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検索対象: あめゆきさんの歌
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1. あめゆきさんの歌

剛してしばしば揉めごとが起こるものだから、それを避ける意図で個人参加のわかを委員長に選ん だのかもしれない。それも確かにあっただろうが、しかしそういう人事をすべての人すべての団 体が受け入れたのは、山田わかといえば母性尊重思想の評論家、いな、〈母性〉そのものの化身 のような人であるーーーという認識が、広く行きわたっていたからであった。すなわち、わかの限 りなき ^ 母性〉の人であったことが、いま、時を得て、母性保護同盟という大きな社会的運動の 枢要な地位に彼女を就ける結果をもたらしたのだ。 そして一方、山田わか個人に即して言えば、彼女には、この母性保護に関する運動こそ自分の なすべき仕事にほかならない とする気持があったと思われるのである。そのことをもっとも こうでん 端的に示すのは、彼女が、亡夫のいわゆる香奠を、母性保護同盟の活動資金として寄附したとい う一事であろう。 「主婦之友」の昭和九年十月号にわかが発表した「天国に夫を待たせて」によるならば、 ぜんそく 山田嘉吉は、「心臓性喘息にて呼吸困難に悩むこと十二日、二十日朝に至り危険状態に陥り、七 れいめい 月二十一日の黎明、室内を揺がすやうな雄大な深呼吸を一つして、フッと息が絶えた」という。 慶応元年ーーすなわち一八六五年の生まれだから、古稀に一年だけ足りぬ享年であった。 わかは、「体を半分もぎとられたやうな気分」と言おうか、「何かしら、底がぬけてしまったや うな心地」になってしばらくは茫然としていたが、 しかし間もなく気を取りなおすと、諸方より 香奠として贈られたうちの五百円を、当時未だ発足するかしないかだった母性保護同盟に寄附。 同盟は、これを当座の資金として、円滑に活動をすすめることができたのだった。 っ きようねん

2. あめゆきさんの歌

めす、そして彼女の著書からもその生い立ちや家族・郷党関係などをうかがい知ることはできな つまず かった。「全く闇雲に閉ざされた闇黒界を躓きながら、血まみれになってやうやく息だけ続けて こび おちい ゐた間」とか、「男性の不品行のために悲惨な状態に陥れる家庭や、物慾のために心にもない媚 しゅんどう を男に呈する女や、とにがく肉慾・物慾にのみ蠢動してゐる浅間しい生活のみを見せつけられて ゐた私は」とかいったふうこ、 かっての暗澹たる境涯を示すらしい抽象的な表現は随所に見受け られるのに、その生い立ちの具体的なことはほとんど記されていないのである。 そこでわたしは、次の手だてとして、わかの生前に親しかった人びとに逢って話を聞くことを 考えた。明治十二年生まれのわかと親しかった人たちは、前章にその名を記した平塚らいてうを ゅうめい はじめ過半がすでに幽冥の人となっているが、それでもまだ山高しげりさんと市川房枝さんが健 在であり、あるいはわかの生い立ちやアメリカへ渡るに至った経緯なども聞知しておられるかも しれない。わたしは、まず市川さんに宛てて手紙を書き、何時どこへでも参上しますから、どう とお願いしたのだった。 か、山田わかに関してひとときを割いていただけますように 一日千秋の思いという慣用句があるけれど、そのときのわたしの待ち遠しさは、一体どのよう に表現すればよいのだろうか。あらためて記すまでもなく市川さんは、近代日本における最初の 進歩的婦人運動団体と見られている新婦人協会を平塚らいてうと共に創立した大正九年以来、婦 選実現運動を主軸として始終一貫して婦人運動をつづけてこられ、八十二歳という高齢の今なお 壮者をしのぐいきおいで、参議院議員として多面的な活躍をしておられる方である。だから、わ かに関して話をしてくださる気持は抱かれたとしても、政治的活動のために寧日なく、わたしの ねいじっ

