% いたことがあるだけでございますよ。ピングⅡカーテンの女とお客との関係ではありませんそで から はたち す。 その時分のわたしはまだ十九か二十歳で、ふところにはいつも空っ風が吹いとりまして、 ビンクⅡ ハウスへなそ寄りつくこともできません。それに、おわかさんの〈アラビャお八重〉は ホワイト日オンリーでありましたから、日本人は誰も寄りつくことはできんかったのです。 なお、もうひとっ申し上げておきますと、その折のわたしは、もちろんわかさんの本名を知り あだ ませんでした。みんなが〈アラビャお八重〉と呼びますので、その源氏名というのかそれとも綽 名と言うたほうがええのか、わたしもその名前で知っておりましたわけで、あの方の本名は、当 時、シアトル在留邦人の誰ひとり知ってはおりませんでしたろう。 あねえな商売のお人は、男でも女でも、ロが裂けても自分の本名や生まれ故郷は言いません。 広島生まれの者は岡山生まれだと一一一一口うし、熊本の者は博多の出だというふうに言いまして、ちい とずつ県や村をずらして他人に言いますそであります。名誉にならん仕事をしておるという気持 なま ざいしょ が心の隅にあるそで、生まれ在所を隠すそでしようが、ちいと話をしておりますと、方言や訛り この人は熊本県人らしいと分ってしまうものでし から、ああ、あの人は本当は広島の出らしい しかし本名のほうは、これは、当人が言わんかぎり誰にもわかりやしませんでした。何 くーよそ ちゅうても一九〇〇年になるかならんかちゅう頃じゃし、その折のシアトルや・ハングー れこそ新開地ですから、税関も何も有ったもんじやございません。パスポートのない者は、〈飛び こみ〉と申しまして、沖に停った船の甲板から、身のまわりの物を頭に縛りつけて海へ飛びこみ まして、海水浴か何かしちょったようなふうをして上陸してしまう・ーーというようなのが多かっ
の女だけは、その赤茄子を、平気どころかとても旨そうに食うというんだね。それで子ども、いに 肝をつぶして、いまだにおばえているわけだが、あれが山田わか女史だったんだねえ。 わか女史、洋服を着ていなかったか と言いなさるのかね。 しいや、洋服じやアなくて着物 かむっているも じゃった。わしら、子どもじゃったから、メリケン帰りは男も女も洋服に、ツト のと思っていたのに、わか女史、裾ひらひらのスカートどころか、うちの母ちゃんと似たり寄っ たりの地味な着物を着ていたので、期待はずれで妙な気がした。うつかり道で行き合うと、英語 でべらべらと話しかけられそうな気がして、もし話しかけられたらどうしようかと思うと胸がと どろいて来てどうしようもなく、畑道を走って逃げ出したんだから、はは、昔の子どもは純情な もんだったよ わか女史、アメリカではずいぶん苦労したんだと親父から聞かされたことがあるが、どういう ことだったんですかなあ。何でも、日本で言えば吉原のようなところにもいたことがあるーーーと、 これは親父からでなくて誰かほかの人から聞いたことがあるが、本当なのか嘘なのかわしは知ら まあ、わしが山田わか女史について知ってるのはこれくらいで、さっきも言ったとおり村の年 寄りはみんな死に絶えてしまったから、もう、この久村じゃあこれ以上のことは分りますまい もっともっと知りたかろうが、お気の毒でしたのう。 秋ももう末じゃし、日が落ちるとすぐ暗くなるで、気をつけて早くお帰んなされよ。もっとも、 東京から小さな汽船で久里浜の桟橋へ上るしか道のなかったわし等の餓鬼時分とちがって、今は きも 二 1 ロ
そらくは札東をちらっかせるか身に着けた金の指輪を誇示するかして、「アメリカへ行きさえす れば、ほんの一、二年であなたも大金持になることができ、親御さんに孝行ができますよ」と言 更に「夫にあてて手紙を書いたので、これを持ってお出でなさい。そうすれば万事うまく取 りはからってくれるはずだから」と親切に言われると、彼女はすっかり嬉しくなり、勇躍してア 月日は不詳だが明治二十九年か三十年、いわゆる メリカ行きの汽船へ乗りこんだのである。 日清戦争が終って間もなく、三国干渉によって日本が大揺れに揺れている頃のことであった。 十歳も 茫洋たる太平洋を西から東へ向かう船の上で、わかは、内心にこう叫びつづけた。 年上でしかも守銭奴の夫よ、妻のわたしよりもお金のほうが幾倍も大事だった七治良よ、さよう なら。あなたはわたしの兄を助けてくれなかったけれど、このわたしが、メリケンで働いてお金 を送って、美事に実家を建てなおしてみせます。