時代 - みる会図書館


検索対象: あめゆきさんの歌
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1. あめゆきさんの歌

彼は、妻のわかが、そのシアトル時代ーー彼女が金銭によって白人たちの性的玩具とされていた 時期の話を、他人に向かってすることを好まなかったのである。 それに加えて、あるいはまた、こういう理由もあったかしれない。すなわち、生活的に苦労に 苦労を重ねて来た彼だけに〈世間〉というものを知っており、彼女のかって海外売春婦だったこ とが知れた場合マイナスにしかならぬだろうことを予測して、それで、シアトル時代に関しては かんこうれい 彼女に緘ロ令を敷いたのだ。 いずれにせよ嘉吉は、わかがそのあめゆきさん時代について人に語ることを望まなかったわけ であり、そしてわかは嘉吉のその意思をよく尊重しようと心がけた。そうなると立井信三郎は、 彼が彼女の娼婦生活と切り離すことのできぬ人物であるだけに、わかとしてはそのロの端にも筆 の端にものばすわけに行かず、窮極、彼の名は、七十年後の今日わたしが掘り起すまで理もれざ るを得なかったのであった ここまで考えの糸をたぐって、わたしは窓の外に瞳をこらした。サンフランシスコの灯はもは しつこく や見えず、そこにはただ、漆黒の闇が果もなくひろがっているだけだった

2. あめゆきさんの歌

ま七十六でして、来年が喜の寿でございます。アメリカへ わたしの歳でございますか。い 来ましたのは大正時代の末ですから、山田わか女史がこのシアトルの町で人がうしろ指差すよう な商売していた頃のことは、なアんも存じません。けど、一九三七年だったか八年だったか、山 田女史がこの町へ来て講演されたときのことは、今でも良うくおばえとります。あの時のことは、 四十年たってこの歳になった今でも、決して忘れられません。 一九三七年といいますと、日本が支那と戦争をはじめて、支那に同情したアメリカ人が、日貨 排斥、日本の品物は買わないという運動を起こして、わたしら日本人は仕事が減って困るし肩身 も狭かった時代です。そんな時代でしたが、わたしら夫婦はまだ二十代で元気でもあったし、メ インⅱストリートと五番街の角に日本風のうどん屋の店を開いて一所懸命に働き、まずまず無事 に商売をやっていました。 訪山崎さん、あなたはお若いからこの頃のことは御存知ありますまいし、まして日本から遠く離 トさくとも一軒の店を構えるというのは大変な 励れたアメリカの事情など見当もっきますまいが、 / メことなのですよ。わたしは山口県の女でしてね、二十歳ばかりで結婚してアメリカへ来て、主人 さけます 9 ははじめアラスカで鮭鱒捕りの請負い仕事をしましたが、根が丈夫なほうじゃないからとうとう わ 体をこわしてしまって、それでこのシアトルへやって来た。グリーニング屋がいいだろうという のでそれをやりましたが、なかなかうまく行きません。そこでうどん屋に商売替えをして、夫婦

3. あめゆきさんの歌

けだから、おわかさん、滅多な人にはその話したことがないはずで、当時知ってた人は極くわず かでしかないはずだね。 にいたことがあって、そういう生活がし うん、その話はね、おわかさんがアメリカ時代に苦界 ' やで逃げ出したというようなことだった。おわかさんは、そういう場所に長年いたのに非常に純 真なものを持っていたというから、そこを嘉吉先生が見込んだんでしよう。監視がきびしくて普 通では逃げられないので、いわゆる〈女たちの家〉の二階だか三階だかから、シーツを割いてそ れをつないでロープ代りにして脱出したというんだが、その脱出法を教えたり助けたりしたのが 嘉吉先生たった と聞いたような気がするねえ。まるで西部劇みたいな話だが、嘘じゃないで しようよーー日本にだって大正時代には、救世軍の人たちが吉原の娼婦を脱出させようと工作し て、やくざ達から半殺しにされるなんてことが山程もあったんだから。 嘉吉先生は、そうやっておわかさんを脱出させて、結婚して日本へ連れて帰ると、それこそ 〈いろは〉から教えてあの人をあれだけのものにしたんだもの、たいしたもんですよ。からだ売 ってたことのある人は、ついつい易きに就いてしまってなかなか円熟した女になれないものなん だが、その点でおわかさんは偉い。しかしわたしや、それよりももっと嘉吉先生が立派だったと 思いますよ 市川房枝さんのして呉れた話は、わたしには非常に新鮮でしかも感動的だった。日本のみなら めった