3. あめゆきさんの歌

192 なんめい んなにもたくさん翻訳したのは、南溟のかなたに住むこの女流思想家の詩的ェッセイが、思想的 にも思惟の形においても更にまた語学力に関しても、当時のわかの心的実情にもっとも近かった からであったと思われる。 しかしわかは、いつまでもこの詩的思想家の作品の翻訳のみに低迷してはいなかった。翻訳の 対象をアメリカの社会学者ウォードの論文「女子の教育について」 ( 五巻四号・大正四年四月 ) や エレンⅡケイの「児童の世紀」 ( 五巻七号 ~ 六巻二号・大正四年七月 ~ 五年二月 ) などにひろげる おみなえし とともに、「女郎花」 ( 四巻一一号・大正三年一一月 ) や「虎さん」 ( 五巻二号・大正四年二月 ) と いう小説を書き、更に「堕胎について」 ( 五巻八号・大正四年八月 ) 、「恋愛の自由と本能」 ( 同一 〇号・同年一〇月 ) 、「自分と周囲」 ( 六巻一号・大正五年一月 ) などといった感想・評論を発表 するようになって行ったのである。 「青鞜」誌上においてこのように多様な文章活動をはじめた山田わかの名は、当然ながら、ジャ ーナリズムの大いに注目するところとなった。あらためて述べるまでもなく、生田長江が名づけ たという「青鞜」の運動の本質は、西欧社会のいわゆる〈プルーⅡストッキング〉運動ーーすな わち近代的女権拡張運動の日本版であったのだが、しかし当時のジャーナリズムはこれを風俗の ーに〈新しい女〉の名を冠して現象的側面だけを興味本位に喧伝し 次元であっかい、そのメン・ハ た。たとえば、〈新しい女〉は女だてらに吉原へ行き、加えてこれまた、女だてらにパーで五色 くーは、女性解放問題について心もあ の酒を飲むーーーといったふうに。したがって青鞜社のメンノ り学識もある人びとかあはあたたかに、ジャーナリズムを含む世間一般からは半ばの期待と半ば

4. あめゆきさんの歌

296 第三部では日本へ帰国後、「青鞜」に参加し、女性評論家としてスタートしてからの山田わか について記しているが、その具体的な評論活動よりも、著者の筆はわかの人柄により多くふれ、 彼女の母性主義の根源をとらえようとしている。人間ドキュメントとしてのこの作品のありかた から、それは当然の方向であろうが、大正・昭和初期の婦人運動の歴史に関心をもつ人々には、 冫しオししろいろな制約から、 わかの活躍をもっとくわしく描いてほしいという要求もあるこ違、よ、。、 わかが自分の過去をほとんど書き残さず、その意識を女性解放の運動にどう結びつけたかを、論 理的に追求することが困難であるため、その部分は著者にとっても、まだ心残りな箇所があるか もしれない。 しかしこの作品のねらいは、一流の女陸評論家としての山田わかを描くのではなく、 そうした評論家になり得たわかの歩みをたどったものであることは、言うまでもあるまい 山崎朋子ははじめ、日本の海外進出という国家目的の犠牲者であり、さらに性による搾取という 二重の枷にしばられた女性たちの苦難の歴史をさぐるため、からゆきさんに目を向け、その実情 や彼女たちの負っていた諸問題を、ひろくアジアと日本民衆の交流史をとおしてとらえようとす る視点をうち出した。この考えは現在でも変っていないと思われるが、たまたまその延長線上で 山田わかという女性と出会い、それにみちびかれて『あめゆきさんの歌』をまとめた。その執筆 基本的な路線は共通して をとおして、著者の眼はアジアからアメリカまでひろがったわけだが、 おり、『サンダカン八番娼館』『サンダカンの墓』とともに三部作をなしている。 オがこれは二葉保育 その後、山崎朋子は、上笙一郎と共著で『光はのかなれども』を刊行しこ、 : ゆき 園長・徳永恕の生涯を描き、「日本の幼稚園』以来の課題を果たしたものだ。今後の彼女は、ま かせ

5. あめゆきさんの歌

私が山崎朋子を知「たのは二十年も前のことた。その頃、彼女は小児マヒワクチンの実施運動 など、社会的な活動にもたずさわりながら、女性史や婦人問題の研究を手がけていた。当時、私 は児童文化研究家の上笙一郎 ( " かみ・しよういちろう ) と一緒に仕事をやっていた関係で、その 夫人である山崎朋子と会う機会も何度かあ 0 たが、あるとき、それまでの女性史研究のありかた 批判的な意見をもらした彼女にたいして、「それなら自分でやったらいいでしよう」とすす めた記憶がある。 私の何気ないその一言を、しつかりとうけとめ、以後ひたすらに実践してきた彼女は、すでに そのときから、それなりの見とおしをもっていたと思われる。彼女が自宅を会場に、アジア女性 交流史の研究会を開き、底辺女性の歩みを、アジアの国々との交渉をとおして掘りおこすといっ 説た意図をあきらかにしたのは、それからまもなくだからだ。 この研究会はやがて機関誌「アジア女性交流史研究」を発行するが、一九六七年十一月付のそ 解 の第一号にはつぎのように書かれている。 「かって、中国をはじめとするアジアの国ぐには、日本にと「て師の国であり、心のも「とも近 尾崎秀樹

