八郎は亢奮して泥足のまま、縁側へ飛び上がると、 「お前達、あんまり騒ぐなよ と、ばあやが覗きに来た。八郎は首をすくめたが、ばあやは芝居が大好きで、芝居 話をききにお八つを運んで来たのだ。 「ほうら、お番茶だ」 「ほう、孫市だ」 「コラ、大きな声出すな、爺ちゃ、まだ台所にいるよ」 ごま せんべい 鷹ノ巣名物の孫市煎餅は、麦粉で焼いた胡麻や落花生の入った丸い大型の田舎煎餅 で、孫市爺さんが朝早くから焼き上げて町を売り歩く。そのふれ方が面白いので、よ く子供が真似して爺さんをからかった。 「煎餅、煎餅、孫市せんべい」 と怒鳴っているのだが、歯がないので、どう聴いてもひンべ工、ひンべ工、まごえ ちひンべ工となる。しかもひどく間のびしているのだから悪童連は買いもしないで孫 市爺さんの姿を見ると、ひンべ工、ひンべ工、まごえちひンべエーと怒鳴る。
政勝親父は、戸板をかついで来た。 「おどウ、遅い、遅い 私は気狂いのように怒鳴ってしまった。 繩梯子を降して竹子先生を崖の上に抱き上げると、染八が手を貸して戸板の上に寝 かせ、病院へ運んでゆくことになったようだ。 「せんせ工、せんせ工 生徒達が駆け寄ると、政勝が大きな目玉をぎよろりと動かして怒鳴った。 「こら、ガキ共。こういう時はうるさくするもンでね工、みんなあっちサ行げ 出血多量だと風林堂先生が、男の先生達に言っていられたが、竹子先生は血の気の うめ ない唇を固く閉じて、もう呻き声も洩らさなかった。 戸板がかつぎ上げられると、私達は手に手に持っていた野の花束を竹子先生ののつ た戸板の上にのせ、まるでこの世の別れのように、「せんせ工、せんせエーと大きな 声で泣き出した。 はんてん 戸板をかついで歩き出してから、染八は列を離れ、自分の着ている袢纏をぬいでそ なわばしご 142
と訊いた。 八郎はだんまり戦術で上目使いの白い眼で先生を睨んだ。 「もうよござんすよ、帰っても」 八郎は・ハケツのツルを握りしめたまま返事をしない。 「みんなが待っているから、もうお帰りなさい」 今日の竹子先生はどうかしている。サザ工のように黙り込む八郎の肩に手を掛け、 先生はわっと泣き出したのだ。 先生はしきりに八郎に謝った。 ノ郎が悪いのだから先生は何も謝ったりすることはないはずだ。でも、はっきり と、私が悪かったと、何度もおっしやった。 なんだか変な気持ちになって私達は顔を見合わせ、サザ工のようなジョッ。ハリの 郎をうながして教室を出た。 機 行先生を泣かせてしまったのはどうしても気持ちが悪い。八郎だって気持ちが悪いに 飛 ちがいない。あんなにジョッ。ハリなんかしなければよかったのだ。 129
に起こしてけれと、あれほど頼んで置いたのにヨ 「丸太棒で叩かれても、お前は知らず死んでゆくなア」 「縁起でもね工、くそばばア。おかげでオレのドンジョが逃げてしまったど」 「まンだまだだ」 「まだまだ、・ とした ? ・ 「ドンジョドの中さ入ってべよ 「したらもう一眠りだー 「この馬鹿わらし、ゆんべは七夕さんで眠たいのはお前ばかりでね工。ドンジョ泥棒 もまだ寝てござる。サ、起きて早う行って来い 八郎は寝床を飛び出して裏へ出た。寝呆けたわけではないのだが、あんまり眠くて 昨夜の七夕さんをすっかり忘れたほどだ。浴衣はくしやくしや、おまけに尻つばしょ りをしたままだった。ネプタを流して家へ戻ったのがかれこれ一時、お祖母アに声を 掛けられても返事もしないで、どたんと隣りの布団へひっくり返ったまではお・ほえて いるが、それなり前後不覚に眠ってしまった。 110
力が互角になると、風林堂さんも禰宜さんもじっとしていられなくなり、立ち上が って声援をはじめる。 政勝と染八が綱の中央で精根かぎりカを出し合っている。 孫市が歯のない口をあふあふさせて、綱の中央へまたやって来た。 「おお、政勝どうした。この腰抜け奴が ! それ、頑張れ ! 松葉町のちょろげ ( お 飾り ) 野郎になんぞ負けるな、男の面汚しだそ。ソレ、わっしよい。 わっしよい」 ちょろげ野郎がかんかんになって怒り、綱から手を放した。 「なんだと、このクソ爺イ奴ー 孫市爺さんは年の功で、そんなことくらいでは一向動じるふうもなく、 「おや、妓さんたちお晩だなンす。あんまり顔をしかめてカむもンでね工し。それ、 そっちの別嬪。まなこ吊り上げて、歯くいしばってハンニヤみたいだョ。まずまず、 泡ふいてお前てんかんでも起こしているのでね工か。おや、この人モンべはかない で、アンビン風邪引くよ べっぴん 230