4. あめゆきさんの歌

を交換し合「たのだが、そこには清水巖と名前が刷られ、肩書にサンフランシスコにおける日本 語新聞として長い歴史を持つ「北米毎日新聞」の社長とあったので、その社へ訪ねて行ったので ある。 きっとあなたが、ここへ来られると 清水さんは、精悍な顔にほほえみを浮かべながら、「 思「ていましたよ。山田わかさんのこと、調べてごらんになりますか」と言い、調べるだけの価 うなず 値はあるはずですとい 0 たふうにみずから頷いていた。その清水さんの顔をすばらしいと眺めつ けれど、生きていればわかさんは九十代の半ばに つ、わたしは、「ええ、そのつもりです。 なるはずですから、その娘時代を直接に見たり聞いたりしている人は、もう、ひとりも生きてお られないでしようね ? 」と問うたのだった。 すると清水さんは、「わたしなども、古老の口から聞いたから知っているので、シスコ時代の 山田わかさんをじかに知っている人というと、さて、誰でしような」と首をかしげ、しばしあっ 「あのふたりに訊かれるのが、おそらく一番良いでしよう。 てからこう答えられたのである。 ひとりは北野基次氏といいましてね、歳は九十くらいかな。そのむかし、娼館が軒をつらねてい たチャイナⅡタウンでホテルを経営していた人だから、わかさんを見ているかもしれません。そ していまひとりは、泉イエさん。もう九十四、五歳になるでしよう。古くからお多福亭という日 本料理レストランをやっていて、このシスコにいた日本人についてなら生き辞引というお婆さん ですよ。」 と頼みたかったかしれない。 わたしは幾度、そのおふたりを今すぐ紹介してください

5. あめゆきさんの歌

「私の心は清い ! 神は私を守って居る。今殺されれば、死ぬ事が私の幸福に相違ない。生き きっと る事が私の幸福なら、神は必度救ふ」と私は独りで定めて、殊更に祈る事もせず自若として運 命を持ちました。神の心を待ちました。 だが、生きる事が私の幸福だと神様は思し召したと見えて、私は今かうしてこんな事をお話 して居ります。〉 山田わかがみずからの経歴にふれて書いた文章は、久里浜で過した幼少時の出来ごとは別とし かっとう て、あとはすべてこのように、何時どこでのこととも葛藤の相手が誰であるともあきらかにされ ないのだが、わたしは、それらが明瞭に記されないまさにその故に、綴られている体験は彼女の 事実であったのだと思う。彼女は自分が〈あめゆきさん〉であったことを秘していたため、ふる さとの山川とともにあった少女時代の体験は正直に書くことができても、アメリカ時代ーーそれ も取りわけシアトルでの生活にかかわる思い出は、具体的に書くわけに行かなかったからだ。そ してそうだとするならば、この、星明りの湖上におけるドラマティッグな一場面も、それが肝心 なところで具体性を削り落されているかぎりにおいて、実際に彼女の身に起こった出来ごとだと 見てさしつかえないのである。 それでは、この星明りの湖上のドラマの相手は誰であり、その時はいつで場所はどこであった のか。どのように考えてみても、その相手の男は立井信三郎であり、時はシアトルを脱走してよ とい、つ り数日ののち、場所はシアトルからポートランドまでのあいだのどこかの湖であった

