誕生を迎えたばかりの子どもですし、その子が「お前を慕って日夜泣いている」と言われますと、 それこそ身を切られる思いで、結局わたしは、子どもに惹かれて夫のところへ帰ったのです。 山田先生夫妻にいとまを告げて、いざ、下駄を履こうとしますと、わか先生がわたしに「とよ さん、もしも、また出て来るようなことがあっても、ほかへは行かないで、かならずここへ来る のですよーーー」と耳打ちされたのは、本当に嬉しゅうございました。もっともっと追い詰められ たとしても、わたしには行く家があるーーーそう思えることは、行き詰って眼の前が真っ暗な人間 にとって、それこそ大きな救いなんです。わか先生は、そういう本当に追い詰められている者の 胸の裡をよくよく知っておられて、さりげないかたちで救いの綱を投げかけられるというお方で こんなふうにしてわたしは夫の家へ帰ったのですが、夫の生活態度は依然として改まらず、結 婚生活はどうしてもうまく行きません。四年たって二十六歳になったとき、わたしはふたたび決 心して、今度は子どもを連れて家出をし、わか先生のもとへ駈けこみました。江戸時代には駈け 人こみ寺というのがあったと聞きますが、わか先生は、わたしに取っての駈けこみ寺だったと言っ の 2 たらよいのかもしれませんね、山崎さん。 母 予測していたとおり今度も夫が連れ戻しに参りましたが、わたしは死ぬか生きるかですから、 な 絶対に首を縦に振りません。すると夫は、「それなら、子どもはお前の子ではなくておれの家の 限 子なのだから、法律にかけてでも連れて帰る」と申します。何としても尊敬できない夫のもとへ 帰るか子どもと別れるか、二つにひとつを取らなくてはならなくなった人間の胸の苦しさを、山
崎さん、あなたは御存知ですか。そうして、夜の眼も眠らずに悩みぬいた末、わたしは、わが身 を分けて生んだ子を手放すことにしたのです ! 夫が子どもを連れて神一尸に帰った日の夕方、わたしは台所で立ち働きながら、泣けて来て泣け て来てどうしようもありませんでした。それまでも、この子と一緒に暮らせないのかと思うと悲 しくて泣いていたのに、それが現実となった今、咽喉の奥から、それこそ心臓まで飛び出してし おえっ まうのではあるまいかと思われるような嗚咽がこみ上げて来て、何としても止まりません。山田 先生夫妻や一緒に暮らしている人たちの手前、そしてまた近所の人たちの手前を思うのですけれ ど、自分で自分を押さえることができないのです。 そうすると、そこへわか先生が出て来られて、わたしにタオルを渡されて、あのふくよかな体 へわたしを引き寄せて、背中を幾度も幾度も撫でさすりながら、「泣きなさい、泣きなさい、 」と言われるのです。わか先生からそう言われますと、わたしの心の奥 う存分に泣きなさい 底には、「あ、わか先生は御自分では子どもを生んでおられないけれど、子どもと別れた母親の 」という思いが湧き出てきました。そして、わたしの悲しみ 気持がよくお分りになるのだな を先生にわかっていただけたと思うと、何だか安心できるものがあって、それでわたしは立ちな おることができたのだと思うのです しかし、このように親切にしていただいたのは、決してわたしだけではございません。わか先 生は、女や子どもであれば誰にでもああいう優しい態度を取られたので、そのことは、長く山田 家に暮らしたわたしがこの眼で直かに見て知っております。
の女だけは、その赤茄子を、平気どころかとても旨そうに食うというんだね。それで子ども、いに 肝をつぶして、いまだにおばえているわけだが、あれが山田わか女史だったんだねえ。 わか女史、洋服を着ていなかったか と言いなさるのかね。 しいや、洋服じやアなくて着物 かむっているも じゃった。わしら、子どもじゃったから、メリケン帰りは男も女も洋服に、ツト のと思っていたのに、わか女史、裾ひらひらのスカートどころか、うちの母ちゃんと似たり寄っ たりの地味な着物を着ていたので、期待はずれで妙な気がした。うつかり道で行き合うと、英語 でべらべらと話しかけられそうな気がして、もし話しかけられたらどうしようかと思うと胸がと どろいて来てどうしようもなく、畑道を走って逃げ出したんだから、はは、昔の子どもは純情な もんだったよ わか女史、アメリカではずいぶん苦労したんだと親父から聞かされたことがあるが、どういう ことだったんですかなあ。