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検索対象: あめゆきさんの歌
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1. あめゆきさんの歌

192 なんめい んなにもたくさん翻訳したのは、南溟のかなたに住むこの女流思想家の詩的ェッセイが、思想的 にも思惟の形においても更にまた語学力に関しても、当時のわかの心的実情にもっとも近かった からであったと思われる。 しかしわかは、いつまでもこの詩的思想家の作品の翻訳のみに低迷してはいなかった。翻訳の 対象をアメリカの社会学者ウォードの論文「女子の教育について」 ( 五巻四号・大正四年四月 ) や エレンⅡケイの「児童の世紀」 ( 五巻七号 ~ 六巻二号・大正四年七月 ~ 五年二月 ) などにひろげる おみなえし とともに、「女郎花」 ( 四巻一一号・大正三年一一月 ) や「虎さん」 ( 五巻二号・大正四年二月 ) と いう小説を書き、更に「堕胎について」 ( 五巻八号・大正四年八月 ) 、「恋愛の自由と本能」 ( 同一 〇号・同年一〇月 ) 、「自分と周囲」 ( 六巻一号・大正五年一月 ) などといった感想・評論を発表 するようになって行ったのである。 「青鞜」誌上においてこのように多様な文章活動をはじめた山田わかの名は、当然ながら、ジャ ーナリズムの大いに注目するところとなった。あらためて述べるまでもなく、生田長江が名づけ たという「青鞜」の運動の本質は、西欧社会のいわゆる〈プルーⅡストッキング〉運動ーーすな わち近代的女権拡張運動の日本版であったのだが、しかし当時のジャーナリズムはこれを風俗の ーに〈新しい女〉の名を冠して現象的側面だけを興味本位に喧伝し 次元であっかい、そのメン・ハ た。たとえば、〈新しい女〉は女だてらに吉原へ行き、加えてこれまた、女だてらにパーで五色 くーは、女性解放問題について心もあ の酒を飲むーーーといったふうに。したがって青鞜社のメンノ り学識もある人びとかあはあたたかに、ジャーナリズムを含む世間一般からは半ばの期待と半ば

2. あめゆきさんの歌

名な〈母性主義論争〉において明瞭であると言ってよいのである。 近代日本の女性史に特筆大書されているこの母性主義論争は、一般には大正七年の四月、与謝 野晶子が「婦人公論」に書いた感想「紫影録」にたいし、平塚らいてうが同誌五月号に「母性保 護の思想は依頼主義か」という反論を寄せた時にはじまるとされているが、しかし管見では、そ しよせん れより二年前の大正五年に早くも緒戦がたたかわれている。すなわち、晶子が雑誌「太陽」の大 正五年二月号発表の「一人の女の手紙」で、近年評判になって来たトルストイとエレン日ケイの 思想を批判したのにたいして、これを読んだらいてうが「母性の主張」を書いて晶子の女性論的 なあやまりを指摘したのである。その頃、大正八年に新潮社より刊行されることとなるエレン日 ケイの『母性の復興』の翻訳に取り組んでいたらいてうは、母性保護に志薄い晶子の考えをエレ ンⅡケイの誤読によるものと見、そのいわば啓蒙のために筆を執ったのであった。 だかららいてうは、「母性の主張」を読んで晶子がエレン日ケイの正当な理解に達し、そこか ら母性の社会的保護への深い関心に進んでくれるものとひそかに期待したのだったが、大正七年 人の春、晶子の「紫影録」ーーのちに「女子の徹底した独立」と改題して感想集『若き友へ』 ( 大 ゅ正七年・白水社 ) におさめられたエッセイが発表されるにおよんで、期待の空しか 0 たことを知 くらなくてはならなかった。そこでらいてうは、晶子にあてて「母性保護の主張は依頼主義か」を な 執筆、それでも足りないと見て、「母性保護の問題に就て ( 再び与謝野晶子氏に寄す ) 」 ( 「婦人公論」 限 八月号 ) を書き、更に「現代家庭婦人の悩み」 ( 「婦人公論」大正八年一月号 ) という一篇を綴っ た。むろん晶子も黙ってはおらず、「平塚さんと私の論争」 ( 「太陽」六月号 ) 、「平塚・山川・山

