その名が、大英博物館の歴史に登場するのは一七八〇年のこと。大英博物館開設当初からハウ スメイドをしていた叔母を頼って、ここにやって来ている。そのときメアリーは、わすか十歳だ 十歳から死ぬまでの六十五年間、メアリーは文字通り身を粉にして大英博物館のために働く。 彼女の夫も子供も、そして孫もまた大英博物館に勤めていた。住み込みで働いていた彼女は、ま さに生涯を大英博物館に捧げたといっていい。 大英博物館の所蔵品は、年とともに充実していった。ロゼッタ・ストーンが、多くのエジフト 彫亥が、そしてパルテノンからエルギン・マープルズがもたらされたのを、彼女は目にしている はすである。 当然、職員も増えていった。 しかし、館や職員の世話をするハウスメイドの数は、長いこと四人に据え置かれていた。 いつの間にか古参となり、ハウスメイドの長となったメアリーの責任は重かった。その仕事は 増えるばかりだった。 大英博物館の職員が見かねて、理事会にかけあい、やっと、ほんの少しだけ彼女の仕事を減ら すことができたとき、メアリーは七十歳を過ぎていた。 石炭をくべたり運んだりするのは、「ハウスマン」と呼はれる男の仕事だった。しかし学芸員
初出一覧 まだふみもみず・・ : : はじめに書き下ろし 第一章イギリスはあやしで満ちている 誰も寝てはならぬ「フレンドリースカイ」 1994 年 7 、 8 月号 おひるご飯物語「暮しの手帖別冊ご馳走の手帖」 1992 年版 隣は何をする人ぞ「 TOKYU SALON 」 1993 年Ⅱ、肥月号 大英博物館物語 その 1 壁と箱『大英博物館』 1991 年 その 2 幽霊と女丈夫『大英博物館』 1991 年 その 3 女神たち『大英博物館』 1991 年 その 4 ただいま、探索中『大英博物館』 1991 年 その 5 メアリーの肖像『大英博物館』 1991 年 その 6 ワイン・リスト『大英博物館』 1991 年 第ニ章オーストラリアでのあさましな初舞台 初舞台物語 その 1 ウエルカム・トウ・オーストラリア「朝日新聞」 1992 年 5 月 2 日 その 2 影と輝き「朝日新聞」 1992 年 5 月 9 日 276
さすがに収集好きの国イギリスと、そういうファイルがあることを笑いながら友達に話したら、 その友達がたちまち青くなった。 「やだ、私もファイルに載ってるかもしれなし 、。『ッタンカーメンはどこですか』って訊いて、 思いきり軽蔑されたもの」 ッタンカーメンは大英博物館にはない。その金色の輝きを見たくは、エジプトはカイロの博物 館まで足を運ばねはならない。 しかしファイルに載るはどのことでもない 多くの人が、大英博物館に来て初めて、ツタンカーメンはここにないと知るのだという。 あるときは、イギリスの田舎からこんな手紙が大英博に届いた。 「拝啓、大英博物館殿。先日、先祖伝来の家宝の中に、ツタンカーメンの櫛と歯プラシを発見い たしました。・ とうしてもと請われれは、公益のため格安でお譲りする気がないでもありません。 委細はご相談の上」 し や あ 大英博物館が新たに収蔵品を増やす場合は、必すトラスティと呼ばれる理事会の決定をみなけ れはならない しかしッタン章 この手紙が、二十五人の理事の目にふれたかどうかは定かでない 第 カーメンの櫛と歯プラシが、トラスティの購入検討品目にのばらなかったことだけは確かである。 いんぎん その辺の全責任は、大英博物館の広報部長ハウス氏にある。ハウス氏はその申し出でに慇懃な コレクタ こんじき
