き方にどうしても倦き足りない。なんとかして東京へ出たい、出て新しい思想にふれたい ばかり思っていたんだね。それなもんで、友人のひとりが東京へ出たのをわずかな頼りにして、 大正七年の夏、思い切ってとうとう上京しちま , った。 上京してから、その旨をアメリカにいる長兄の藤市に知らせたんだね。もともとわたしゃあ男 三人女四人の兄妹の三女でね、長兄の藤市はわたしが小学校の頃にもうアメリカへ渡って、サン フランシスコで新聞記者をして相当な収入があったからか、何かというと弟妹たちを助けてくれ かきち ていたので、まずその兄に知らせたというわけ。すると兄から、「四谷伊賀町に山田嘉吉という 方がいるから、おれの妹だと名乗って訪ねて行くがよい。山田先生は、おれがアメリカへ来たと びんぎ き英語やそのほかの学問を教えてもらった先生で、信頼のできる人だし、何かと便宜をはからっ てもらえるだろうからーーー」と手紙が来ました。そこで山田先生を訪ねて行ったところ、大柄で 色の黒い三十代半ばの女の人がいて、それがつまり山田おわかさんだったんだね。 そのときのわたしは、おわかさんが女流評論家だということを、前もってそれほど良く知っち ゃいなかったね。明治四十四年に「青鞜」が創刊されたときは、わたしやまだ師範学校の生徒で、 ′」しき 「新しい女は五色の酒を飲む」なんて記事を新聞で見て驚いたことはおばえてるが、強い印象は おくづけ 受けなかった。名古屋での教員時代に一冊だけ買って読んでね、奥附に編集人Ⅱ伊藤野枝とあっ たのをおばえているけれども、それほど面白いとは思わなかったし、山田わかという人が翻訳や 評論を書いていたとも記憶していない。山田先生のところを訪ねて、あらためておわかさんを女 あんばい といったような塩梅だったねえ。 流評論家と認識した と
ども、「畑が一枚あるではなし、家があるではなし、それ等を買ふ金があるではなし、どうにも 生計の立てやうがないので、矢張り、それ迄に得てゐた経験を利用し得る仕事を探さなければな らないし、それには都会に出なければなら」す、それで東京に住むことにしたのだという。 このような事情での東京定住であったから、四谷南伊賀町に住居を定めたのも、その土地の閑 静なのを愛してなどというのではなくて、もっと卑近な理由からであったと推定される。のちに 奥村博史・平塚らいてう夫妻の住んだ裏隣りの家は、らいてうが『元始、女性は太陽であった』 下巻で記しているところによればいわゆる「貸家」で、その家主は「神田で自転車屋をやってい たくま る、山田先生の弟さん」であったということだが、想像を逞しゅうするなら、嘉吉・わか夫妻の 住んだ家もやはり嘉吉の弟の貸家のひとつなのではなかったか。そして、当初は借りて住んだそ きゅ、フばう の家を、わかの女流評論家としての声名が上り経済的に窮乏を脱した段階で譲り受け、少しずつ 建て増して行ったものらしく思われるのである かくて田園生活を諦めて東京の市中に住居を定めた夫妻は、経済生活の方策を樹てなくてはな しらなかったが、誰の目から見ても、それには「それ迄に得てゐた経験を利用」するのがもっとも 員近道でもあれば安全でもある。そこで嘉吉は、サンフランシスコにいた頃と同じように、その四 の谷南伊賀町の家の一室を教室として外国語を教える私塾を開いたのであった。 鞜嘉吉がその外国語塾を何と名附け、開塾にあたってどれほどの宣伝をしたのかは、残念ながら ほとんど不明だと言うほかはない。サンフランシスコ時代の嘉吉の弟子のひとりだった山崎今朝 弥は、当時の東京で、「ペーヴメント大学卒業・米国伯爵・資産百万弗」という人の意表を突く