日本では「女だから」とさげすまれているわたしで すが、メリケンでは誰もが女に親切だそうだし、この大きくて丈夫な体で小間使いをして一所懸命 に働き、いまにかならす、あなたよりももっとお金持になって久里浜へ帰ってみせますからね しかしながら、わかの純真なこの願いは、アメリカへ着くと同時に、それこそ徴塵に打ち砕か れなくてはならなかった。「もう十五、六年も米国に居て確実に地位を固めた日本人成功者」の ぜげん 花「夫人」 , ーーすなわちおんな女衒の言った言葉は、一から十まですべて嘘であって、彼女は、ア 歳メリカの土を踏むや否や、待ち構えていたおんな女衒の仲間どもの手にかかり、娼婦として売り 十とばされてしまったからである。 東南アジアへ流れ出たからゆきさんたちの大半が、「南洋へ行けば、女中として良い給金が取
では行かないが、まあ、それに近い見掛けでした。歳下のおわかさんのほうが、「お父さん、お 父さん」と言っては嘉吉先生に甘えてましたが、嘉吉先生が歳を取られたら、今度はおわかさん のほうが親のような恰好になって来たから面白いねえ。 ひんばん 嘉吉先生の晩年のことは別として、わたしが頻繁に出入りさせてもらってた大正時代のことで 話すと、嘉吉先生、おわかさんのことが心配で心配で、自分の眼のとどかないところへ出せない んだね。 あれは大正八年の夏だったか、前にわたしの勤めていた名古屋新聞が、「夏期婦人 講習会を開きたいから、山田わか・平塚らいてう両氏に講演を頼んでほしい」とわたしに言って 来た。そこで話の橋渡しをしたんだが、嘉吉先生、心配で心配でおわかさんを出すことができな とどのつまり、「どうしても と言うんなら、房枝さん、あんたがおわかに附いて行って ください。それなら講演を引き受けさせましよう」ということになって、わたしも一緒に行きま ちゃぶだい した。そして名古屋の宿へ着いたら、おわかさんが卓袱台に向かって何かごそごそやってるので、 見たら電報頼信紙に書きつけてるんだ 「プジツイタアンシンセョ」式のをね。 ついでだけれども言っとけば、この名古屋でのそれが、おわかさんもらいてうさんも講演とい うものをした最初ですよ。おわかさんは、「はじめてで自信がないからーー . 」というので、書い て来た原稿を読み上げたに近い講演だったし、らいてうさんも確かそうだったが、らいてうさん のは声が小さすぎて聴衆にはほとんど聞き取れなかった。それが、慣れというものは大したもの で、昭和期に入るとおわかさん、雄弁とは言えないけれども、しかし座談ふうの講演では名手と 評判を取るようになるんだからねえ。
られない。わかがアメリカで人肉の市にいたことを知っておられるか否かとのわたしの問いに、 市川さんは、わかから直接に聞いたことはないけれど平塚らいてうより又聞きしたと答え、 " それ に附け加えて以下のように言われたのだった。 「おわかさん、その、アメリカの苦界にいた 時分の話をらいてうさんにした時ねえ、『わたしは構わないんだけれど、お父さんが厭がるから、 わたしは誰にも話さないのよ。だから、誰にも言わないでね』と念を押したそうですよ。そんな わけだから、おわかさん、滅多な人にはその話したことがないはずで、当時知ってる人は極く極 くわずかでしかないはずだね。」 平塚らいてう亡きあと市川房枝さんの伝えてくださった山田わかのこの言葉は、きわめて重要 な意味を含んでいるように思う。「わたしは構わないんだけれど、お父さんが厭がるからーーー」 らんまん という表現の下には、一種天真爛漫であったわかにたいして、夫であると同時に指導者でもあっ た嘉吉より、〈前身を秘めよ〉といういましめの課せられていたらしいことが看て取れる。そし て、そう看て取った眼でわかの書いた評論やら随筆やらを読んで行くと、そこには、彼女のシア ル時代に言及した箇所が少からずあるのだが、それらはいずれも、具体性をすべて削り落され た抽象的なかたちでしか記述されていないことを発見するのである。 たとえば彼女の第一評論集「恋愛の社会的意義』を覗いてみると、「弱き小羊のやうに、惨忍 な人間共の手に翻弄されて居た自分は」とか、「それから何年かの間私は依然として無智の状態 を続けて : : : 虫けらのやうに、唯、貴国の片隅を汚して生きて居ました」とかいったふうな記述 が散見する。けれども、その「惨忍な人間共の手に翻弄された」ことの具体的な事実ーー・どこで