何でも、日本で言えば吉原のようなところにもいたことがあるーーーと、 これは親父からでなくて誰かほかの人から聞いたことがあるが、本当なのか嘘なのかわしは知ら まあ、わしが山田わか女史について知ってるのはこれくらいで、さっきも言ったとおり村の年 寄りはみんな死に絶えてしまったから、もう、この久村じゃあこれ以上のことは分りますまい もっともっと知りたかろうが、お気の毒でしたのう。 秋ももう末じゃし、日が落ちるとすぐ暗くなるで、気をつけて早くお帰んなされよ。もっとも、 東京から小さな汽船で久里浜の桟橋へ上るしか道のなかったわし等の餓鬼時分とちがって、今は きも 二 1 ロ
らぬ女〉である。いや、〈みごもらぬ女〉だと言っては正しくないので、精確には、〈みごもれぬ と言うべきであろう。妊娠しては困るので娼館主が不妊の手だてを 女〉一になってしまうのだ 講ずるのだとも聞けば、また、不特定多数の男性との限度を越えた接触でさまざまな病菌をうつ され、その結果そうなづてしまうのだとも聞くけれど、いずれにせよ売春は、それにたずさわっ た女性たちの多くを〈生むことのできぬ女〉としてしまうのである。そして山田わかも、また、 そうした女性たちのひとりであったのだー 遠く太平洋を東へ渡って雪のシアトルにいた七年の歳月、わかは、言ってみれば夜ごと強姦の されつづけだった。そういう彼女だからして、心ならず盗賊に姦されてしまった娘の重たい悩み や、そのような体験を心身に刻んでいたまさにその故に、 を理解できなかったわけではない。い その娘の苦しみを、世の一般の人よりもはるかに深く諒解したにちがいないと思われる。 また彼女は、その良識によって、盗賊の強姦によりみごもった子どもを生んで育てるというこ よ 育とがどのような事態を結果するかについても、むろん想像しなか「たわけではないだろう。愛人 んだという青年はこの娘との結婚を取り止めることが予想されるし、よしんば彼女への信愛を変え 生 ず結婚に踏み切ったとしても、人間はそれはど強いものではないから、青年が、わが子ならぬわ いつく のが子をみずから愛し、またその子を慈しむ妻を心底から受け容れられるものかどうかも危ぶまれ れんごく 強る。そして、娘と青年とがよくその煉獄に耐えたとしても、口さがない世間のうわさなどから万 一子どもがその出生の秘密を知ってしまったような場合、そこに新たな悲劇の惹起されないとい
の内のどこかの会社へっとめていましたが、あとで子どもの多い人の後妻に行き、間もなくそ ( 人が亡くな 0 たのに、その大勢の子どもたちを立派に育て上げた人で、偉い方だ 0 たと今もわ しは思っています。 本来ならふたりの家族が、これでもう七人にもなりますのに、その上へ男三人、女四人の寄宙 そのうちのひとりは、ほかでもありません、このわたしなので十 者がありましたのですよ。 けれど。 ざっと申しますと、男の三人はいずれも学生さんでして、学資がなか 0 たり下宿がなかったい 何か事情があるとかい「たような人を預か 0 て、学校へ通わせていたのですね。学校の授業料→ で嘉吉・わか先生が払「ていたのかどうかは今日まで遂に存じませんが、部屋代だの食事だの。 いうものは、わたしの場合とおんなじで、先生は一銭も受けておられません。この三人の学生 ~ んのうち、ひとりは確か嘉吉先生の甥で山田武雄さんといい、早稲田大学の大学院に行 0 てお【 れ、ひとりは池田文男さんといい、東京帝国大学の法科へ通「ておられ、わたしにはよく分り《 人せんが宇宙航法とやらの権威で、今はたしか専修大学の教授をしておられるはず。そしていま ( の とりは、苗字を吉田さんとい 0 たと思いますが、中央大学に通 0 ていて、卒業後はどういう伝 性 リーニング業界に入り、現在はグリーニング協会の理事か何かして活躍されてい「 くからですかグ はずです。 限 この男一 = 人に対しまして女四人の方は、鈴木みつ子さんに岡田冬子さん、どうしても苗字を い出せませんがよし子さん、そして終りのひとりがこのわたしです。わたしがどういう事情で」