山田わか先生はわたしの命の恩人でございますが、先生との縁は、わたしが一方的に先生 のふところへ飛びこんだことから始まりました。それをお話しするには若い頃の恥を忍ばなくて はなりませんが、わたしは阿波徳島の質屋の家に生まれて、二十歳のとき近郷切っての豪農と言 みかん われた家の次男に嫁ぎました。その家は大きな蜜柑山を持ってましたので、夫は神戸に出て蜜柑 問屋をはじめましたが、何分にも金持の息子、たいそうな遊び癖がついていて、三日も四日も家 に帰らないことがつづき、お金がなくなれば郷里へ無心するというありさまです。 という考えを持ってい わたしは、人間、目的を持ってそのために一所懸命っとめなければ ましたので、このような夫がうとましくてなりません。身を切り売りする女を売春婦というけれ ど、妻というものも、相手が特定のひとりであるというだけで、本当のところは売春婦とおんな じではないか と思うと、もう、どうにも我慢がならなくて、離婚を決心いたしました。 人二十一歳で生んだ女の子がようやくお誕生を迎えたばかりでしたから、わたしは二十一歳、昭和 ゅ六年か七年の頃でした。 母 眠れない夜を幾晩かすごしたある日、わたしは子どもを置いて夫の家を出ましたが、実家へ帰 ればその日のうちに居所が知れて、翌日には連れ戻されることが目に見えています。そこでわた 限 しは、汽車へ乗ってまっすぐに上京して、東京神田に主婦之友社を訪ねました。主婦之友社を訪 ねましたのは、その時わたしは毎月「主婦之友」を取っていまして、そこで訊けば、毎号のよう
が弟子を取って語学を教えるのに使っており、一等奥のひと間が家族の居間であった由。そうし こま たことを細ごまと話してていさんは、わたしへの談話を次のように締め括られたのであった 「わたしもこの歳になりますと、遠い昔が恋しくて懐しくて、時折四谷伊賀町のあたりへ足を向 けてみるんですが、それほど変っておりません。わか先生のことを書かれるのでしたら、ぜひ一 度、行ってごらんなさいましよ、行ってごらんなさいましよ」と。 明治三十九年に帰国して以後亡くなるまで山田嘉吉・わか夫妻が居住した土地を、何時か訪ね ようと思い、訪ねてみなければならないと思っていたのだったが、佐藤ていさんのこの言葉を聞 くとわたしは居ても立ってもおられなくなった。そして、アメリカの取材旅行の疲れはまだまだ 癒えきっていないのに、かって東京市四谷区南伊賀町と呼ばれていた街へ足を運んで行ったので ある。 それは、一九七六年新春の門松がまだ取れたか取れないかという頃の一日で、前夜吹いた風の ためか空青く澄み、陽ざしのたいそう暖かな午後だった。新宿区役所に問い合わせて、旧南伊賀 町ーーー今日の若葉町は国電中央線の四谷駅が最寄りと聞いたので、わたしは四谷駅に下車し、そ れからひとりで歩きはじめたのであった。手には今日の東京地図も持っていたが、 しかしわたし がそれよりも頼りにしたのは、明治二十九年三月に東京郵便電信局の出した五千分の一の「東京 市四谷区全図」で、これには旧四谷区の町名がすべて載っており、嘉吉・わか夫妻の住居だった 南伊賀町四十一番地も明記されているのである。道路はその昔と変っていないだろうし、この地 図に従って行けば、、 力ならず、目ざす街の目ざす地点へ辿り着けるにちがいない
そこでわかは、幡ヶ谷母子寮・保育園の設立主体としての母を護るの会代表として厚生省に補助 金の交付を要請、幸いに聞き容れられて五十万円の補助金を受けることとなったのである。 このままで何事もなかったならば、おそらく幡ヶ谷母子寮と保育園とは再建され、わかの社会 福祉的な事業は母子保護に始終することとなったにちがいない。 ところが、厚生省よりの補 助金交付の決まったのとほとんど同時に、彼女は、母子寮・保育園の再建計画を売春婦再生施設 の設立に変更したのだった。 あらためて詳述するまでもなく、敗戦後の日本社会には、それまでの如何なる時代にもなかっ たほどの多数の売春婦が生まれてきた。戦前の日本は公娼制度を認めていたから、全国の主要都 市にはいわゆる遊廓が設けられており、相当数の娼婦が公然と春を鬻いでいたのだが、敗戦によ る世相の混乱とアメリカ軍を主力とする日本占領軍の駐留とは、街角に立っ私娼を一挙に増加さ せたのである。 東京都民生局の出した「東京都の婦人保護』 ( 昭和四八年 ) という書物があって、国家そのも のではないにせよその手足としての地方自治体の作成になるものだから公的記録と見なしてさし つかえないと思うのだが、これによるなら、敗戦日本の売春の増加は日本の国家政策によるもの であるということだ。すなわち、敗戦一週間目にあたる八月二十一日、東京永田町の首相官邸で 緊急閣議が開かれたが、その議題は「日本に進駐して来る連合軍将兵の性的慰安問題について」 であり、この閣議の決定を受けて内務省警保局長はほとんど即日、次のような秘密通達を全国の 警察署長に宛てて発したのだった。 「警察署長ハ左ノ営業ニツイテ、積極的ニ指導ヲ行ヒ、 ひさ