3. あめゆきさんの歌

るが、いかに中等教育の盛んになりかけた大正期だとはいえ、これらを正当に読んでくれる読者 の多数あるはずはなかったのである。 だが、短かった大正期が過ぎて昭和初年代に入ると、山田わかという名前は、少数の知識階層 つつうらうら の域から脱して、それこそ全国の津々浦々にまでも知られるようになって行く。そしてそのよう になったについては、大正期このかた女流評論家として筆を執りつづけて来たというキャリアの 故もあったろうけれど、それにからんで、彼女が「東京朝日新聞」の家庭欄に新設された「女性 相談」欄の回答者に選ばれたという事実が大きく作用していると思わざるを得ないのだ。 思想の科学研究会が編んだ『身上相談』 ( 昭和三一年・河出書房 ) という書物によるならば、 いわゆる〈身上相談〉のあらわれた最初は明治十三年二月創刊の「交詢雑誌」だということだが、 以来ジャーナリズムの発達につれて盛んとなり、大正期には新聞の多くが身上相談欄を設けるに 至っこ。し 読者よりその悩んでいるさまざまな問題を具体的に打ち明けてもらい、それについて著 かいちん 名人が意見を開陳するという身上相談欄は、しばしば常識では考えられない奇怪でセンシュアル な問いが寄せられ、しかもそれが架空の話ではなくて事実だということから来るインバグトのた め、新聞の読者拡大のもっとも有利な武器だったのである。 ばくたく そういうなかで「東京朝日新聞」は、風俗的な興味に棹さす新聞ではなくて社会の木鐸である という誇りから身上相談などは見向きもしなかったのだけれど、昭和初年に入ると孤高を守って もいられなくなった。そして昭和六年五月一日附の紙面より「女性相談」欄を新設し、悩み迷う 女性たちに助言することとしたのだったが、その際回答者として選ばれたのが、ひとりは小説家

4. あめゆきさんの歌

で、かうすることは婦人の尊厳を傷つけるどころか母としての婦人の正当な社会的地位を認めし めることになるのです」と。そして更に加えてこうも言うのだーー「女子の経済的独立は、母性 が保護され、子供を生み且っ育てるといふことが公的事業となり、国家が母親に充分な報酬を支 払ふやうにならなければ到底成り立たないことであり、又斯くなることに依ってのみ、婦人をし て家庭生活と職業生活との間に起る苦しい矛盾から脱却させることもできるので、私から見れば、 母性の保護こそ女子の経済的独立を完全に実現する唯一の道」にほかならないと。 これらにたいする新人評論家としての山川菊栄の意見は、社会主義的な視点より母性保護論の しよ、フ 止揚をめざしたものであった と言ってよいだろう。のちに「母性保護と経済的独立」と改題 して評論集『現代生活と婦人』 ( 大正八年・叢文閣 ) におさめられたエッセイ「与謝野・平塚二 氏の論争」において、菊栄は、晶子の意見を「プルジョアジーに出発してプルジョアジーに終っ て居るもの」と批判する一方、らいてうの母性保護論を古典的女権論の修正としてあらわれたケ イの日本版にすぎないとし、その本質は、〈社会政策〉を是とする妥協的な思想であると指摘する。 人そうして最後に、彼女は、母性問題を含む女性問題の根本的な解決は、「現在の経済関係てふ根 の 本的原因の絶滅に依る外、実現の道はない」と強く主張して止まないのである。 性 母 以上、晶子・らいてう・菊栄という三人の母性保護に関する考えを眺めて来て、さて、いよい な よ山田わかのそれについて記す段に立ち至ったわけであるが、彼女の母性主義思想のアウトライ 限ンは、彼女がこの論争に加わって最初に書いた「母性保護問題 ( 与謝野氏と平塚氏の所論に就 て ) 」にもっともよく一小されていると一一一一口うことができる。

