が、北ボルネオのサンダカンで発見され、作者がそれを見に出かけたおりのルポルタージが、 これも単なる 『サンダカンの墓』であり、これは『サンダカン八番娼館』の続篇といってよい 紀行文というより、その地を訪れ、あれこれと取材してまわる著者の姿が、書かれた内容とかさ なって興味をひくといった要素がある。 『あめゆきさんの歌』はこれら二作の発展であり、主題のひとつの完結をしめしたものといえる。 内容的にはアジアではなく、主人公も女性評論家として名をなした人で、埋もれた無名の庶民で はない。しかしからゆきさんたちの苦難の歴史を掘りおこしてきた著者が、それと同様な海外売 春婦の境涯におちいりながら、そこから脱出しただけでなく、評論家という知的な職業につき、 丿ート女性たちにまじって活躍した人物の存在を知ったとき、その稀有な例にこめられた問題 の大きさにとらえられたのは当然のことであった。異郷の土となったり、あるいは不幸な晩年を 送った多くの海外売春婦たち、そして今なお偏見の重味に耐えて生きる女性たちのためにも、著 者はこの女性評論家ー・ーー山田わかの生涯を掘りおこさずにはいられなかったのである。 海外在留邦人を対象とする文藝春秋主催の講演会に、講師として参加した山崎朋子が、サンフ ランシスコでの歓迎レセプションの席上、北米毎日新聞社長の清水巌から、山田わかがアメリカで 白人相手の売春婦をしていたことがあると聞いたのがきっかけで、再度渡米して調査にあたる過 程は、文中にくわしく述べられている。『サンダカン八番娼館』の場合と同じく、ここでもサン フランシスコからロスアンゼルスへ、さらにシアトルへと足をのばし、ふたたびサンフランシス
先祖伝来の田畑を失い尽そうとしている浅葉家を救うには「かなりの大きな額の金」が必要で というのである。彼女の あり、その金をわかは、兄に代わって自分が作り出そうと決心した この決意の背後に、妻たる者の切なる願いに一顧もあたえてくれない七治良への憎しみを見たら、 間違っているだろうか それは兎に角として、その「かなり大きな額の金」を、わかが一体どのようにして作り出した かと言えば、それはアメリカへ行くことによってであった。小学校四年を卒業しただけの彼女に できた仕事は肉体労働だけであったと思われるが、しかしそれで得られる賃金はたかが知れてお り、そこで窮極、海外へ出て〈女の性〉を売る仕事に就くよりほかになかったのである。 もっとも、彼女が最初から海外売春婦になるつもりでアメリカへ渡ったのかといえば、おそら アメリカ くそうではないであろう。『恋愛の社会的意義』におさめられた「亜米利加の婦人へ」という一 文には、彼女とアメリカ社会との関係が一側面だけ語られているのだが、これによるなら、彼女 にアメリカ行きをすすめたのは、「もう十五、六年も米国に居て確実に地位を固めた日本人成功 者」の「夫人」と称する女性であり、その場所は横浜であった。 叫町しか知らないようやく十八歳の人妻は、身分不相応に巨額な金を入手すべく横浜へ出て、 あちらこちらと仕事を求めて歩いたあげくおそらくは失望のみを味わった。その時たまたま、ア メリカより一時帰国したのだというその「夫人」にぶつかって、「アメリカは非常に景気の良い 国で、男は金鉱で働いて金をつかみ放題、女は小間使いでもお針子でも日本の幾倍もの給金を取 っている」と聞かされて、大いに心を動かされたのであったろうか。そしてその「夫人」が、お
現しているけれど、しかし「数奇」なのはその前半生だけなのでなく、その生涯の歩みのすべて にわたっているのだ、と。 一体、これまでに、〈階級〉と〈性〉とのふたつのモメントにおいて疎外された存在としての 売春婦にあって、陽光のさんさんと降りそそぐような社会的場所へ転身することのできた人があ かいむ っただろうか。それが皆無だったと断定することはできなかろうが 、しかしそれが如何に至難な 道であったかは、これまでに売春婦について二冊の書物を書いたわたしが、誰よりもよく知って 宣伝がましくて面映いのを敢えて記すとーーーわたしが今までに出した売春婦についての書物は、 『サンダカン八番娼館』という奇妙な題名の一冊と、その続編たる『サンダカンの墓』という一 冊である。