6. あめゆきさんの歌

という一条である。以前わたしは、ある尊敬する人の葬儀の折、ひとりのグリスチャンが「人は、 死んでより後は、その友人たちの心に生きるものであります」とスビーチしたのを聞き、今なお のっと その言葉を真実と信じて忘れないが、この言葉に則って言うならば、死して二十年になる山田わ かが、互いに往来のないその被護者たちのすべてから〈母性の人〉としての人間存在を尊崇され ているという事実は、それこそが彼女の真価であったことを証明するものだとしなくてはならぬ であろう。 たた ああ、限りなき〈母性〉の人 ! そしてこの限りなき〈母性の愛〉を湛えた人は、母性保護の 理論的優位性が競われた大正期が過ぎて、昭和初年代ーー母性保護問題が現実のプログラムに載 せられる時期になると、かって彼女より理論的に優位だった人たちを措いて、その運動のシンポ ルともいうべき位置に進むことになるのである。 彼女が昭和初年代の母性保護運動のシンポルとなって行ったプロセスを簡単に述べるならば、 それはまず、昭和二年の金融恐慌につづいて起こった昭和四年の世界恐慌に端を発していると言 ってよいだろう。日本の労働者・農民階級を生活のどん底へたたきこんだこの恐慌の波は、母子 家庭には更に激しく襲いかかり、その結果、親子心中ーー殊に母子心中を激増させた。そうして、 新聞に日々報道されるこの社会的現象は当然ながら世論を喚起し、そこから、社会的にもっとも 弱き存在としての〈母と子〉の保護を国家に求める運動がスタートしたのだった。 のろし 運動の烽火は、昭和九年二月十八日に日本で開かれた第五回全日本婦選大会においてなされた 「母子扶助法の即時制定」要求の決議であった。あらためて記すまでもなく婦選大会は、女性の

7. あめゆきさんの歌

ドの『社会学』の講読もおこない、その結果は「青鞜」第五巻四号以降に載った山田わかのウォ ード論文の翻訳ーー「女子教育について」「婦人問題に対する科学の態度」「女性の直覚」などと なって残っているのだが、これで養われた教養が彼女たちの思考にどれほど広さと奥行きとを与 えたことか さきにも少しくふれたとおり「青鞜」は、山田わかが社員に加わった頃より従来の・ ( 文学誌的 傾向〉を脱して次第に〈女性解放誌的傾向〉を強め、やがてその延長線上に、日本最初の女性解 放運動の組織と言って過言でない新婦人協会を誕生させることとなって行く。日本女性史上に特 筆されるべき大きな転換を導いた思想は、あらためて記すまでもなくエレン日ケイのそれだった わけだが、このスウェーデンの女流思想家の真髄を精確に理解させしめた人が山田嘉吉であった とすれば、彼は「青鞜」のプレインであったにとどまらす、大正期における日本の女性解放運動 と言わなくてはならぬのである。 全体のそれであった 青鞜社の社員であったりその周辺にいたりした女性たちゃ、市川房枝・山高しげりなど新婦人 協会頃より女性解放運動に加わった女性たちは、申し合わせたように、自分たちより十歳前後も 歳上の山田わかを〈おわかさん〉と呼びながら、その夫の嘉吉については〈山田先生〉の尊称を 崩さなかった。平塚らいてうなどはその自伝で、当時すでに六十歳を過ぎていた哲学者の田中王 堂あたりまでを〈氏〉附けにしながら、年齢からすれば五十歳前後の嘉吉に関しては〈山田先生〉 と書いて始終している。女性解放運動にたずさわる当時の女性たちにとって、山田嘉吉は、それ あたい だけの尊敬を払わなくてはならず、そして払うに価する存在であったのだ。