ネプタ と、ばあやは行かせてくれない。 「八郎、お前も止めれ。子供の知ったことではね工 ばあやはあくまでも反対であった。しかし八郎は、あやかれるものならあやかりて 工よ、オレと一緒に死んでくれる女なんかいるかョ、とすっ飛んで行ってしまった。 だま 町中どこへ行っても心中の話で持ちきりである。女を騙したのだという人もあれ ば、男が騙されたのだ、気が弱すぎたのだという人もあった。 それから一週間経ってお盆がやって来た。 くさば、フき 子供達は草帚をかついで、みんなでお盆のお墓掃除に出掛ける。草をとって墓のま ききよ、つ わりをきれいに掃いて、繩でたわしをつくって石塔を磨き、それが済んだら山へ桔梗 おみなえし や女郎花をとりにゆく。 お座敷の仏壇に、紅いハマナスの実やお盆菓子を飾り、鐘や燭台を磨き、お盆提燈 を吊す。みんなでやるからお仏壇は見違えるほどきれいになるのだ。そうしなければ 先祖さまは帰って来ない。 ナスやキュウリに割り箸の二つ折りを突き刺して脚をこしらえ、牛と馬をこしらえ 119
ちになってみせるでや」 「風林堂のお爺さんみたいにか」 「ああ、したども風林堂の御隠居は気に入らねえ。貧乏人の家に陽が当らねえほど屋 しわ 敷に高塀をめぐらせで、金貸しなんそ、俺ア嫌いだ。吝ン坊の太陽ドロポーだべし ゃ。同じドロポーになるなら、貧乏人に金をばらまくネズミ小僧か、石川五右衛門が いっそナニ 八郎と話していると、どこまで喋っても、たいていナニワ節調である。 ワ節語りのハチになった方がいいのかもしれない。 ハリ音を立てながら 孫市爺がまだ台所だときくと、みんなおとなしくなって、 煎餅を噛ったが、八郎だけが小さい声でひンべ工、ひンべ工とふれる真似をしたの で、みんなくすくす笑い出した。 2 お八つが済むと八郎達はまた蓑を着て、竹の代わりに猫柳の枝を取りに出掛けた。 ん 日の丸が出来上がったので愚図ぐずしていられなくなったのだろう。 市 しかし回復したと見せかけたお天気の方は三日と持たず、またも崩れた。子供達は
昔 高等科へ二年行ったらもう働きに行くと言っている。私が女学校へ行くというのはや ぜいたく もっと驚いたことはツュとよぶ同級生が、家へ子守 つばり贅沢なことかもしれない。 に来るということだ。 ッュはきようだいが多すぎるので、ロ減しのために家を出されるらしい。給金もな にも要らないから着せてたべさせてくれればいいのだと、ツュのお父が頼みに来たそ 「仕方ね工、世の中は不景気で、どこの家も子供にたべさせるのがやっとこだア とばあやは溜息のように、季節労働者になってカムチャッカへ稼ぎに出るお父達の話 をするが、それにしても季節労働者のお父達は、春になればまた帰って来られるの に、三河というところへ瓦を焼きに行く八郎の奉公は長すぎると私は思うのだ。 「ハチ、お前三河へ行ったら本当に兵隊検査まで帰って来ないのか」 私は学校の帰り途、八郎に訊いてみた。 八郎はフランネルのマントボッチの中で鼻をすすりながら、 「ああ、三河は遠いもんなア、汽車賃がかかるからそうやたらに帰れるもンじゃね工 195
力を合わせ、田畑の害虫や、疫病や災難をふせぐのだから、禰宜さんは先ずその悪霊 を追払って下さるのだと教えてくれた。 それなら子供もうんと力を出して要めの方の悪霊を退散させなければならない。 さしこ 犬の皮を着た政勝親父は刺子を着た消防団の人達と一緒になって走り廻っていた が、染八が真新しい印絆纏に向こう鉢巻で松葉館の芸妓連を率いて現われるや、要め の子供達がたむろしている方へ飛んで来て、 「ええか、お前達頑張れよ。松葉町になんそ負けてはなんね工そー と激励した。 「親分、まかせとけ工、オレがいるー 八郎が外套を脱ぎ捨てて・ほんと胸を叩いたので、 「ハチ、ええそオ と誰かが弥次り、みんながどっと笑った。 禰宜さんの祝詞が済むと、政勝親父と染八が高張提燈を振り合って位置につけの合 図をした。宝来亭、花月、梅香、松鶴と身づくろいをした妓コ達が一勢に綱を掴ん つか 224
「竹子先生はバカでない」 と政勝に突っかかった 「ああ、馬鹿でね = 、馬鹿は男先生どもだア、なんだア、どれもこれもいい年をし て、こういう時は、前から抱いてもいいもンだべがとぬかしやがった。前から抱いて も、後から抱いても怪我人だ。早く医者に診せないことには死んでしまうではね工 が、と俺が怒鳴ったらョ、おや、気味悪いね = と来た。人間一人、生き死に関わる境 だっていうのにヨ、てめえのカカア以外の女は抱いたことがねえような紳士面しやが あお ったって、はじまるかよ。邪魔だ。そこ退けって突き飛ばしてやったら、蒼くなっ て、おい乱暴するのは止せだと。俺ア学校の先生てのは大嫌えだ。もっともガキの時 分から学校は好きでなかったから仕様がね工よなアー どうやら政勝は竹子先生が岩清水の下へ墜落した時のことを怒っているらしい。あ の時、政勝と染八が陣場岱にいなかったら竹子先生は本当に死んでしまったかもしれ 生 先よ、。 風林堂さんを呼びに走らせたり、怪我人をのせる戸板を借りて来たりしたの 子オし 竹 も、みんな政勝と染八なのだ。竹子先生は運がよかった。 149