そういう物持ちの家が、あっと言う間に傾いでしまうんだから、浮世というものは儚ねえし又 おっかねえもんだ。どうしてそんなになったんだか、わしや知らねえが、たんばや山を切り売り 切り売りしてったんだろ。このあたりを歩いて訊いてみなさりや、「この田は、むかし森の家の だった」「この山もそうだった」というのが多いだよ。 わか女史の小さい頃の話は、わしも知っちゃいないねえ。知ってるのはわしの親父だが、 もう二十年も前に墓場ん中だ。 しかし、親父から聞いたところだと、わか女史は、わし等の 出た久里浜小学校しか出ちゃいないという話だったね。尋常しか卒業しねえで、それで女でいな がら評論家つう先生になって、新聞や雑誌に名前や写真が出てたんだから、偉いもんですよ。 わしがかすかにおばえているのは、わか女史が旦那の先生と一緒に森の家へ来ていたときのこ とだね。ありやア時頃だったのかなーーわしが未だ尋常の一年か二年の時分だから、明治の末 年か大正の初めでしたろう。森の家に、何でもメリケン帰りだちゅう女が来ていて、餓鬼仲間で あかなす うわさしたのをおばえてるんだ。どういううわさかと言うと、それが赤茄子なんだね。 ばあさんれん 赤茄子なんて言葉、おまえ様も知りますまいが、この久村の者だって、今となりやもう婆様連 しか知っちゃいないな。つまりトマトのことなんで、明治の末だか大正の初めだかにここへも入 花って来て、東京へ出すと高く売れるというんで畑へ作りはじめたのは良いが、あの臭味が鼻をつ 歳いて誰も喜んで食う者はない。そこへ、どこからともなく、「赤茄子は気違い茄子だ。食うと狂 わい死するそうだ」という話が流れて来たから、子どものわしらは、「赤茄子、馬鹿茄子、気違し 茄子」とどなってトマト畑へは近寄りもしなかった。ところが、森の家へ来ていたメリケン帰り
崎さん、あなたは御存知ですか。そうして、夜の眼も眠らずに悩みぬいた末、わたしは、わが身 を分けて生んだ子を手放すことにしたのです ! 夫が子どもを連れて神一尸に帰った日の夕方、わたしは台所で立ち働きながら、泣けて来て泣け て来てどうしようもありませんでした。それまでも、この子と一緒に暮らせないのかと思うと悲 しくて泣いていたのに、それが現実となった今、咽喉の奥から、それこそ心臓まで飛び出してし おえっ まうのではあるまいかと思われるような嗚咽がこみ上げて来て、何としても止まりません。山田 先生夫妻や一緒に暮らしている人たちの手前、そしてまた近所の人たちの手前を思うのですけれ ど、自分で自分を押さえることができないのです。 そうすると、そこへわか先生が出て来られて、わたしにタオルを渡されて、あのふくよかな体 へわたしを引き寄せて、背中を幾度も幾度も撫でさすりながら、「泣きなさい、泣きなさい、 」と言われるのです。わか先生からそう言われますと、わたしの心の奥 う存分に泣きなさい 底には、「あ、わか先生は御自分では子どもを生んでおられないけれど、子どもと別れた母親の 」という思いが湧き出てきました。そして、わたしの悲しみ 気持がよくお分りになるのだな を先生にわかっていただけたと思うと、何だか安心できるものがあって、それでわたしは立ちな おることができたのだと思うのです しかし、このように親切にしていただいたのは、決してわたしだけではございません。わか先 生は、女や子どもであれば誰にでもああいう優しい態度を取られたので、そのことは、長く山田 家に暮らしたわたしがこの眼で直かに見て知っております。
たのでした。こねえな上陸の仕方をしておりましたもんですから、領事館へ行ったって、本当の 名前なんか登録されちよるわけがないのですよ。 そねえなわけなので、若い頃のわたしは山田わかさんの本名は知りませんでした。それから十 年か二十年経ちまして、日本に山田わか女史という有名な女流評論家がいて、そのお方がむかし うわさ シアトルにいたことがあるそうだ、 という噂を聞きました。そうしてある日、妻が誰からか 借りて来た「主婦之友」を見ちよりますと、その山田わか女史の写真が出ていましたが、その写 真が、どこからどねえ見ましても、その昔のアラビャお八重なのですよ。長い年月が経って歳を うつ 取り、洋服でありませんで地味な和服で撮っていましたが、見れば見るほどアラビャお八重です。 と承知して、たまげもすれば、あの世 そこで、ああ、山田わか女史とはあの人じゃったのか 界にいた人がよくもまあ〈女史〉と言われるようになったもんだと、感じ入りましたちゅう次第 だったそです。 