8. あめゆきさんの歌

性相談」欄の回答者として多くの悩める女性たちを励ますという仕事をし、また実際活動として 母性保護運動とその思想的帰結としての幡ヶ谷女子学園をこの世に残した。しかしわたしは、彼 女の残したこれらのいずれよりも、彼女の人生の歩みそのものの方に幾十倍も価値があると信す しんギ、ん ひとめ る者だ。彼女の生涯は、人生のどん底にあって呻吟しているすべての女性に、また人眼には幸福 ・ : つべ そうに見えても実は人生の壁に行きあたって苦悩しているすべての人に、まず、頭を上げてみす からとたたかえと教え、みすからと果敢にたたかう人には、 かならずや山田嘉吉のような助力者 が現われるであろうことを示唆してくれる。そして、彼女の生涯がこのようなものであるからこ そ、わたしは、御遺族のお気持を心に重く抱きながらも、彼女の数奇にして偉大なる生涯を白日 の下に出さなくてはならなかったのである。 うすす たけなわと言うにはまだ少し早い春の日はすでに舂き、心なしかうすら寒くなってきたので、 わたしはかかえていたコートを羽織り、なお幡ヶ谷女子学園のある町をそぞろ歩いた。世界にも 類例のない人生を歩んだ人の生涯を総括する仕事がこの庶民的な町でいとなまれていたのだ。そ う思うと、胸にこみ上げて来る熱いものがあって、わたしは、その、にぎやかな商店街があるか と思えば篠林の鬱蒼と茂る小径もあるその町を、いつまでもいつまでも立ち去ることができなか ったのであった

9. あめゆきさんの歌

パ〉の面影を、はたして見出すことができただろうか。そして、同じく三十年を取って六十七歳 になっていたキャ ' メロン女史は、その昔の〈ワカⅡアサ・ハ〉を確かと思い出すことは困難であっ たとしても、かってこのハウスの救助したひとりの東洋娘が、その母国で女流評論家となり、単 に机上の仕事のみならす母性保護運動にまで挺身していると知ったら、どんなに喜んでくれたこ とか ハウス訪問の翌日より主として在米日本人を対 それは兎に角として、わかはこのキャメロンⅡ 象としての講演活動を開始、サンフランシスコを振り出しに、サンホセ・メアリースビル・サク ラメント・ストッグトンといったぐあいに南カリフォルニアの都市をおよそ一カ月にわたって巡 訪。十二月七日にはワシントンのホワイトⅡハウスで大統領夫人アンナⅡエリノアⅡルーズヴェ ルトに会見し、ふたたび大陸西岸に取って返して日本人の在住する諸都市の歴訪をつづけた。そ うして、故意にか偶然にか最後に講演をする場所となったのが、彼女にとって忘れようにも忘れ ることのできぬ町ーーーすなわちシアトルだったのであった。 ここに至って、いよいよわたしは、かってシアトルへの旅において聞いたひとりの老婦人の談 話を紹介しなくてはならない。すでに記したごとく、わたしはシアトルでの取材を景山昇さんの 案内で果したのだが、その折お目にかからせていただいた幾人もの古老のなかに、七十六歳にな る元田清子さんという方がおられた。そしてこの元田さんが、山田わかのシアトルにおける講演 を記憶していて、わたしに語ってくださったのである。

10. あめゆきさんの歌

网ばで」あったということだ。 隣家に住んだらいてうには及ばなかったかもしれないが、山田家に出入りした青鞜社のメン・ハ ーは、夫妻より、結婚生活・衣食住生活の細ごまとした知恵や技術を授けられて例外がなかっ・た。 日常生活というものは、それが茶飯事の連続であるためかえって意識の上にのばせにくく、ひと たび蹉跌を来すと致命的になりやすい厄介な性質を持っているが、それだけに、嘉吉・わか夫妻 Ⅱストッキングた の日常生活の仕方についての助言や世話は、いずれも結婚して間もないプルー ちにとっては、この上なく貴重なものだったと言わなくてはならないのである。 さて、その「青鞜」 「青鞜」とその周辺についてやや筆をついやしすぎたような気がするが は、大正五年の二月に第六巻二号をもって廃刊となった。前年に平塚らいてうより編集権と発行 権とを譲り受けていた伊藤野枝が、生活力のない夫の辻潤とのに加えて大杉栄とのあいだに 燃え上らせた新たな恋愛問題などのため、発行不能となってしまったからである。近代日本女性 史におけるひとつの時期が、ここに確実に終りを告げたのだ , しかし、「青鞜」が終刊となり近代日本女性史におけるひとつの時期が終ったからといって、 ひっそく それは、「青鞜」の運動が瓦解したのでもなければ、その運動者であった女性たちが逼塞してし まったのでもない。そうではなくて彼女たちは、独身女性の感情と空想とを基礎として文学的・ 芸術的であった「青鞜」に代えて、結婚生活の重い実感に立ちつつ自分たちの解放を社会的に求 めるべく、その道をおのおのの信ずる方向に取ったのだーーーある者は母性保護運動に、ある者は さてつ