前者に〈底辺女性史序章〉の副題を附しておいたことからもあきらかなとおり、近代 日本の社会的底辺に呻吟しつつ生きてきた多数の女性の集中的表現としていわゆる〈からゆきさ ん〉を把握しようとこころみたもので、その典型と見なすべき老女とそれを取り巻く人びとのラ イフⅡヒストリーを記録したものと規定したらよいだろうか そして、この二冊の書物に登場するからゆきさんたちは、ひとり残らず終局的にこの世の敗者 であってそれ以外のものではない。『サンダカン八番娼館』の主人公たるおサキさんという老女 は、長い辛労の生活のうちより諦念にも似た哲学を編み出し、人生の達人ともいうべき円熟の境 あんたん 地に到達しているけれど、その現実生活は貧窮の極、暗澹たる上にも暗澹たるものでしかあり得 なかった。また『サンダカンの墓』では、言葉もかよわぬ異国の男にわれとわが身を切り売らね おもはゆ
れるから」と女衒にあざむかれて出国したものであることを、わたしたちはすでに知っている。 東南アジアでなくてアメリカへ向かった女性たちの場合にも、女衒たちの手だては同じであり、 てれんてくだ そして山田わかもまた同一の手練手管によって、遂に異郷にその身を鬻ぐ女のひとりとされてし まったのであった 長々と綴ってしまったが、久里浜訪問に照らしつつわかの著書よりわたしの読み取った彼女の 〈あめゆきさん〉への道程は、ほば、以上に記したとおりだと言ってさしつかえない。そしてそ の道程があきらかになったからには、次にわたしは、そのようにして海外売春婦のひとりとなっ た彼女が、サンフランシスコの街のどこに住み、どのような男たちにその春を売ったのだったか を追究しなくてはならないのである。いや、それよりももっと重要なのは、そのような境涯に落 ちこんだ彼女が、一体何をカとして暗黒界より立ち上り、女流評論家にまでなったのかを究明す るとい、つことだ と言わなくてはならないだろう。 ただ しかし、その点を糾すべき資料は日本にはなく、サンフランシスコに住むふたりの人ーーかっ てチャイナ日夕ウンでホテルを経営していた北野基次さんと、お多福亭の女あるじ泉イエさんの 脳裡にのみおさめられているのである。そして、先にも記したとおり北野さんは九十歳、泉さん 九十五、六歳という高齢であってみれば、事は急がなくてはならないのだった。 サンフランシスコへ、サンフランシスコへ ! 久里浜より帰って数日のあいだ、わたしの胸に はいっかのタ焼け空が燃え立っていたが、 しかし一週ののちには消えていた。わたしは、家族の 了解を得て、望みどおりサンフランシスコへ向かって空を翔けていたからである ひさ
いう行為は、女性の心身をむしばむばかりでなく、社会からは良俗に反するものとされており、 それだけに、ひとたびその苦界に落ちこんだ女性にたいする世間の眼は非常にきびしく、それが 彼女たちの新生をさまたげることが多いのだ。そんななかで、しかも現代ならばいざ知らす明治 末期より大正期にかけてという女性蔑視のはげしい時代に、売春婦より評論家に転身した女性が あったと言われて、誰が本気にできようか ところが今、日本ならぬアメリカのサンフランシスコで、らいてう自伝などとは縁もゆかりも なさそうなひとりの老人の口から、山田わかの名前が出、しかも彼女についてらいてう自伝の記 述と同じ話が語られたのみならず、彼女の売春婦時代の通称までが告げられたのだ。これは、ら いてう自伝のあの記述が嘘でもいつわりでもなく、事実そのものであることを証明するにはかな わたしが、持「ていたオレンジⅡジ = ースのグラスを落さんばかりに驚かす らぬであろう。 ゆえん にいられなかった由縁である。 へ入りはしたものの、わたしはなかなか けやがてパーティが終ったので、ホテルへ戻ってべッド しん タ寝つかれなか「た。十数時間の空の旅でからだは綿のように疲れているのに、頭の芯だけが異様 コなほどに冴えていて、眼を閉じても、寝返りを打 0 ても、果ては睡眠剤を嚥み下しても、い 0 か てんてん な熟寝の淵に沈むことができない。そして輾転として窓外の暗い空に星の移るのを眺めながら、 フわたしの思いは、いっかふたたび、山田わかというひとりの女流評論家の上に漂 0 て行「たのだ ン 平塚らいてうは山田わかの海外売春婦だ 0 たという前半生を「数奇」と表 わたしは田 5 った さっき