その事件というのは、父の弥平治と母のミヱが、わかを尋常小学校より上の学校にはやらない と決めたことである。「百姓の女は、自分の名さえ書ければそれで良いもんじゃ。それ以上 の学問をさせると、碌なことにならん」というのが、父母のわかを高等小学校へ進ませない理由 であった。 だれかれ 遊び仲間の誰彼が高等小学校へ進むのに自分は進めないと知ったわかは、「おれも高等へ行き 」と泣いて父母に哀願し たい。三度のまんまを二度に減らしてもいいから、高等へ行きたい しかし父も母も取り合ってはくれなかった。父は「子ども心であんなことを一一一口うので、直 きに忘れる」と言い、母は「高等へ出さない代わり、お針を習わしてやるから」とわかを慰め、 それでわかの希望は完全に圧殺されてしまったのである。 第二次世界大戦後の今日でこそ、小学校六年に加えて中学校三年までが義務教育となっている が、近代国民教育がスタートしたときの義務教育は下等小学四年のみであった。明治十九年すな わちわかが小学校へ入学した年に、新たな「小学校令」が制定されて国民教育のいっそうの近代 化がはかられたが、しかも義務教育は、四年制の尋常小学校と同じく四年制の高等小学校のうち、 前者だけに限られていたのである。だから世の親たちは、子どもを尋常小学校へはやらなくては ならないが、高等小学校へは上げても上げなくてもよいわけで、わかの父母はその後の方の道を 選んだのであった。 かくして高等小学校への望みを断たれたわかは、それからの幾年かを、子守りと田畑の仕事と
222 なお、これはわたしの実地に見たことではありませんで、遠い昔の話として耳にしただけのも のですけれども、民郎さん・おこま奥さんが小さいときの山田家には、もうひとり、引き取って 育てていた子どもがあったとのことです。その子は〈しんちゃん〉という名だったそうですが、 どういう漢字を書くのか聞きませんでしたから、〈新ちゃん〉なのか〈信ちゃん〉なのかわかり ません。山田家のアルバムに写真があったので見ましたが、いかにもアメリカからやって来た男 の子らしく、色が白くて、髪をおかつばにしていて、とてもかわいらしく写っていました。何で も、嘉吉先生がサンフランシスコで親しかった友達の子どもさんだったと申します。 お父さんが結核で倒れたので嘉吉先生のところへ来たのですが、七つ八つの子がひとりで太平 洋を渡って来たというので、当時の新聞に、「アメリカからひとりで来た子供」と騒がれたと聞 たんか きました。この子の父親は、やがてアメリカから海を渡って山田家へ担架で運ばれ、両先生の手 厚い看護を受けた甲斐もなくあの世の人となり、それから幾年かあと、〈しんちゃん〉も同じ病 気で亡くなったのだそうでございます この民郎さん・おこま奥さんと弥平治さん三人のほか、浅葉ャヱさんとヒサさんーーわか先生 のお姉さんと妹さんがおられました。共に独身のこのおふたりは、わか先生の家のすぐ裏の家 むかし平塚らいてうさんが住まれたこともあるという家に起居されていましたけれど、ヤヱ さんの裁縫の教場はわか先生の家の二階ですし、三度々々の食事は一緒ですから、まず、先生御 夫妻の家族と申してよろしいのでしよう。お姉さんのヤヱさんは、わか先生とは似ない細っそり した美人で、気持もおとなしくて優しい方でした。妺のおヒサさんは、英文タイピストとして丸
んと同じ身の上だった女なんです」と続けたのである。 彼女の電話の趣旨を察して、わたしは椅子を引き寄せて、その先を話してくれるようにうなが こわ した。そうすると彼女は、圧し殺したように低い声をさらに低くし、あたりをはばかるような声 だま 音で、「ーーー実はね山崎さん、わたしも、何も知らない子どものとき、このアメリカへ騙かされ てやってきた女のひとりだったんです」と語りはじめたのであった。 頑として名を告らぬその老女の問わす語りによると、彼女は三重県の山の中の村の生まれで七 十七歳、十五歳のとき名古屋へ出て女中奉公をしていたが、一日、お使いに出たとき主人の金一 円をどこかへ落してしまった。