6. あめゆきさんの歌

114 てそのように夢中になると、彼の心は、彼女が日夜、不特定多数の男性よりもてあそばれている という事実に耐えがたく、そこでひそかに、アロ ハウスより彼女を脱走させる計画を持ちか けたのである。当時の娼婦はすべて前借で抱え主につながれていたわけで、わかにも何百ドルか の借金があったものと思われ、それを残らず返済すれば自由の身になれるのだが、立井にはそれ だけの金がなかったのだ。 立井が脱出先としてわかに提示したのは、サンフランシスコであった。そこには、彼が新聞記 者としてっとめる「新世界新聞」の本社があるので、それを頼ってふたりの新しい生活をはじめ るつもりだったものと思われる。 人間の命の安い西部開拓時代ではあり、脱走してとらえられた娼婦には見せしめのための凄ま じい私刑の課されるのが普通だったから、準備は慎重の上にも重になされなくてはならない。 けれどもふたりは、そのようにすることができなかった。 というのは、脱走の計画を他人に 知られてしまったからである。 シアトルの古屋商店といえば当時のアメリカ在住邦人間で屈指の雑貨貿易商であり、『あめり か物語』時代の永井荷風をその二階に置いていたことでも知られ、その主人は古屋政次郎といっ て花街にも勢力を持っ男だったが、ある日、電話をかけようとしてレシー ーを耳にあてると、 若い男女の話し声がする。 どうした加減でか、電話が混線しているのだ。聞くともなしに聞 いていると、どうやらキングⅡス トリートに縛られている女とその愛人の脱走についての相談ら しく、しかもシアトル在住の日本人世界は狭いので、古屋にはただちに見当がついてしまったの

7. あめゆきさんの歌

山田嘉吉は、男性優位社会におけるそのような傾向を知っていた。わかよりも十四歳の年長だ という事実に加えて有色人種への排撃意識の強いアメリカで生きぬいて来た体験から、彼は、ひ とたび水商売に足を踏み入れた女性にたいして社会がどのような態度に出るかを、骨身に沁みて ひとく 知っていた。そこで彼は、わかにいましめを与え、その前身を固く秘匿させたのであった。 必要あってわかがシアトル時代の生活に文章でふれようとした場合には、嘉吉は、先に引いた ような抽象的・概念的な表現においてするように指導し、講演の場合にもおそらくは同じであっ たと思われる。これにたいし、一方わかはと言えば、嘉吉を限りなく信頼していたから、彼の忠 ひさ 告はすべて受け容れすべて忠実に守ったので、彼女がかってアメリカにおいて春を鬻いでいた女 性であるという事実は、それを打ち明けられた平塚らいてうなど極くわずかしか知る人はなかっ た。したがって、ジャーナリズムや世間一般の受け取っていたところでは、山田嘉吉・わか夫妻 は、アメリカ帰りのエリート夫婦にほかならなかったのである。 欧米崇拝の今より幾層倍も強かった大正期であっただけに、嘉吉・わか夫妻におけるアメリカ 帰りという一項は高く評価され、それは、わかを女流評論家として世に送る大きな力のひとっと なった。そして、わかが数少い女流の評論家としての地位をひとたび確立してしまうと、彼女が トである彼女のいわば謙澄の 抽象的な表現で記すそのアメリカ時代の〈どん底〉生活は、エリー 辞と理解されるに至ったのだった。すなわち、嘉吉が〈前身を秘めよ〉と言い、その指導に従っ てわかが前身を秘めたおかげで、社会は彼女の女流評論家たることを許したのだと言ったらよい

8. あめゆきさんの歌

ことにしたが、その方法で二時間の余をわたり合っているうちに、残念ではあるが確信せざるを 得なかったーーー彼女はあめゆきさん一般についても山田わかに関しても、何ひとっ知ってはいな 、山田わかの娼婦時代を同じサンフランシスコに住まっ いのだ、と。九十四歳という年齢といし ていた女性だったことといい、誰しもがわたしの取材の最適任者と考えるに不思議はなかったろ 、しかし彼女は、娼館のあったチャイナⅡタウンから遠く離れた日本人街の生活に始終した ため、あめゆきさんたちについては塵ほどすらも見知っていなかったらしいのである。 わたしたちが久しぶりの訪問者だったからだろうか、イエさんはいつまでもと引き留めたが、 しかし冬の日が西に傾いたのを見ては、後に心を残しつつも腰を上げなくてはならなかった。そ して、肥った体をもてあましつつ部屋の出口まで送ってくだすったイエさんと別れ、車中の人と なってから、わたしは、身も世もあらぬ焦燥に心を焼かれなくてはならなかったのであった。 その人たちに訊ねれば山田わかの娼婦時代の大方がわかるのではないかと教えられ、その人た ちの直話にすべてを賭けてふたたびアメリカへ渡って来たというのに、ひとりは瞬時の差であの しいまひとりは全くの期待はずれでしかなかったのである。信仰というも 世の人となってしま、 のを持たないわたしなので、神仏がわたしを見棄てたのだと言うことはできないから、別な表現 と言うべきか。運命に導かれて山田わかの人 を探すなら、運命がこのわたしを見限ったのだ きせき 中生の軌跡をこれまで追いかけて来たのだけれど、娼婦から這い上って評論家にまでなったひとり 真の女性の稀有な生涯のもっとも重要な細部は、ついに不明なままで終るしかないのだ ! ホテルに帰り着いたわたしは、全身の力が抜けて茫然とし、・〈ッドに横になっていつの間にか