ばならぬ境涯を憎み、苦心の末そこを脱出して新たな人生を歩みはじめた平田ユキと小川芙美な るふたりの女性のけなげな姿を描いているのだが、 しかしユキ女は刀折れ矢尽きたかたちで自殺 をとげ、芙美女はついに行方知れずとなって、窮極、彼女たちは不幸の域を一歩といえども出る ことはできなかったのであった。 ひとたび柳暗花明の街に入った女性たちがその境涯を脱出しようとして遂に成功しなかったの こんしん は、決して、彼女たちの努力が足りなかったからではない。彼女たちは渾身の力をふるってあり とあらゆる手だてを尽したのだが、〈良識〉ならぬ〈常識〉の眼の光っている世間は苛酷で、現 在どのように清潔な職業に就いていても、かって売春婦であったということを知るや否や彼女た てかせ ちに〈差別〉という鉄の手枷足枷をはめ、その鉄の手枷足枷の重みが、彼女たちをしてふたたび ちまた 柳暗花明の巷に舞い戻らせたり、みずからの命を断たしめたりすることとなったのだ。そしてこ の一条は、わたしの出逢った幾人かのからゆきさんたちに限ったことでなく、およそ売春という け職業ならざる職業に従事したあらゆる女性について一一一一口えるので、たとえば森崎和江の記録『から タゆきさん』 ( 一九七六年・朝日新聞社 ) のヒロインのひとりが狂い死に、ひとりが自裁している コ という結末も、その有力な証明のひとつだと見なさなくてはならぬであろう。 ス シ ン ところが、そんななかにあって山田わかというひとりの女性は、〈常識〉の矢の雨あられと降 フりそそぐ海外売春婦という境涯から、あろうことか、時代のリーダーとも言うべき評論家に転身 ン らくせき サしたのである。その美貌や肉体的魅力の故に落籍されて金持の男の妻や妾になったという話はし 幻ばしば耳にするし、たまたま持っていた才能のおかげで歌手や女優になったというためしも、ビ
家庭に安住してしまうのと逆に、彼女はむしろそれらの体験をとおして、自分自身のテーマを見 出し、それに積極的に取り組んでいったのである。もちろん夫である上笙一郎の理解と協力が、 それを可能にしたにちがいないが、彼女自身が生活とたたかい、女として母としてのさまざまな 問題を経てきたことから、かえって研究の方向を明確につかんだところに、大きな意義があると いえよう。たとえば取材にあたる場合も、その相手にたいするふかい共感をもっことができたか らこそ、彼らの重い口を開かせることに成功したのではなかろうか。 一九七二年に出版され、第四回大宅壮一ノンフィグション賞を受けた『サンダカン八番娼館』 は、著者が天草に住むおサキさんという元からゆきさんの家に住みこみ、明治から大正へかけ て海外へ売られた売春婦たちの生態を聞いて、それを聞き書きにまとめるといった形で書かれた 作品である。単なる聞き書きではなく、作者自身がそこへたどりつくまでの苦労や、おサキさん の生活ぶりを紹介することで、過去と現在が結ばれ、読者に現実感を与えた点も、この作品がひ ろく読まれた理由のひとつであり、聞き書きの文体のもっ魅力がそれにプラスした。 山崎朋子が底辺女性史の資料をあつめるため、各地へ旅したことはすでにふれたが、聞き書き をまとめるやりかたについては、第二十回毎日出版文化賞を受賞した上笙一郎との共著『日本の 説幼稚園ーー幼児教育の歴史』の執筆で、身につけたと思われる。これは夫婦協力の産物だったが、 以後、それを生かし、彼女自身のテーマに沿って、模索をつづけ、おサキさんにたどりついたわ 解 けである。 この作品の出版がきっかけで、からゆきさんたちから慈母のように慕われた娼館の女主人の墓
これは公娼制度の根絶では断じてなかったと言わなくてはならない。しかし、それでもなお、政 。しきおい占 府の政策転換は売春業者にとっては痛棒であり、業者の手をはなれた売春婦たちま、、 当時の流行語で〈夜の女〉 領軍の基地周辺や繁華な街角へ進出するようになったのだった。 そうせい とも呼ばれれば、また , , 〈パンパンⅡガール〉とも呼ばれた女性たちの簇生である。 山田わかが母子寮・保育園の再建計画を売春婦更生施設の設立に変更した背景には以上のよう しかし彼女がどうして急遽計画を変えたのか、残念ながらわたしには詳 な状況があったのだが、 しいことはわからない。 前記『東京都の婦人保護』には、母子寮の再建を図っていたわかが、「当時は浮浪児と売春婦 が大きな社会問題として放置できない状態となっていたため、各方面からの要請もあって : : : 年 少女子の保護」にあたる施設をつくったと記されている。