そろしい日々の、積み重ねの中に、自分自身の心の持ちょうを、見つけだすものだ」 どうやら、「幸福な家庭」「いい夫」といった、「ノベダラ式の幸せ」に期待するなと、 父は言いたかったらしい 「お前達の前途が、どうぞ、多難でありますように : と、また別のエッセイでも、書いている。 「多難であればあるほど、実りは大きい」 この世界に私を放り込んだのは、父である。女優の道を歩んだがために、私の人生が 「多難になった」などとはちっとも思わないが、いわゆる「オンナの幸せ」コースからは 大分はすれてしまったかもしれない 母が涙しながら歌った歌を、私には教えてやれる子供がいない しかし考えてみれば、母の涙ははとんど父が原因だった。何しろ父は、元祖「火宅の 人」だったのだから。 すると、私は父の勧めにしたがって女優になったことによって、危うく「難を避けた」 のかもしれない いやはや、父の愛は「かなし」
まれていれば幸せなのだそうだ。 しかし、「クリスタル」とは一体なんなのだろう。ガラスとどう違うのだろう。 恥をしのんで訊いてみた。答えは明決だった。鉛の量が違うんだそうである。鉛の量が多いの かクリスタル。 鉛の含有量が増えると、光の屈折率があがり、輝きが増す。普通のクリスタルは二五 % ほどの 鉛を含む。バカラの製品となると三〇 % 。輝きも、透明度も増すかわりに、細工が格段に難しく なる。バカラでは、加工から仕上げまでの間に、半分近くがアンパフェ ( 不完全 ) ということで 割られてしまうのだそうだ。 クリスタルには負けた。と、つと、つ、自分のためにもクリスタルを買、つことにしこ。・ シャンパングラスである。 上等のピンク・シャンパンも買って、日本に持ち帰った。これで、飲み初めをしよう。 しかし、グラスの梱包も解かないうちに祝いごとが持ち上がった。三人たて続けに男の子を産 んだ友達に、やっと女の子が生まれたのである。これは、やつばりピンク・シャンパンの出番だ ろ、つ。 キリリと冷えたシャンパンの栓を、ご主人に抜いてもらう。 ぞ 2 2 0
そういえは、その昔から、私はよく居眠りをしていた。昼休みの後の授業はいうに及はす、淡 い思いを寄せていた男の子と初めて行った映画でも、寝た。 映画は『アラビアのロレンス』。その男の子にとって宝物のような映画だった。多分、「君にも あの感動を ! 」と意気込んで私を連れていってくれたのだと思う。しかし、私は中盤、舟の漕ぎ つばなしで、砂漠で一体何が行われたのかまったくわからないまま映画は終わってしまった。当 然のことながら、二人の間も、それ以上の盛り上がりはみせなかった。 この話を今は亡き淀川長治さんに打ち明けたことがある。世の中には、やたらとダラダラ長い 映画がある。恐ろしく退屈な映画もある。 「映画を観ながら、寝ちゃったなんてことないんですか ? 」と、伺いたかったのだ。 「あんた、よく寝られるねェ」と、淀川さんは、目をまるくされた。 「私がそうなったら、もう自殺ゃね」 し しかしなんといっても、寝るならオペラである。夢がうつつか、うつつが夢か。寝ても覚めてあ 章 も、そこは桃源郷なのである。 第 ただし、自分でチケットを買ってまでして、夢の世界をさまよいたいとは思わない。貧乏性の 私には・・にウン万円かけるほどの、心のゆとりはない。誰か奇特な人が誘ってくれるの
三カ月たち、半年たつうちにあえかな幻想もついえた。泣くに泣けない思いで、宝物への未練を 断ち切り、この不祥事が憧れの君のお耳まで届かないことを、ただひたすら祈るはかりだった。 試練のときは必すやってくる。まもなく産れの君から「久しぶりに会いましよう」と、時計仲 間への招集がかかった。小躍りして駆けつけたい気持ちと、法廷におもむく大罪人のような気持 ちが入り交しる。 夏の盛りだったが、私は手首がすつばり隠れる長袖のワンピースを着て行くことにした。 見ているわけがない。見えるわけもない。 