大英博物館物語 そのー壁ど箱 ロンドンはグレート・ラッセル通り。 高い鉄柵の向こうに、大英博物館はある。 「文明の進歩」という名の、破風に施された彫刻。どっしりした屋根を支えるイオニア式の列柱。 もう 初めて大英博に詣でたとき ( まさに詣でるという言葉がふさわしい ) 、その威風堂々としたたた すまいに圧倒され、鉄柵から大理石の列柱までの道のりがやけに遠く感しられたものである。 しかし、大英博物館に入るのに、それ以上の障壁はない。 なんとなれは、大英博物館は入場が無料なのである。 トイレを借りに入って、し ロゼッタ・ストーンの前で待ち合わせをするためにだけ使ってもいし そのついでにラムセス二世の顔を拝んできたって構わない。気軽といえば、これはど気軽なとこあ 章 ろはない。 第 この「入場無料」というのは、英国の伝統であるらしい。十年ほど前にロンドンを旅したとき、 ート美術館も、自然史博物館も、名だたる博 ナショナル・ギャラリーも、ヴィクトリア & アルバ
が留守にするときは、ハウスメイドが駆り出され、暖炉の世話をさせられた。膨大な蔵書を、男 に持ち出されるのを懸念したからである。 「 , 久にはわかりやしュないさ」 と、田 5 われていた。 「本の価値はおろか、どこに持っていけば売れるかも知っちゃいない。男なら、価値はわからな 、こり、こ、、こナまむ等ているからか ( 」 啓蒙思想が産んだ大英博物館ではあったが、メアリーの時代、働く女たちまで啓蒙する必要は ないし、その価値もないと考えられていたのだろう。本当に啓蒙されるべきだったのは、そうい った男たちだったのかもしれない。 ハウスはとりこわされ、新しい大英博物館が生まれる。 やがてモンタギュー たった四人の女によって守られていた館は、千人を超える職員によって支えられる巨大な機構 今や副館長は女性だし、多く となった。「女にはわかりやしないさ」と言う人はもはやいない の学芸員、有能なスタッフが女性である。 「ハウスメイド」という名も、大英博物館から消えていった。 メアリーの肖像は、長いことその存在すら知られていなかった。ある古美術商が、古ばけた肖 像画の背に、「大英博物館の家政婦」というほとんど消えかけた字があるのに気づいて、つい最 5 5 第一章あやし
理事会 ) の決定をみたのかどうかは知らないが、とにかく真剣な討議の結果、良家との縁組みが できた二匹の仔猫を除く全員が、大英博物館「所蔵」というお墨付きを貰ったのである。 以来、母メイジーは、その大恩に報いるべく、博物館の大敵、鳩退治に余念がない 「これで、百三羽目ですよ、百三羽ー と、猫の餌の世話をしているレックスさんは、メイジーが手柄をたてるたびに、それを我がこ とのように吹聴してまわるのだそうだ。 大英博物館と猫との歴史は古い。 半世紀以上前には、マイクという猫がいた。博物館の正門の番小屋で、守衛さんとともに間断 なく入口を守り二十年、ロンドンで一番有名な猫と言われた。 ヾンノ郎〔化、、、」らけのマ・イク」とい、つ マイクの本名はマイケル、またの名を「ウォー サー・ウォ ーリスは、古代エジプトについての権威で、大英博物館の古代エジプト部門の責任 者でもあった。古代エジプトの研究に没入するあまり、女神バステートの熱烈な崇拝者になって しまったのだろう。とにかく、マイクを可愛がった。 ポケットには必すマイクの好物を忍はせ、マイクの欲しいものがきちんと与えられているかど うかに鋭く目を配る。第一次世界大戦のさなかの食糧不足の折も、マイクにだけは不自由な思い をさせなかった。退官して大英博を離れてからも、週に一度はマイクを訪ね、六ペンスすっ置い
窓のわきに、 小さな肖像画が掛かっている。暗い色の服を着た、い くぶん猫背ぎみの老婦人。 堂々と胸を張ることをせす、小さな絵の中で、その姿がよけいに小さく見える。 名画というにはあまりにも拙い。偉人の肖像画にしては、あまりにも遠慮がちである。 「ああ、この絵ですか」 と、かたわらから、サー・ディヴィッドの声がした。 サー・ディヴィッドは、撮影開始のご挨拶に伺った私たちを、館長室から展示場へと送り出し てくださるところだった。 「この絵のおばあさんはね、まだ大英博物館ができたばかりの頃、ここで働いていたハウスメイ ドですよ」 「ハウスメイド」という言葉を、サー・ディヴィッドは使われた。 大英博物館が開かれたのは、一七五九年。 ハンス・スローンという啓蒙思想の持ち主が「神の栄光と人類の幸福のため」と、自分の大コし や あ レクションを、国家に遺贈したことに端を発する。この大コレクションの収蔵と公開のため、今 の大英博物館の場所にあった「モンタギュー ハウス」が購入された。そこの維持・管理にあた章 第 っていたのが、ハウスメイドと呼はれた女たちである。 肖像画の老婦人の名は、メアリ ったな たん