9. あめゆきさんの歌

砂の出て来ることがあるものな。 山田わか女史の実家は、この久村の内じゃあ入口の方に在らアね。 そう、そう、おまえ様 みようじ の見て来なすったという八幡様のすぐ向かい側よ。浅葉という苗字はほかの土地にはないそうだ が、この三浦半島でも、この久村にあるだけだ。わか女史の実家の浅葉家は、家号というか通称 というか、〈モリの家〉とわしら小さい頃は呼んでいたねえ。そうだなあ , ・ーー〈モリ〉とだけ言 うこともあったし、 ^ モリの店〉と呼ぶ者もあったな。 どんな字を書くのかわしやア知らないが、大方、〈木〉の字を三つ重ねる〈森〉なんじゃある めえか。今は小ぢんまりとした家にしちまって、昔の面影はひとかけらも残っちゃいないが、あ の家は元は大したでかい家で、広くてみごとな屋敷森があったんだ。となりには八幡神社の神森 があるし、とにかく、遠くから見たら立派なもんだった。それなもんだから、村の者が「森の家、 森の家」と呼んだんだろうよ。 いま、家がでかかった = = ロたが、わしの生まれるよりもっと昔には、あの森の家は、屋 敷がでかいばかりでなく、久村でも指折りの物持ちだったそうだ。わしの知ってる大正時代には、 もうそんな勢いはなくなっていたが、明治時代までは田畑もたんとあるし、その上山まで持って とりい いて、春の種蒔き田植えどきと秋の穫入れどきとには、村の若い衆や娘たちを頼むほどだったと よ。おれの爺さまは、「若い時分、森の家の手伝いに行ったことがある」と言ってたつけが、た きび んば仕事のほか、何でも砂糖黍を作っていて、それを搾ったり煮つめたりする仕事もやらされた そうな。

10. あめゆきさんの歌

いう行為は、女性の心身をむしばむばかりでなく、社会からは良俗に反するものとされており、 それだけに、ひとたびその苦界に落ちこんだ女性にたいする世間の眼は非常にきびしく、それが 彼女たちの新生をさまたげることが多いのだ。そんななかで、しかも現代ならばいざ知らす明治 末期より大正期にかけてという女性蔑視のはげしい時代に、売春婦より評論家に転身した女性が あったと言われて、誰が本気にできようか ところが今、日本ならぬアメリカのサンフランシスコで、らいてう自伝などとは縁もゆかりも なさそうなひとりの老人の口から、山田わかの名前が出、しかも彼女についてらいてう自伝の記 述と同じ話が語られたのみならず、彼女の売春婦時代の通称までが告げられたのだ。これは、ら いてう自伝のあの記述が嘘でもいつわりでもなく、事実そのものであることを証明するにはかな わたしが、持「ていたオレンジⅡジ = ースのグラスを落さんばかりに驚かす らぬであろう。 ゆえん にいられなかった由縁である。 へ入りはしたものの、わたしはなかなか けやがてパーティが終ったので、ホテルへ戻ってべッド しん タ寝つかれなか「た。十数時間の空の旅でからだは綿のように疲れているのに、頭の芯だけが異様 コなほどに冴えていて、眼を閉じても、寝返りを打 0 ても、果ては睡眠剤を嚥み下しても、い 0 か てんてん な熟寝の淵に沈むことができない。そして輾転として窓外の暗い空に星の移るのを眺めながら、 フわたしの思いは、いっかふたたび、山田わかというひとりの女流評論家の上に漂 0 て行「たのだ ン 平塚らいてうは山田わかの海外売春婦だ 0 たという前半生を「数奇」と表 わたしは田 5 った さっき