、つのが、士 生ももの好きな。選りに選って、あんな女を迎え入れなくてもよかろうに
ッションⅡハウス〉という正式の名前があるにもかかわらず、人びとは、売られた中国娘たちを 救出・更生させるこの施設のことを、それまでの通称〈中国娘たちの家〉に代えて〈キャメロ ン日ハウス〉と呼びならわすようにまでなったのだった。 ートソン ドナルディナ・キャメロン女史はスコットランド系の移民の娘で、一八九五年カルバ の助手として〈中国娘たちの家〉へ来たとき、まだ一一十五歳という若さだった。到着して数日後、 おそらくはその抱え娼婦を奪われた娼館主か嬪夫のしわざなのだろう、ハウスの一隅に強力なダ しかし彼女はひるむことなく、無力な イナマイトが仕掛けられるという凶悪な事件が起った・、、 つるギ、 性の奴隷たちを救うための剣なきたたかいを開始したのである。 つばめ じんそく 彼女は迅速でしかも勇敢だったーーーあたかも、群なす大鷲のあいだを縫って翔ぶ燕のごとくに。 鼻薬を嗅がされているためあまり頼りにならない警官を連れて娼館街へ乗り込み、正規のパスポ ートを持っていない女たちゃあきらかに未成年の娘たちーーアメリカの法律が保護を命じている アジア人女性たちを救出したときは、悪知恵はたらく嬪夫たちと追いっ追われつの大立ち回りを 演じなくてはならなかった。また、秘密の知らせを受けてサクラメント市で少女を救出したとき には、扉を開けた馬車を表通りに待たせて置き、さりげなく娼館に入って目印の品を持った少女 を見つけるや否や馬車に駆けこみ、ひた走りに馬車を走らせてホテルに帰着。その晩、「ポート で逃がしてあげよう」という親切な男があらわれたが、これがどうやら娼館側の回し者らしく、 そこで彼女は誘いに応ずるとみせてこれを出し抜き、・馬車を駆ってようやくサンフランシスコへ 戻って来ることができたのだった
そらくは札東をちらっかせるか身に着けた金の指輪を誇示するかして、「アメリカへ行きさえす れば、ほんの一、二年であなたも大金持になることができ、親御さんに孝行ができますよ」と言 更に「夫にあてて手紙を書いたので、これを持ってお出でなさい。そうすれば万事うまく取 りはからってくれるはずだから」と親切に言われると、彼女はすっかり嬉しくなり、勇躍してア 月日は不詳だが明治二十九年か三十年、いわゆる メリカ行きの汽船へ乗りこんだのである。 日清戦争が終って間もなく、三国干渉によって日本が大揺れに揺れている頃のことであった。 十歳も 茫洋たる太平洋を西から東へ向かう船の上で、わかは、内心にこう叫びつづけた。 年上でしかも守銭奴の夫よ、妻のわたしよりもお金のほうが幾倍も大事だった七治良よ、さよう なら。あなたはわたしの兄を助けてくれなかったけれど、このわたしが、メリケンで働いてお金 を送って、美事に実家を建てなおしてみせます。日本では「女だから」とさげすまれているわたしで すが、メリケンでは誰もが女に親切だそうだし、この大きくて丈夫な体で小間使いをして一所懸命 に働き、いまにかならす、あなたよりももっとお金持になって久里浜へ帰ってみせますからね しかしながら、わかの純真なこの願いは、アメリカへ着くと同時に、それこそ徴塵に打ち砕か れなくてはならなかった。「もう十五、六年も米国に居て確実に地位を固めた日本人成功者」の ぜげん 花「夫人」 , ーーすなわちおんな女衒の言った言葉は、一から十まですべて嘘であって、彼女は、ア 歳メリカの土を踏むや否や、待ち構えていたおんな女衒の仲間どもの手にかかり、娼婦として売り 十とばされてしまったからである。 東南アジアへ流れ出たからゆきさんたちの大半が、「南洋へ行けば、女中として良い給金が取
絶は、飛だ世なれぬ幼な妻には、夫の自分に寄せる愛情の薄さとしか感じられず、この事件を契 機として彼女の心は七治良より急速に離れ、離れたその分だけ実家の浅葉家へ、浅葉家を支えよ さいしん うと砕心している長兄の福太郎ヘー , ーと傾いて行ったのである。 ここに至ってわたしは、わか自身をして語らしめたいと思う。彼女は、個人誌「婦人と新社 会」第百十五号 ( 昭和四年一〇月 ) に発表した感想「三十有余年前」において、その時の自分の 気持を次のように記しているのである 〈崩れかかった旧家ーーー農を業とするー・ーーの屋台骨を共の双肩に担って、倒してはならないと うめいてゐる家兄のゲッソリやつれた顔を見た時に、私はたまらなく淋しい気持ちに襲はれた。 そして、兄に対する同情が燃え上がって行った。 先祖伝来のあちらの山を売り、こちらの田畑を人手に渡し、残った分のいくらか ! せめて 其れだけは兄の手に握らせて置かなければ、大きな家族の生活を支へることが出来ない。にも 拘ず、それさへも、ともすれば危い状態に陥らうとしてゐた。村で評判になってゐる程恵ま れた強大な体格、立派な顔にやつれが見えて来るのも無理はなかった。 かなり大きな が、幾分残った田畑を兄の手にシッカと握らせて家族の生活を保証するには、 額の金を要した。私は自分の持ってゐる実力に付ては考へても見ずに、兄の重荷の一半を自分 の肩に背負はふと思った。そして、いよいよさうと決心した時に、自分と云ふ者に何やら価値 が出たやうな、生き甲斐があるやうな気持ちを味はふことが出来た。〉