「各方面からの要請」があったという のは、おそらくそのとおりであったろう。しかし、そうした要請に応えてという以上に、そこに は山田わかの切実な心情とそれに根ざした使命感が大きく関与していたのではなかったか。 東京といわず大阪といわず少し大きな町であれば、昼間からアメリカ兵の腕を取る口紅の濃い 女性たちの姿があり、灯ともし頃より後となれば、繁華な街の角々に客を待ってたむろする女た ちの群が見られる。外出のたびにこのような女性たちの姿を眼にしたわかの胸に、その若き日、 シアトルの娼館内に囚われていた頃の思い出に照らして、するどい痛みの走らなかったはずはな 。そうして彼女は、われとわが身を切り売って生きるはかない〈売春婦〉というものの悲惨さ ちしつ
台であるにちがいない。い や、かって人肉の街に身を置いたことのある女性たちのみならず、き まざまな理由から世間並みの教育を受けられなかったことを嘆いている女性たちにとっても、 習への勇気をあたえてくれるものであるはすた。同じ女性のひとりであるわたしは、そのような 嘆きに身を焼く多くの女性たちへの責任から山田わかの生涯を追究しなければならないし、また 弥平治さんには、わかの仕事を受け継いで売春婦更生施設の寮長であったという立場からして、 やはり彼女の稀有な人生をあきらかにする義務があるのではないだろうか。 そして、弥平治さんの娘たちへの配慮という点に関して言えば、彼女たちの曾祖母が幾歳 〈あめゆきさん〉となったのかはまだ不明であるにしても、圧倒的多数の娼婦たちは、思春期に も達せずしてその悲しい境涯に入らざるを得なかったのであった。そういうことを考えるなら、 自分の曾祖母がかって海外売春婦であったという事実の重みに耐えることが、あるいは同じ思 期にアメリカの地獄へ流出したのかもしれない人の曾孫娘としての仕事にほかならぬーーーとい、つ ふうに言いたいのだ。 わたしは弥平治さんに向かって、以上に記したような内心の思いを披瀝し、どうか、山田わか と懇願した。しかし、わたしがどんなに言葉を尽ー 話の身内の立場からの協力をいただきたい ん てお願いしても、弥平治さんの返答はついに変ることがなかったのであった 房山田弥平治さんと会見してからあとの数日、わたしは複雑な思いのなかにいた。眼を閉じれば 司サンフランシスコよりの帰途に見たタ焼けのあの茜色がいとも鮮明に見え、早く、一日も早くす れたアメリカへーーーと気が急くというのに、その前につきとめなければならぬ肝心かなめのことが ひれき
日ホリデイやエディットⅡビアフなどのように稀れにではあるが有り得ることだ。けれど、 切実な人生体験に加えて多大の学識と思考力とを必要とする評論家に変身をとげ、ジャーナリ ちょうじ ムの寵児として大いに活躍したばかりでなくその国の女性解放思想史の上に消すことのできぬロ 跡を印した売春婦があったかと言えば、その答えは否のひと言のほかにはないだろうのに、彼亠 は、その至難な上にも至難、稀有な上にも稀有な変身をついに為しとげたのである。すなわち、 山田わかの前半生だけが「数奇」なのではなくして、その評論家への転生を含む全生涯が 奇」なのであるーーーと言わなくてはならないのだ。 いっしか東の空がほんのりと白み、強くまたたいていた星の光が薄れかけてきたというのに、 〈からゆき わたしはまだ眠れずに輾転を繰り返していた。そして心の裡に思うのだった はじめてのアメリカ旅行で , ん〉と呼ばれた海外売春婦についての書物を二冊書いたわたしが、 のような話レ こ出逢うとは、これまた何と数奇なことだろうか、と。しかも、わたしのこのアメ " カ旅行の目的が講演にあり、この講演の主題が〈からゆきさん〉であるにおいてをや。 わたしは、考えをあちらに走らせこちらに戻したりした挙句、結論として、山田わかが〈か ゆきさん〉ならぬ〈あめゆきさん〉であったことがアメリカに着いたその日にわたしの耳に入 たのは、決して偶然ではないのだと考えた。霊魂などというものを信じない唯物論者なのだけ ど、しかしわたしは、これは山田わかの遺志なのだと感ぜずにはいられなかった。いや、いつ、 う精確に言うならば、一望万里の太平洋をこのアメリカへ流れてきて異国の男たちにわが身を ぎ、ついに不遇に朽ち果てた幾多の日本女性たちのこの世に留めた無念の思いを、全身に感取ー