5. あめゆきさんの歌

つまりそ その答えは、簡単にして且つあまりにも明瞭だと言わなくてはならないだろう。 れは、女流評論家として活躍しているあいだじゅう、彼女のかたわらに余人ならぬ山田嘉吉がい たからである。 わたしは、かって市川房枝さんのして下さった話の一節を思い出さぬわけには行かない。大正 八年の夏、講演のため名古屋へ行って泊ったとき、わかは、月見草のいつばいに咲く川沿いの宿 で平塚らいてうにそのシアトル時代の生活を打ち明けたが、そのあとに附け加えて言ったという。 「わたしは構わないのだけれど、わたしがこういう話をするのを、お父さんはひどく嫌がる のよ。ですから、わたしがあなたに昔の話をしたってこと、お父さんには内緒にして置いてくだ さいね」と。 この世界全体が政治的にも経済的にもそして階層的にも完全に解放されたあかっきには、事物 の私有ということはなくなり、男性と女性のあいだの愛情も〈所有関係〉をきれいに払拭、理の 当然として売春も買春も消滅し、自分のつれあいの性的過去にこだわるなどという馬鹿々々しい 人間感情も薄れて行くにちがいない。しかし、近代の日本は政治的・経済的・階層的に抑圧と被 しつ・一く 薔抑圧とを基本として成り立っている社会であり、明治・大正期においては、その桎梏は今日と比 マ べものにならぬほど強かった。そして山田嘉吉は、長くアメリカ社会に生活したとはいうものの ル コ やはり近代日本人のひとりであり、日本男性の一般レベルよりすればその女性観において格段に 抜きん出てはいても、愛情の所有関係の感情から完全には自由になっていなかった。したがって

6. あめゆきさんの歌

計り各自天賦の特性を発揮せしめ他日女流の天才を生まむ事を目的とす」と記されていた第一 は、「本社は女子の覚醒を促し、各自の天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事宀 目的とす」と修正。また、「本社の目的に賛同したる女流文学者将来女流文学者たらんとする土 及び文学愛好の女子は人種を問はず社員とす」とあった第五条は、「社員は本社の目的に賛同亠 るのみならず本社の事業を自己の生命とするもの」と規定する第十二条と、「社員たらむこと 希望する者は住所、姓名、年齢の外に履歴の大体と現在の境遇と入社の動機に十枚以上の原 ( 小説、戯曲、感想、詩歌、評論、翻訳、いずれにてもよろし ) と最近の写真とを添へ本社宛宀 し込まるべし」とする第十三条とに分割されたのである。 第一目的を「女流文学の発達」から「女子の覚醒」に変えたのは、百八十度とは言わないま一 も九十度くらいの転換だが、そうした青鞜社にとってみれば、女性問題についての評論を書き いと望む山田わかの出現はありがたいことであった。その上、すでに誌上に載った翻訳「三つ ( 夢」は、「入社の動機」として「十枚以上の原稿」を提出すべしという箇条を満しており、そ , しでわかは、ただちに青鞜社への参加を許されたのであったろうか。 員かくして青鞜社のメン・ハーのひとりとなった山田わかは、それより、「青鞜」誌上で活漫に の事をしはじめる。「三つの夢」発表号の次号にあたる第三巻十二号 ( 大正二年一二月 ) に早くも和 鞜訳「生の神の賜」 ( シュライネル ) を発表したのを手はじめとして、以後しばらくのあいだ、氤 喜の失踪」 ( 四巻六号 ) 、「芸術家の秘密」 ( 同七号 ) 、「猟人」 ( 同九 ~ 一〇号 ) 、「荒れたる礼拝堂 ( 五巻一号 ) 、といったようにシュライネルの翻訳をつづけた。他の人の訳さぬシュライネルを ,