180 師匠の住むにふさわしい落ち着きと色気とが、感じられたと言わなくてはならない。そして、そ あきな の一軒をおいた北隣りには炭や石油を商う店があって、頭の禿げ上った老人が立ちはたらいてい たけれど、あるいはこの家が、名古屋より嘉吉・わか夫妻を頼って上京した若き日の市川房枝さ んが部屋借りをしたという炭屋なのかと思われた。 しかし 人影のまったくないままに、しばらくのあいだその瀟洒な格子戸の前に立っていたが、 際限なく立っていることはできない。それにまた、嘉吉・わかの生活したその町全体の雰囲気を つかみたいという気持もあって、わたしはそれから、樹木の多いそのあたりの小路をそぞろ歩い た。が、あの道を行きこの道を戻り、それらに交叉する坂道を下りつ昇りつするうちに、わたし きようり ひらめ の胸裡にはひとっ閃くものがあった この道は、以前たしかに歩いたおばえがある、と。 このような場合、それが何時のことであったか分らないとたいそう苛立たしいものであるが、 しかしわたしには、即座に思い当るものがあったのである。それは、数えれば十年あまりのむか し、わたしが夫と共著で出す『日本の幼稚園 ( 幼児教育の歴史 ) 』 ( 昭和四〇年・理論社 ) という 書物を執筆していた頃のことであった 日本の幼児教育の歴史を綴るからには、東京の二葉保育園を無視することは許されず、わ ゆき たしは、区立の保育園に預けている長女を気づかいつつ二葉保育園へ通い、園長の徳永恕先生の お話を伺った。あらためて述べるまでもなく日本の幼児教育は、明治のはじめに〈富める階級〉 の幼な子たちを教育する〈幼稚園〉としてスタートし、明治中期に至って ^ 貧しき階級〉に属す る幼児たちを保育する救貧施設としての〈保育所〉を加え、以後二本のレールの上を走って今日
274 女子学園の野田稲子なる仮名の女性の足跡が記録されているのである。「過去を忘れて楽しい家 庭の建設へ」と題されたその全文を、いま、ここに紹介してみるならば 〈生年月日・昭和七年十月四日生 本籍地・茨城県鹿島郡鉾田町 前居住地・同右 入園経路及その年月・中央児童相談所昭和二十四年六月十日 本人の身心状況・健康状態 = 良好智能程度日普通智性格Ⅱ準放逸不定性 生い立ち及び経過・昭和七年東京で生れ、その後昭和十九年本籍地に疎開するまではなんの変 化もなかったが、疎開後生活に困難を来たしてから家庭内に風波のたえることなく、そのため 二人の姉は家出し、本人も間もなく両姉の後をおって昭和二十三年五月に家出上京、上野附近 で徘徊中女親分にひろわれ、始めはパン売りをさせられ、そのうち売春を強要させられるよう になった。そのうち狩りこまれて施設へ送られたが早速逃亡、上野へ逆戻り、また警察に検 挙され病院へ入院、そこを逃亡後再度狩り込まれて中央児童相談所へ入所した時は十六歳であ った。二十四年六月から当学園へ送られて来た時はハンカチ一つ持っていなかった。 寮内で造花等の手内職をしていたが、そのうち Z 工場の工員として通勤するようになった。 その間心の動揺を示したことも時々見うけられた。生来の強気者で人の云うことには一々反抗 した。時にはあまりにものすごく周囲の者も手を引かざるを得なかった。そうした時、長時間 をついやして説きさとした結果、泣いて手を握り合ったこともあった。はれものにさわるよう