しかし、かの人の視線がチラチラと私の左手首をかすめているようで、食事の間じゅう、私は 落ち着かない。冷や汗をぬぐうのも、笑ったロもとを覆うのも、左手であってはならす、うかっ には拍手もできす、あれほど緊張を強いられた会食は、後にも先にもなかった。 たが 別れぎわ、左手を振らないように気をつけながら、私は考えた。これはどうしても、寸分違わ ぬものを手に入れなくてはならない。 香港では、その時計仲間の一人である女優さんが一緒だった。 「ええーツ、 こんな大切なものなくしちゃったのオ、信じられない ! 」 そこっ と、彼女は自分の時計をいとおしそうになで回しながら、私の粗忽ぶりを悪しざまに言う。そ 202
そう言いたかったのも、こらえた。 そして、切り張りしたような笑顔を浮かべて、・に「おやすみなさい」と言って部屋から せき 送り出し、扉を閉めたら、ほろりと涙がこばれた。いけない。 もう止まらない。堰を切ったよう に、あとからあとから涙があふれる。オンオン、声をあげて泣いた。い くら泣いても、泣き切れ ないような気がした。 だが、しかし、ひとしきり泣いたところで、ハタと考えた。 ( 今、どういう顔をして泣いているんだろう : : : ) 鏡の前に走る。目も鼻も真っ赤に腫れあがった自分がいる。 ( なるはど : : : ) そういえは、劇中に悲しい場面があったな、と思い出した。あそこの台詞を泣きながら言って みたらどうだろう。台詞を呟く。二度目は違う泣きかたで言ってみる。泣かすにやってみる。泣 き笑いというのも試してみる。 突然、可笑しくなった。 自分は、一体何をやっているんだろう。 女優とは、なんて業の深いイキモノなんだろう。 その夜、長い手紙を書いた。 おか ごう
十一月お姉さんの時代 びんがた 二十歳のとき、珊瑚礁の鮮やかな青で染め上げたような、美しい紅型の着物を作った。私の初 めての着物である。 はど、かい ひとしおの愛着がある一枚だが、女も端境期を迎えると、さすがに袖を通すのはははかられる。 「染め替えようかしら」と呟いたら、着物好きの友人に「もったいない」と止められた。 、しゃないの」 「姪ごさんにゆすってあげたらいし 姪が三歳の祝いを迎えた。絶好の機会ではあるが、かんじんの決心がっかない。引き出しを開 けるたびに、未練に絡みとられてしまうのだ。七歳になった。紅型はいまだに簟笥の奧に眠って 私の母は私よりすっと寛容だから、孫に自分のペンダントをゆすったりする。 だから、自分で丁寧に掃き集めた落葉で焚火をするとき、そうした手紙も一緒にくべる。一通 一通にもういちど目を通しながら、ゆっくり別れを告げるのだそうだ。 本の葉と言の葉が、からみあいながら天へと昇ってゆく。 空の色が、いつにも増して青い。 192
ートの頭を叩いて割ってしまった石板までが用意されている。 べッドも、アンかギレヾ アンは自分の好きな場所に、ピッタリ 「歓喜の白路」「ドライアッドの泉」「恋人の小径」・ の名前をつける名人だった。もちろんこの名を本当につけたのはモンゴメリ。だからモンゴメリ を訪ねて行けは、いっか必す物語の場所に出会えるはす : と、取材はモンゴメリを追って、その生家、大好きだった従兄弟の家、教会など、プリンス・ エドワード島を転々と歩きまわった。 その行く先、行く先で出会った日本人のカップルがあった。 「新婚旅行なんだって」と、早耳のスタッフが、早速どこからか情報を仕入れてきた。 「奧さんが『赤毛のアン』の大ファンなんだってさ。帰るまでに、もう一ペん全部回りたいって 言ってたよ」 「旦那が大変だよなア」 スタッフはさかんに、旦那サマに同情している。どうやら、私の思い入れに引きすり回されてル ゅ いる自分たちの身の上を、暗にこばしているようである。 章 「アラ、旦那サマだって、アンが好きだからはるばるここまでやって来たんしゃないの ? 」 第 と、私は抗弁した。 そうだ。世の中の男のすべてが「むくつけきをのこ」とは限らない