7. あめゆきさんの歌

では行かないが、まあ、それに近い見掛けでした。歳下のおわかさんのほうが、「お父さん、お 父さん」と言っては嘉吉先生に甘えてましたが、嘉吉先生が歳を取られたら、今度はおわかさん のほうが親のような恰好になって来たから面白いねえ。 ひんばん 嘉吉先生の晩年のことは別として、わたしが頻繁に出入りさせてもらってた大正時代のことで 話すと、嘉吉先生、おわかさんのことが心配で心配で、自分の眼のとどかないところへ出せない んだね。 あれは大正八年の夏だったか、前にわたしの勤めていた名古屋新聞が、「夏期婦人 講習会を開きたいから、山田わか・平塚らいてう両氏に講演を頼んでほしい」とわたしに言って 来た。そこで話の橋渡しをしたんだが、嘉吉先生、心配で心配でおわかさんを出すことができな とどのつまり、「どうしても と言うんなら、房枝さん、あんたがおわかに附いて行って ください。それなら講演を引き受けさせましよう」ということになって、わたしも一緒に行きま ちゃぶだい した。そして名古屋の宿へ着いたら、おわかさんが卓袱台に向かって何かごそごそやってるので、 見たら電報頼信紙に書きつけてるんだ 「プジツイタアンシンセョ」式のをね。 ついでだけれども言っとけば、この名古屋でのそれが、おわかさんもらいてうさんも講演とい うものをした最初ですよ。おわかさんは、「はじめてで自信がないからーー . 」というので、書い て来た原稿を読み上げたに近い講演だったし、らいてうさんも確かそうだったが、らいてうさん のは声が小さすぎて聴衆にはほとんど聞き取れなかった。それが、慣れというものは大したもの で、昭和期に入るとおわかさん、雄弁とは言えないけれども、しかし座談ふうの講演では名手と 評判を取るようになるんだからねえ。

8. あめゆきさんの歌

となり、その習いは曙生が女学校を卒業するまでつづいたという。 徳永先生のしてくださったこの話は、わたしの興味を異常にそそった。わたしが幼児教育の歴 史に取り組んだそもそもの動機は、幼い子どもをかかえた〈母としての女性〉には〈父としての 男性〉のような自由がないという社会史的事実に由来する焦燥にあったから、日本の幼児保育史 そのものと言ってさしつかえない徳永先生が日本の女性解放運動の象徴である平塚らいてうと交 叉したこのエビソードに、わたしは深く心惹かれざるを得なかったのだ。そしてわたしは、その 形こそ異なれ近代日本の女性史に大きな足跡を印したふたりの女性の交叉のドラマを偲ぶべく それから旬日を措かず、旧四谷左門町より鮫ケ橋町周辺にかけて歩き回ったのであった。 何分にも十年以上も以前のことであり、その時どの道筋をどの方角に向かって歩いたのかはす でに忘れていたけれど、しかしわたしの意識下の記憶は、このあたりが、かってわたしの行きっ 戻りつした街にほかならぬことを確信していた。ああ、あの日、徳永先生とらいてうとの心のふ もとお れ合いを偲んで通ったこの街が、現在わたしの追い求めてやまぬ山田嘉吉・わか夫妻の長く居住 していた街でもあったとはー わたしはその偶然に驚いたが しかし実を言えばそれは偶然ではなかったのだ。というのは、 その夜、家に帰って大正期の女性解放運動関係の資料をあらためて調べてみて分ったところでは、 平塚らいてうが大正初期に住んでいた場所は四谷区南伊賀町四十二番地ーーーすなわち山田嘉吉・ わか夫妻の家の裏隣りであり、しかも彼女がそこに住まったのはわかの紹介によるものだったか らである。そして、山田わかの女流評論家としてのスタートはらいてうをリーダーとする雑誌