じんちょう れんぎよう 春を先駆ける黄色あざやかな連翹の花はすでに散り、どこからとも知れずただよって来た沈丁 花の芳香も遠のいた一日、わたしは、地図を片手に、東京都渋谷区の西北部を歩いていた。目ざ すのは、旧渋谷区幡ヶ谷原町八七〇番地ーーーすなわち山田わかが昭和十四年に幡ヶ谷母子寮と幡 ヶ谷保育園とを作ったその場所である。 東京と八王子のあいだを走っているので京王線と呼ばれている私鉄電車を、起点の新宿駅より 事二つめの幡ヶ谷駅で降りたわたしは、甲州街道沿いを訊ね歩いた。徳富蘆花が現在の蘆花公園駅 の近くで彼の言う「美的百姓」の生活を送っていた大正中期までは、通るものといっては徒歩の旅 こえぐるま 保人と農民たちの肥車だけだった甲州街道は、今では幅数十メートルの大道と変り、しかもその路 上に支柱を林立させて頭上に高速道路を走らせている。そしてその両側は高層のビルディングば かりだったけれど、足を一歩奥へ踏み入れると、そこには小さな家が軒をつらね、庶民の哀歓の 交錯しているような雰囲気の町がひろがっているのだった。 娼婦更生保護の仕事へ
これは公娼制度の根絶では断じてなかったと言わなくてはならない。しかし、それでもなお、政 。しきおい占 府の政策転換は売春業者にとっては痛棒であり、業者の手をはなれた売春婦たちま、、 当時の流行語で〈夜の女〉 領軍の基地周辺や繁華な街角へ進出するようになったのだった。 そうせい とも呼ばれれば、また , , 〈パンパンⅡガール〉とも呼ばれた女性たちの簇生である。 山田わかが母子寮・保育園の再建計画を売春婦更生施設の設立に変更した背景には以上のよう しかし彼女がどうして急遽計画を変えたのか、残念ながらわたしには詳 な状況があったのだが、 しいことはわからない。 前記『東京都の婦人保護』には、母子寮の再建を図っていたわかが、「当時は浮浪児と売春婦 が大きな社会問題として放置できない状態となっていたため、各方面からの要請もあって : : : 年 少女子の保護」にあたる施設をつくったと記されている。「各方面からの要請」があったという のは、おそらくそのとおりであったろう。しかし、そうした要請に応えてという以上に、そこに は山田わかの切実な心情とそれに根ざした使命感が大きく関与していたのではなかったか。 東京といわず大阪といわず少し大きな町であれば、昼間からアメリカ兵の腕を取る口紅の濃い 女性たちの姿があり、灯ともし頃より後となれば、繁華な街の角々に客を待ってたむろする女た ちの群が見られる。外出のたびにこのような女性たちの姿を眼にしたわかの胸に、その若き日、 シアトルの娼館内に囚われていた頃の思い出に照らして、するどい痛みの走らなかったはずはな 。そうして彼女は、われとわが身を切り売って生きるはかない〈売春婦〉というものの悲惨さ ちしつ
この菊池寛の意見こそがも「ともヒ = ーマ = スティッグな考えだと思えるのだが、しかし昭和初 年代という時代状況を思いみれば、むしろ、硬直的に見える穂積重遠の提言の方が、世間という ものの大方の考えーーーっまり〈常識〉をストレートに代弁していたのかもしれないのだ。 かくして起こった山田わかの意見にたいする賛否の両論は、それからなおしばらく続いたのち、 しゅうそく 社会的と言うよりはきわめて風俗的なセンセーショナリズムの路上に終熄したと言わなくてはな らない。すなわち、その年の五月、いわゆる新派芝居がこの事件を脚色して東京劇場で公演し、 しゅうれん 現実のドラマの人間的苦悩は舞台の上のドラマに収斂され終ってしまったからである。そして、 それではその新派芝居のストーリイはと言えば、昭和七年四月十九日の「東京朝日新聞」の予告 的記事によるかぎり、それは以上のようなものだったのであった ^ 父の看病に疲れた娘が、前後不覚に眠ってゐる時、思ひがけなくも侵入した泥棒に犯され、 いなずけ その事だけは早く母親と相談して許婚の青年に打ち明けて、快い諒解を得たところが、後にな はんもん って不幸にも妊娠してゐることを発見、これをも許婚者に打ち明けるべきか否か、大いに煩悶 する 劇はここから始まるのであるが、娘が急に許婚の青年と結婚するのは嫌だと言ひ出すので、 父親が不審に思って調べて見て、始めて娘が妊娠してゐる事を知り、自分の看病のためにこん な事になったのだから飽迄責任は自分が負ふといって、自身青年のところに行き事情を話して、 是非結婚してやって呉れと頼む。青年はこれを聞き流石に驚きかっ煩悶するが、父親の切なる 頼みもあるので、婚約の間を待ち切れなくてひそかに自分が娘と関係したのであって、妊娠さ さすが