前置きが長ごうなりましたが、さて、わたしが山田わかさんをこのシアトルで見ましたのは、 先はども言うたとおり、わたしがまだ十九か二十歳のおりでした。九十二のわたしが十九か二十 歳のときだから、今から七十二、三年の前、西暦じゃったら一九〇二、三年ーー日本年号なら明 ル 治三十五、六年のことでありましよう。 シ歳を取ってもの忘れがひどいそに、なしてそねえにはっきりおばえちよるかといいますと、若 雪かったわたしのいちばん苦労したそが十九、二十歳、東洋運送店というエキスプレスの店で働い ちょった頃じゃったからだと思います。そうして、わかさんの姿を見かけて何度か言葉を交わし
その時分の山田家は、おわかさんが女流評論家としていくらか名が知られかけて来てはいたけ れども、まだ彼女の収入は多いとは言えなくってね、嘉吉先生の語学塾の収入で暮しを立ててた。 嘉吉先生は語学の天才とでも言うのかな、英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語といくつも の外国語に堪能で、語学の塾を開いてたんだね。らいてうさんも嘉吉先生の語学の弟子だし、あ の伊藤野枝さんと一緒に殺された大杉栄も嘉吉先生からフランス語を教わったんですよ。 そんなふうに、、 しくつもの国の言葉をひとりで教えてしまうほど語学の達者な学者だったが、 しかし嘉吉先生は、それを学校で勉強したんじゃないんだね。おわかさんも小学校四年くらいし か通っていないが、嘉吉先生のほうは小学校の門を二、三年くぐったかどうだかーーー。何でも八 でっちばうこう つか九つでもうどこかへ丁稚奉公に出されて、発奮してアメリカへ渡ってね、皿洗いからカウポ ーイまでありとあらゆる肉体労働をやりながら、お金を溜めては本を買って、独学で、ドイツ語 本当に偉い人 もフランス語もまたスペイン語も自由自在にしてしまったのだと聞きました。 ですよ、嘉吉先生は。 こういう山田家を兄の紹介で訪ねて行ったことが、わたしの人生を決めてしまったんだから、 面白いと一言うのか、それとも恐ろしいと言ったら良いのかねえ。いきなりこんなことを言っても の ん 藪から棒でしかないから、順序を立てて話さなくっちゃならないがーーーわたしが訪ねて行くと嘉 、に、いに掛けて、自分たちの眼のとどく範囲内にいるようにと、近く 房吉先生もおわかさんも大し 刺間貸の部屋を見つけてくれた。同じ四谷伊賀町にあった炭屋の二階の四畳半で、部屋代は四円五 十銭、当時としては高かったね。ここに住んで勤めに通うことにしたんだが、何しろ東京へ出た
るじゅっ に発表した「天国に夫を待たせて」という一文において、彼と結婚するに至った理由を縷述して いる。これによるなら当時の彼女は、『聖書』の説く神の前の平等を信ずる一方、自分を「人間 の屑、とるに足りない人間」と思い、「無学文盲に等しき、もともと百姓の娘、自分は卑しい者 しかし「山田嘉吉は、私を卑しい者だとせず、立派な淑女だと だと観念して」いたのだったが、 して私に接して来ました。彼の私に対する態度によって、私は自分自身を見直し、評価し直さな ければなりませんでした。厳粛な気持で人生を考へ直し、自重しなければなりませんでした」と いうことだ。つまり嘉吉は、かって娼婦であったと知りつつ彼女を対等にあっかったのであり、 それが彼女には何よりも嬉しく、そしてそれが彼への人間的信頼をはぐくんで、遂には結婚にま で進ませたのであるーーーと言ったらよいのかもしれない。 だが、わかが嘉吉との結婚を決意した動機は、それで尽きているのではなかった。彼女は、幼 少時から他人のなかへ出て自活し、学問をしたい一心で猛進また猛進してとうとう四十歳近く なってしまった嘉吉を、「さうした過去を持っ彼の容貌は、絶えざる荒浪に叩かれてゐる磯岩の かしやく 如く、触るれば痛からう感じでした。また事実に於て、その皮肉は人の肺腑を衝き、仮借なき辛 逢らっ 出辣な態度は、初対面にて、多くの人の怒りを買ふのでした」というふうに見る。そしてそのあと 「私は思ひました、『この人は、精神の全部 へ続けて、以下のとおりに書いているのである 嘉を知カ獲得と経済活動に傾けつくして、情味といふものを全然失ってしまってゐる』と。私のそ かあいそう 山 の観察が、私を決心せしめました、『母親の愛情すら知らなかった可哀想な彼に、私は温いホ Ⅷムを造って上げよう』と。」 っ しん