9. あめゆきさんの歌

そういう物持ちの家が、あっと言う間に傾いでしまうんだから、浮世というものは儚ねえし又 おっかねえもんだ。どうしてそんなになったんだか、わしや知らねえが、たんばや山を切り売り 切り売りしてったんだろ。このあたりを歩いて訊いてみなさりや、「この田は、むかし森の家の だった」「この山もそうだった」というのが多いだよ。 わか女史の小さい頃の話は、わしも知っちゃいないねえ。知ってるのはわしの親父だが、 もう二十年も前に墓場ん中だ。 しかし、親父から聞いたところだと、わか女史は、わし等の 出た久里浜小学校しか出ちゃいないという話だったね。尋常しか卒業しねえで、それで女でいな がら評論家つう先生になって、新聞や雑誌に名前や写真が出てたんだから、偉いもんですよ。 わしがかすかにおばえているのは、わか女史が旦那の先生と一緒に森の家へ来ていたときのこ とだね。ありやア時頃だったのかなーーわしが未だ尋常の一年か二年の時分だから、明治の末 年か大正の初めでしたろう。森の家に、何でもメリケン帰りだちゅう女が来ていて、餓鬼仲間で あかなす うわさしたのをおばえてるんだ。どういううわさかと言うと、それが赤茄子なんだね。 ばあさんれん 赤茄子なんて言葉、おまえ様も知りますまいが、この久村の者だって、今となりやもう婆様連 しか知っちゃいないな。つまりトマトのことなんで、明治の末だか大正の初めだかにここへも入 花って来て、東京へ出すと高く売れるというんで畑へ作りはじめたのは良いが、あの臭味が鼻をつ 歳いて誰も喜んで食う者はない。そこへ、どこからともなく、「赤茄子は気違い茄子だ。食うと狂 わい死するそうだ」という話が流れて来たから、子どものわしらは、「赤茄子、馬鹿茄子、気違し 茄子」とどなってトマト畑へは近寄りもしなかった。ところが、森の家へ来ていたメリケン帰り

10. あめゆきさんの歌

めてきており、近代日本の女流評論家や女性解放運動家たちの著書もひととおりは集めてあって、 山田わかの著書も、その処女評論集『恋愛の社会的意義』 ( 大正九年・東洋出版社 ) をはじめ五 冊ほどを持っていた。けれど、彼女の著書はそのほかにもまだまだ沢山あるにちがいないし、研 究文献だってあるにちがいなく、わたしはそれらを古書店と図書館とに求めたのだが、そのいす れにも失望を味わわなくてはならなかったのである。 東京の神田神保町は、古書店が数十軒ひとつの通りに文字どおり庇をならべていることで世界 的に有名な町だが、そこを軒なみに捜しても、ほとんど彼女の著書は見あたらない。たまたま書 棚の一隅に〈山田わか〉の名を発見し、心をおどらせて手に取ってみると、それはすでにわたし の所持しているものでしかなかった。そして一方図書館ではどうであったかといえば、蔵書票を いくら丹念に調べても山田わかの著書やその研究文献は皆無に等しく、困りはてたすえ閲覧相談 員に彼女の名を告げても、はかばかしい反応がないのである。大正期には「青鞜」のメン・ハーの 有力なひとりとして知られ、昭和戦前期には数百万の読者を誇る「朝日新聞」の身上相談欄回答 者として絶大の人気を得ていた山田わかにして、「去る者、日々に疎し」でしかないのであろう さそれでもわたしは、なお数冊のわかの著書と、彼女について綴られた幾篇かの文献とを入手す 房ることができて、あたかも海綿が水を吸うようないきおいで読破した。近代日本のいわゆる私小 刺説作家の著作であれば、それを通読することによって、著者の思想はもちろんその生い立ちや家 族・郷党関係に至るまでわかってしまうのだが、一般的に評論家の著作にはそのようなことは望 さが ひさし