ーリスによって『マイク』という追悼文集が編まれ、大英博の図書係から、 そして、サー・ウォ 韻をふんだ美しい詩が寄せられた。 「さらばマイク / 君を惜しむ / 君、我等を愛しますとも / 最も賢く / 誰より長生きした / 猫の中 の猫 / 望み通り / 安らかに」 現在、大英博物館「鳩公害対策課」の公式要員は六匹である。四匹は新参のメイジー一家。あ との二匹は、マイクの血をひいている。 クリスマスが近づくと、猫好きのレックスさんが、「猫チャンにも楽しいクリスマスを」と、 小さな箱を持って職員の間をまわって歩く。 集まったお金で、女神たちに一体どんなクリスマス・プレゼントが用意されるのか、私は知ら オし その 4 ただいま、探索中 スペシャル『大英博物館』の案内役を仰せつかったとき、私は心で快哉を叫んでいた。 ( これで、ついに食いつばぐれがなくなったわ ! 女優としていよいよ立ち行かなくなったら、 大英博物館の前に、旗持って立てはいいんだもの ! )
その 6 ワイン ・リ・スト ワインの歴史は、人類の歴史とともにあるという。 「歴史はシュメールに始まる」という有名な言葉もあることだし、ひょっとして大英博物館の 「ウルのスタンダード」、あの祝宴の図の中で王さまや家来が飲んでいるお酒は、ワインだったの かもしれない。ギリシャの壺、アンフォラやクラテルなど、大英博にはワインにまつわる収集品 が数知れすある。 しかし、ワインそのものを置いているわけではない。 古ければ古いほど値打ちがあるように思われているワインだが、ワインにだって寿命があるの である。フランスのソーテルヌ地方の貴腐ワインなどは、十九世紀のものがまだ味わえるという が、これは例外中の例外。最高の年の最高のワインを完全な状態で保存しても七十年が限界で、 近大英博物館に持ち込んだのだった。 百数十年ぶりに大英博物館に帰ってきたメアリ 。静かな廊下の一隅で、一体何を見ているの だろ、つか この肖像が描かれた一年後、メアリーは七十五歳の生涯を閉じている。
大英博物館を訪れる日本人は、年間一一十万人を数えるという。日本語による「大英博ツアー」 が商売にならないはすがない。 だが、現実は、いつも私に甘くない。 ます、大英博物館の広さに参ってしまった。通っても通っても、一向に通になれない。 ちょっとわかってる顔がしたくて、館内地図から目を離し、大英博散策としゃれこむ。すると たちまち迷路のまっただ中である。撮影場所に迪り着くのにも、最低一一度は警備員さんに道案内 を請わねはならなかった。 加えて、その収蔵品の多さ。 今日は「ギリシャ編」を撮るって言ったって、「ギリシャの部屋はどこ ? 」では通しない。ア ルカイック期のギリシャの部屋があるかと思えは、ヘレニズム期の部屋があり、壺は壺で階段を 降りた別の部屋に並んでいる。ギリシャ彫刻を見たくは、また違う階段を探して降りなけれはな らないし、同じギリシャ彫刻でもパルテノン彫刻は、ドウビーン・ギャラリーとい、つ、そこだけ で日本の博物館一コ分くらいの巨大な空間に収められている。 目的地に辿り着く、一番手つ取り早くて確実な方法は「日本の撮影隊はどこ ? 」と訊くことで、 そうと悟って以来、私はすっとそれで通してきた。 というわけで、二カ月たって撮影が終了しても、大英博物館は私にとって迷宮のままだった。 つう 49 第一章あやし