「ポケ」とはなんだったのか 五、外界への関心 当初の外界への無関心ぶりには、ほとほとあきれるばかりであった。 見ようともせず、聞こうともせす、まったくうつろな目をして、終日無為にときを過ご こうこっ すだけであった。例の恍愡状態ともいえない気がした。小説『侊惣の人』に出てくる光る ような笑みどころか、からだの底にも、心の奧にも、央さがただよっていよ、つとは、とて も思えぬような「つまらない、おもしろくない気分」そのままの憮然とした表情で、ただ た、、こしっとしていたのだから。 おそらくじいはもうなにもかもいやになって、なにをする気もなかったのだろうと思う。 それが十日たらすの間に、じりしりと外界への関心を示すようになった。 これは文字への関心と同しで、能力の衰えというよりは、その気にならないわけがあり そのことの方が介護者にとっては、たい せつな問題であったのだと思う。 , ハ、排尿 排尿に関するいろいろな力、たとえば尿の満たんを知覚する力、排尿をこらえる力、つ 185
精神状態にあるのだろうと思われる。もちろん若者のそれとは、よって生じた原因はまっ たく違うのだが。 こんなわけで私たちは、じいに感動をさそったり、 興味を起こさせたりする努力が、い っそうたい せつらしいことを再認識したのであった。 テレビへの関心 テレビにかなり関心を持つようになって、ドラマなどのすじも、単純なものなら理解で きるらしいことかわかった。 夜七時半、 Z がスポーツ中継だったので、チャンネルを回して、ひさしぶり シー』を見た。地震の山崩れが、ラッシーの活躍によって、危機一髪のところで助かる という物語であった。私はっとめてじいの興味をそそるように、わざと、 「あっ危い レ」 , か 「ああよかったね、助かったんやね」 などと、いちいちあいっちをうったり半畳を入れたりして見た。しいもどうやらひきこま
ニュースへの関心も、ポケの回復につれてめざましく高まってきた。 三月二日、夕刊第一面は、北海道庁爆破事件を大きく報じていた。 「じいちゃん、ちょっと見てみ」 とその大きな見出しの活字を指でなぞってみせた。この程度の意味は理解できるはすだ。 ところがおどろいたことには、それ以上の反応をみせてくれたのである。 「テレビはなにをやってたね」 「おう、飛行船の話じゃったぞ。この年寄りが昔のことを話してくれた。戦争中の飛行機 のこともいっとったわい」 とのご返事。まさにその通り。ノエッ。 ヘリン号やゼロ戦の話だったのだ。 「じいちゃんも、昔ツェッ。 ヘリンていう飛行船の話聞いたことあるやろ」 「おう、聞いたいな気がするぞ」 テレビはじいの感情生活、社会的関心などの面で大きな働きをしてくれるので非常にあ カオし 224
と期待をこめて返事した。 翌朝、九時半出発の模様をテレビで見る。 「あっ天皇陛下しや」 としいは画面にあらわれた陛下を指さす。 「ちゃんとあいさっしていかはるわい」 などといちいち感想らしきものを、つぎつぎと口に出しながらの視聴である。明治人間に とって、天皇陛下は尊敬のまとであり、関心の深さも強く、また、ニュースとしては非常 にわかりやすい題材でもあるのだろう。とにかくこんなに強い関心をニュースに示したの は初めてのことであった。 三十日火曜日、「歌のゴールデンステージ」をみなで見る。じいも横になってなんとはな く見ていた。赤坂小梅があでやかな芸者姿でステージに立ち、字幕で「黒田節」と出ると、 しいはひょいと上半身を起こして、 「あっ、黒田節か」 くりして と声をあげた。私もびつ 「しいちゃん黒田節好きなんかね」 「おお、好きしや」
無感動、無表情、無関心、無意欲、こんな表現しかあてはまらなかったのは、人間らし い正常な心の働きをはばむものが、しいの周囲にあったということなのだ。ただむさばり 食うことだけにしかたのしみのなかったじいに、ドラマを見て心を震わす暮らしが戻って きたことが無生に、つれしい ドラマだけではない。 このごろニュースにもばつばっ関心を示すよ、つになってきた。 二十九日の晩、あしたはいよいよ天皇陛下がアメリカの旅に出られるというわけで、そ のための特別番組が組まれた。 「あれはだれかわかるやろ」 「天皇陛下ではないか」 「そうよ、あしたね、飛行機に乗ってアメリカへいかれるんよ」 「ほう、飛行機でいかれるのかよ」 といって熱、いに見入っこ。 オ三十分間私たちがそばでいちいち解説してやると「うんうん」 九とうなすきながら見た。 八「天皇陛下はあした何時にたつんじゃ」 「朝九時に出発や。そのときはまたテレビで放送するからいっしょに見ようかね」 孤「おい」