犠牲になった」ものにはかならなかったのである。 このように見て来れば、次には当然、それでは、わかを十六歳の花嫁に仕立て上げた「一家の 都合」とは何だったのかということが問われなくてはならないが、それは、「おみよの実家」 浅葉家が「残り少なの田地まで売ろうと云ふ逆境に陥った」ことであった。この浅葉家の経 済的危機はわかの残した他の文章からも裏づけられるので、たとえば彼女が「青鞜」第六巻第一 号 ( 大正三年一月 ) に書いた感想「自分と周囲」や評論集『社会に額づく女』におさめた「女学 るじゅっ 校へ行かれぬ諸嬢に」などには、村の財産家の一軒であった彼女の実家の窮迫ぶりが縷述されて いる。そして彼女の父や母は、わが娘を愛していなかったわけではないだろうが、小資産家の七 治良と親戚になったなら経済的に助けてもらえるかもしれないと計算もすれば期待もして、ほん の小娘のわかを彼に縁づけたのであった。 かくしてわかと結婚した七治良が、浅葉家の人びとの望みどおりに援助の手を差し伸べてくれ たならば、おそらくわかは、いつまでも七治良の妻の座に着いていたであろう。わかに取って、 あか 七治良がその衰退した実家を肩入れしてくれることは、すなわち彼の彼女にたいする愛情の証し にほかならず、十六歳の純情な花嫁は、みずからに寄せてくれる夫の愛情さえあればほかには何 も要らなかったと思われるからだ。 ト説「女郎花」でわかが断定しているとおり、 だが、残念ながら夫の七治良は、さきに引いた ( 三 「金を貯めると云ふ事が生涯の目的、其の仕事の全部」であり、「金銭の前には眼中何物もない」 人物でしかなかった。浅葉家よりは、わかが縁づいてから一、二年のあいだに経済的援助の懇願
話者としての「おきわ」すなわち〈わか〉であるのみならす、「八十治」の妻たる「おみよ」もま た〈わか〉の分身だとしなくてはならないのである。 この「女郎花」に露呈しているかぎりで言うならば、わかが荒木七治良と結婚した理由と七治 良の人となりとは、以下のごときものであった。作中の「おみよ」が〈わか〉であり、「八十治」 が〈七治良〉にほかならぬことを附記して原文を引くとすれば 〈実際、おみよの此家へ嫁いだのは彼女が未だ十六の年であった。田舎育ちの初心な小娘は、 一家の都合やおせつかいな親類達の犠牲になって、其のふくよかな、柔かい、世の中に経験の ない手を、ゴッゴッした、こはい大きな手に握られた。握った其の人は、九歳か十歳の時父親 いちもんあきな に死に別れ、十三四歳から一文商ひをして母親を養って、遂に町内で一二を争ふほどの資産家 とまで成上った勤倹家であった。全く、金を貯めると云ふ事が此の人の生涯の目的、共の仕事 の全部で、金銭の前には彼の眼中何物もなかった。若い者は盗人の用心にならないからと云っ て、夫婦別々に一人は店へ一人は倉の二階へ寝たり、又おみよの実家が残り少なの田地まで売 ろうと云ふ逆境に陥って、親類が皆集って善後策を講じて居た時、もし金の相談でも持ちかけ 、と云ふ態度を示して居た。〉 るやうなら、二十年近くも連れ添ふた妻を離縁してもいし しかし、そ、ついう人にしばしば見られる 花七治良は逆境より身を起こした小資産家であったが、 歳ような「勤倹家」、「金を貯めると云ふ事が生涯の目的」となり終っている人であった。つまり端 しゅせんど わ的に言えば守銭奴であり、そしてわかがそういう人と結婚したのは、決して彼女の自由な判断と 意思によるものでなく、田舎育ちの十六歳という初心を、「一家の都合やおせつかいな親類達の うぶ
来の条件を切り捨てて堕胎を否とする考えのみを抽出すれば、その典型は法律学者の穂積重遠の それであったと思われる。すなわち彼は言う 〈この場合は異常な不幸なことではあるが、既に母胎には生命が出来てゐる。現在の法律では、 その子供を産むことが母体の生命に関するといふ以外は、堕胎して胎児の生命を断っことは許 されぬ。或る人があって、その人が家庭に迷惑をかけやうが、又不具であらうが、その人の生 命を断っことは許されぬと同様である。ただ、この場合、身に余って堕胎した時には、裁判官 しゃ′、り・よう は情状酌量するではあらうが、それだからといって堕胎する事はよくない。又、この様な特 例の場合を考へて法律を改正する事は、悪用される恐れが多分にあるから、法律を改むる必要 故に、今となっては、速かに相手の男にその事実を伝へるべきである。相手の人は、一度 たとえ 「僕に対する節操を失ったのではない、不慮の災難だ」といって許してゐる以上は、仮令妊娠 したとて許すのが当然の事である。若しこれが許せないならば、如何なる事情にもしろ、他の 育男と関係した事を許してはならないはずであった。故に、速かに相手に伝へると共に、子供を ん産み、それを、育てるに当っては、家庭においては都合が悪ければ他の方法によって育てると か、改めて考へるべきである。〉 子 の さきにも触れたごとくこの時代は、如何なる理由があろうとも堕胎は刑法の対象でしかなかっ 姦 きようさ まうじよ 強たから、菊池寛の意見は堕胎教唆または助になりかねず、それなのに敢然と発言したのは、さ すがに自由人だと賞揚しなくてはならないだろう。そして今日のわたしたちの良識からすれば、