日頃からきびしい主人なので、このことが知れたらどうなること と思うと気が動転し、故郷の村へ逃げようか川へ身を投げようかと悩みつつ夜の街をさま よっていると、そこへ現れたのが親切な中年のハイカラ男で、「そんな家へ戻らなくても、アメ 、くらでも身が立つようになる」と言う。そこで、主人のきびしさへの 丿力へ行きさえすれば、し 恐しさからその男を頼る気になり、汽船に乗って連れて来られたのがサンフランシスコで、到着 と同時にチャイナⅡタウンの娼家へ売りとばされた。見知らぬ男に操を許すことなど想像だにし せつかん ていなかった彼女は、有りったけのカで娼館主に反抗したが、生きるか死ぬかの折檻の末とうと 聶う日本人専門の娼婦とされてしまい、やがてはチャイ = ーズの客も迎える身の上とな「た。 中そうして幾年か過ごすうち、十歳ばかり年上の日本人労働者が借金を払ってくれて自由の身と 真なり、結婚してまずは人並みの生活に入ったが、子どもが生まれないので貰い子を育てた。その 子が成人して嫁を取ったのを見とどけると夫は死に、十数年前からは息子夫婦の世話で平穏に暮
近所の百姓家へ裁縫の稽古に出してくれたけれど、その他の季節には、父母や兄姉と一緒に農 労働をしたのである。今で言えば小学校の五年生だが、しかし幼い頃から体驅に恵まれていたわ かだったので、その仕事の質と量は相当なものであったらしい しかし、後年まで彼女の印象に 彼女の従事した仕事には、田植えもあれば草取りもあったが、 残ったのは砂糖作りの仕事であった。頃は初秋、十分に伸びた砂糖黍を畑から刈り取って来て ろくろ 下へひと晩積んで置き、翌日から製造に取りかかる。八幡神社の側に開いた庭に轆轤をすえ、 ぎよ 轤の頭へ長い棒を結びつけ、その棒の端を牛に引かせて黍から汁をしばるのだが、その牛を御オ のがわかの役目だったのである。こうしてしばった青臭い汁を大釜で煮つめ、それから順次に結 製して行くのだったが、その過程で少しずつ嘗めるくらいは大目に見られたので、甘味に乏しい 農村生活ではあり、長く彼女の記憶に残ることとなったのだろうか。 のうり また、後々まで脳裡に残ったもうひとつの仕事は子守りであって、これは、十二歳年上の長舁 福太郎が明治二十一年に結婚し、その年のうちに長女のセイが生まれ、三年後に長男の敏治が まれた頃からはじまった。背中に乳児をくくりつけられたわかは、久村のあちこちを歩き、時に 久里浜高等小学校の校庭に立っこともあったが、校舎内の子どもたちの声を耳にするにつけわが 花身の上がかえりみられて、悲しい思いで胸を満たさなくてはならなかったのであった 歳しかしながら、子どもごころにも自分の意に添わぬ暮らしであったのに、わかは、性格的にひ わねくれたりすることなくおおらかに育った。少女時代のわかは、素直で同情心に厚かったらし ( それを示す恰好なエビソード がひとっ伝わっている。すなわちーーあるとき汚い女乞食がどこか
らともなく舞いこんで来て、わかの家に隣接した八幡神社の縁の下に住みついたが、わかはこの 女乞食が哀れでならず、当初は自分の食べる物を割いてあたえていた。けれど、それだけでは女 乞食のいのちをつなぐことができず、そこで家の食物を持ち出して与えて父母から叱られ、その ことが村の子どもたちに知れて、 森の家のおわかは 乞食の子 わいわいわあい と囃し立てられたというのである。 そして、おおらかに育ったのはわかの心のみならずその肉体もであって、幼い頃から人並みす ぐれた体驅を持っていた彼女は、十四、五歳になると早くも〈娘〉と見られて不思議でないよう になったらしい。当然ながら、村の若者たちのなかに彼女に思慕を寄せる者もあり、殊に目立っ たのは〈虎さん〉という若者であった。 この若者は、わかの著作のいくつかに登場して来るのだけれど、対照資料がないためにその精 確な姓名すらわからない。 したがって、ここでも〈虎さん〉としか記すことができないのだが、 その家は貧農か農村プロレタリアであり、彼の仕事は、あちこちの家の作男にやとわれたり、季 てんびんばうにな 節季節の野菜を天秤棒で担って久里浜や浦賀の町を売り歩くことであった。彼はわかに、所詮は 金釘流であったにちがいない恋文を手渡してみたり、裏道に待ち伏せていて裁縫の稽古帰りのわ はや