はじめに 1 孤虫ーーー八 5 九月 一丁レビ 居間暮らし 8 しいの荷物間老夫婦Ⅱ話しかけⅡ 一」ば 姑との別れ介護方針 排便と断水騒ぎ とまどい 4 感謝 興味貶 恥す・かしさ 記慮喪夫 文字 白いシーツ やさしさ 夜中の小便 食事のこと プライド 入浴介助「ポケがなおった」について レビへの関心 心の動き 言儷排尿、二進一退 おしいちゃんが笑った・目次 しゅうとめ 入浴 スキン テ
) がなければ、こんなことばは出てこないものだ。 周囲のものごとになにひとっ関心も興味も持たす、ただばんやりと日を過ごしていたこ の間までのしいには、考えられぬはどの変わりようである。 「しいちゃん、ありがとう、心配してくれて」 ついいなから、よろこびかこみあげる。 十八日、庭でかまきりを見つけた。めすらしいのでしいに見せる。 「これなんやろうね」 知っているらしいのだか、 「かまきりやよ」 「おうそうじゃ、 か士医り・」 となっかしそう。しいのひざに止まらせると、じっと見つめている。そのまま戸締まりを して、八百屋へひとっ走りいってくる。帰ってみると、かまきりはまだしいのひざに止ま っていた。 「あれつ′ まだしっとしているのね」 「ああ、もう外へ放してやった方がようないか」
と日町ノ \ 。 「おう、おしつこにいくぞ。あんたはどうや」 とおっしやる。「あんた」といわれたのも初めてなら、しつこを心配してもらったのも初め てなのでおかしくなる。 「しいちゃんがわたしのしつこまで心配してくれるなんて、うれしゅうなってまうなあ」 とおおげさにい、つと、 「 . わはは : ト更の音。 とたのしそうに笑って便所へ入った。ジョンジョンとなかなか景気のいい / イ 「はう、ようけたまっとったやないの。ようこらえれるようになってよかったね。そうな ええ音聞くと、やつばり私もおしつこしとうなってきたよ」 「お、つ、小便の立日を聞くとしと、つなるか」 「なるよなるよ、ジョンジョンなんて音を聞くとね」 こちらは芝居をしているのである。しいの関心や興味に合わせておもしろげにしゃべる のも、 いいかげん疲れるけれど、これも効果の大きい精神療法なのだ。心の底から破顔大 笑して、しいの心は開かれていくようだ。 126
興味 あれはどまったく関心を示さなかったテレビを、このごろは少しすつ見るようになった。 しゅうとめ 弟宅で姑といっしょにいたときも、そして兄宅にいたときも、まったく見ようとしなか ったらしい。わが家へきても一週間はどは見向きもしなかったのに、私たちが画面をさし ては、なんだかんだと話かけているうちに、興味がわいてきたものとみえる。これはかな よ、笶ご。 ドラマ「水色のとき」の中で、知子が石屋さんの店先でスイカを食べるシーンがあった。 「あっ、なにを食べてるんかな ? 」 「ありやスイカを食べておるんしや」 この間スイカを思い出せなかったのは、赤いところだけを四角く切って出したからかも ときは『どうしよう』って心痛めてるんやね。そういう気持ちを、ちゃんとわかってあげ ることが大事なんやね」 と相槌をうちながら、娘がこんな心遣いをして、しいの気持ちをいたわっていてくれるこ とを、つれしく思った。
再びよみがえったじい 「しいちゃん、米国のなにを勉強しようと思うの」 「そりや、米国のすべてについてよ」 という思いもかけぬことばで、ふたりとも思わす、 とうなってしまった。しいの会話の中に「すべてについて」などといういい回しが出てこ ようとは思いもかけぬことであるが、それにしても、外界に対する関心や意欲の出てきた 証拠としてうれしくなる。 五月のことだった。はるみが図書館から『少年倶楽部名画集』なる本を借りてきてくれ た。往年の『少倶』のさし絵を集めたもので、『少倶』で育った私たちにとっては、心をゆ さぶられるようななっかしさだ。はるみはさっそくしいに、 「昔、少年倶楽部って本があったこと知ってるでしよう」 「おう知っとるぞ」 「これは少年倶楽部の絵ばっか集めてあるんよ。 とよろこんで見入る。乃木将軍の絵があった。 「こりや軍人さんらしいか、だれやしらん」 っしょに見よ、つかね」 229