あるとき、その大好きなお風呂から出てきて、「お前さん、一緒に入って、子供たちに風呂の 使い方を教えてやらなきやダメだ」と、苦々しく母に呟いたことがあった。 自分の唯一のやすらぎの場を、育ち盛りの子供たちに、べタベタ、ドロドロにされてしまうの が我慢ならなかったのだろう。 今の私には、その気持ちがよくわかる。一日の凝りと疲れをはぐす湯は、柔らかく、澄み切っ ていてほしい。子供の髪の毛や、まして垢など、絶対に浮いていてほしくない 冬至に柚子湯につかる。これも、今や神聖な儀式である。この頃では、夜が長くなると、冬至 でなくても柚子を散らす。 「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」 はのかな柚子の香りの中で、ふと、父がむかし教えてくれた歌を思い出した。兄と妺と私と、 四人で湯船につかりながら、父が歌い、子供たちが繰り返した夜があった。 父にとって本当に苦々しかったのは、子供たちのお風呂の使い方ではなかったのかもしれない。 人の世の無常迅速をかみしめていたのではないだろうか。ひとっ風呂で、自分の歌う歌を、素直 に繰り返す子供たちはもういない。 「ながながし夜をひとりかも寝む」と、そっとロすさんでみる。
と、マサイ通の日本人も言う。 しかし、ケンカ好きだけがすべてではない。戦いに臨んでは命も惜しまぬというのが、いまだ この頃よく、マサイはプライドを捨てた、観光客から金を取る に最 ~ 咼のプライドであるらしい ようになったといわれる。しかしマサイのフライドはそんなつまらないところにはないのだ。 その最高のプライドを示すために、今でもときどき、ライオン狩りに出る。狩りのときに先頭 いよいよ危な に立つものは絶対に引いてはいけな ) 。殺されそうになっても引いてはいけな、 くなると、仲間が抱きかかえて難を逃れさせるのだそうだ。 マサイの部落を訪ねた後、何度かライオンの群れを見ているうちにハッと思い当たったことが ある。 マサイは、ライオンを真似ているのだ。 ライオンは、強いオスがハーレムを作る。メスたちに狩りをさせて、自分は内臓の一番おいし いところを、まっさきに食べる。そして、後はの、つの、フと寝ている。 マサイも、金持ち ( この場合、牛持ちという方が正しい ) の男は欲しいだけ妻を持てる。その しいところを食べる。 妻たちにかしすかれて、のうのうと暮らす。肉も男がます、 マサイの男は、たてがみ美しい強いライオンに、自分たちの理想の姿を見ている。だからとき どき、理想より理想たれと、ライオンに闘いを挑むのではないだろうか 129 第三章ゆかし
その夜も、うむを言わさぬきつばりとした切り口上で、私を震え上がらせたに違いない 一つだけ、鮮明に記億していることがある。私が泣きながら庭に出て、囲炉裏の灰を捨て、新 しい灰を作ったとい、つことである。 物置の隅から引っぱり出してきたムシロに火をつける。一瞬、メラメラと力強い炎が立ち上が り、闇を照らす。しかし、次の瞬間には、ガッカリするはど小さな燃え殻となって、そのわすか またた に赤い残り火が、私の涙の中で、チロチロと頼りなく瞬くのだった。 父が何にそんなに腹を立てたのかという答えは、父の手によって、きちんと書き遺されている。 『家出のすすめ』というェッセイである。 「久し振りに家に帰り、わが家を見まわしてみたら、自分の書斎がどこにもない。 ないのが道理で、居ないオヤジの書斎 ( というより酒の部屋 ) をムダに遊はせておくよりも、 使ったはうがいいたろうというわけで、娘達の占領するところとなっていた。 : 中略 : 娘達が、私の留守書斎に入りこむと一緒に、ポチも移動してきたらしく、ポチは遂に、日本一 の便所を発見したのである。 私の囲炉裏だ」 そして、娘の猫に、自分の大切な囲炉裏を便所にされてしまった、オヤジの怨みつらみが哀れ 267 第六章いとかなし