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検索対象: わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵
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1. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

案があります。 ばだいしふあん いんじゅ おしようきんじっそんこう 馬大師不安院主 ( 寺の執事職 ) 問う「和尚、近日尊候如何 ( 和尚さま、最近のご容体はい にちめんぶつがちめんぶつ かがでいらっしゃいますか ) 」と。 ( 馬 ) 大師云く「日面仏月面仏」と。 馬大師が住職する寺の一切の事務を取り仕切る役職の院主が、せつかく馬祖の容体を案 にちめんぶつがちめんぶつ じて尋ねるのに、馬祖は容体を告げずに、「日面仏月面仏」と仏さまの名前で答えた。 さて、日面仏・月面仏とは、どういう仏さまか、というのが公案の問いです。院主の病気 見舞いの言葉は儀礼ですが、馬祖の答えには禅意があるからです。 仏の名と一体になりきった老女 日面仏も月面仏もともに仏名ですが、もちろん実在者ではありません。ではこの公案に 対する解答は何でしようか。「日面仏は長命、月面仏は短命のそれそれの象徴である。馬 祖は、長命と短命との相対的な考えを超えた生命の絶対性を、この二仏の名号をかりて説 いたのだ」というのがあります。 いんじゅ いかん

2. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

定形で表現するのです。 阿弥陀仏は寿命が無量・永遠であるから「無量寿仏」、また光明が永遠・無量であるか ら「無量光仏ーと呼ぶと、『阿弥陀経』は説きます。 そこでやさしく言い換えると、阿弥陀仏とは″いのちと光の極みなきみ仏〃となりま 思い立ったときに、仏の恵みに包まれる 次に、「阿弥陀仏の誓願のおかげで、信ずる心と念仏を称えたいとの心が起きたそのと いっさい 2 きこそ、一切の人びとを救わずにはおかぬ、という阿弥陀仏の恵みに包まれる」というく めだりです。 ときすなわしよ、つかくじよ、つ けごんきよう はじ ほっしん 親鸞はきっと、『華厳経・巻八』に見る「初めて発心する時、便ち正覚を成ず ( はじめ さとり 一て仏道を求める心を発したとき、そのとき覚が成就する ) 」を踏まえて述べたのではないでし しよいちねん 親ようか。最初に思い立った、いわゆる「初一念」の大事なことを強調するのです。 章それが往々に「最初に発心したとき、すでにさとりが成就するーと受け取られることが町 ありますが、そういった速まった解釈をしてはならないと思います。この語は、「初一念」 おこ

3. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

ひんし しかしこの答えは、理論や観念の遊びのようです。瀕死の病床ではなく、健康者の書斎 における思索としか思えません。禅者が公案に取り組むのは、公案に自分を合体して一つ になる修行です。この事実をよく示しているのが次の挿話です。 はは江戸中期の臨済禅の高僧で、今日の臨済禅の公案の大系を完成した臨済の中興の とうぼくあん と , つれい 祖です。この白隠の高弟の東嶺 ( 一七二一ー一七九二年 ) が、ある年江戸の東北庵 ( 現・渋 へきがんろく 谷東北寺 ) で『碧巌録』の講座を開きます。 しばたげ・んよ、つ たまたま「馬大師不安」の則 ( 公案 ) を提唱していると、聴講者の柴田元養という人の 母で六十歳あまりの女性が、東嶺の声に和して「日面仏月面仏ーと力強い声で仏名を唱 える声が、東嶺の耳に入りました。 し東嶺は、この女性を講座後に呼んで問うてみると、彼女はすでにこの公案を解決してい わたのです。彼女は、自分を日面仏・月面仏の名号に投げ入れて、この二仏の名と自分と一 AJ 抄体になり切れたのです。二仏の名に徹し切ったから東嶺が驚くほどの力強い声で、「日面 歎仏月面仏」と仏名を唱えることができるのです。それはまた彼女が、自分自身を呼んで 章いるのに外なりません。 彼女の中に埋もれているもう一人の自分、つまり仏性を呼んでいるのですが、ここに親

4. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

鸞の称名と、禅者の唱名との違いがあるように思われます ( 同じ仏名をとなえるのでも、親 鸞の場合は称名、親鸞以外は唱名と、私は区別いたします ) 。 この老女性が、「日面仏月面仏」という仏名を唱えるのは、彼女の意志によるいわゆ る「自力」 ( 2 章でくわしく述べます ) であると判断するなら、それは誤った解釈です。 そな 「日面仏月面仏」は、彼女の心中に生まれながらに具わっている彼女の本心、本性の仏 おのずか 心 ( 私のいう純粋な人間性 ) で、その仏心になりきって自ら唱名となるので、彼女の自 我による意志ではありません。 私を超えるある力のうながし 浄土門の称名は、後に学ぶように阿弥陀仏からたまわりたる称名で、人間の知性のはか らいではないのです。浄土門の称名と、禅門の唱名と共通するのが、親鸞のいう「弥陀の ごうえん 御もよほし ( 『歎異抄』第六条 ) 」「さるべき業縁のもよほさば ( 同第十三条 ) 」の〈もよほ す〉でしよう。 〈もよほす〉は、漢字で当てれば〈催す ( そういう気持ちをかきたてる・誘う ) 〉で、他か ら機能する大きな力です。 おん もよお

5. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

ここでは「阿弥陀仏とその誓願ーについて学びます。「誓願ーは、〈すべての人を救お ほとけ う〉という願いと、この願いが果たせなかったら「私はけっして仏にならぬ」との誓いで す。「不思議」は、想像できないというのではなく、人間の知性や理性を越えた事実をい います。 親鸞は「弥陀 ( 阿弥陀仏 ) の誓願」と申しますが、正確にいうと「阿弥陀仏が修行時代 ほ、つぞ , っ・はさっ の法蔵菩薩の誓願ーです。 むりよ、つじゅきよ、つ 法蔵菩薩については『無量寿経 ( 大無量寿経とも ) 』に「誓願不思議」が詳しく説かれ ますが、次にその概要を紹介いたします。 くおん じよ , っこうによら、 ねんとうぶつ め 遠い久遠劫の昔に錠光如来 ( 燃燈仏とも ) という仏があった。この如来から五十二の如 せじざいおうぶつ カ 来が相次いで世に出現されるが、五十三番目に出現された世自在王仏の世のときである。 人 ぼだいしん 一ひとりの国王が、この世自在王仏を師として菩提心 ( さとりを求めるこころ ) を発し、王 ほ , っ′、、つ 親位を捨てて出家して法蔵と名乗る ( 仏道修行者であるから、法蔵菩薩とたたえる ) 。 章法蔵は自己の身心をかけ、かならず成し遂げようと願い、かっ成し遂げずにはおかぬと 5 ちか しじゅうはちがん の誓い ( 誓願 ) を、四十八項目たてる。これを四十八願という。とくにその第十八願で、 おこ

6. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

うめはらしんりゅう 「自分は悪人」と語った梅原真隆師 あくにん おうじよう ぜんにん ( 「歎異抄」第三条 ) いはんや悪人をや。 善人なほもって往生をとぐ、 ( 善人ですら、阿弥陀仏の在す浄土に往って生まれることができるのだ。まして悪人 いうまでもない ) が極楽往生ができるのは、 あくにんしようき 『歎異抄』第三条の冒頭のこの一句は、『歎異抄』の中でもとくに有名で、「悪人正機・ あくにんじようぶつ 悪人成仏」といわれる親鸞の中心思想です。 「正機ーは、仏の教えを正しく受けることのできる人間の機根 ( 素質・能力 ) です。この 機根は、すべての人に、生まれながらに平等に具わっているとするのが、仏教の人間観で す。 したがって悪人正機とは、悪人こそ阿弥陀仏の教えをよく理解でき、阿弥陀仏の救いの メーンテープル 主賓席に着席できる人である、ということです。 「悪人成仏」も、悪人が仏になれると説くので、ともに親鸞の、阿弥陀仏の本願他力を信 ずる、深い宗教的発想です。 き、」ん

7. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

彼は、「親鸞一人がためなりけり」という、尊大とも思える表現で、阿弥陀仏の本願が、 いかに切実であるかを強調するのです。 いっさいしゅじよう すなわち「一切衆生を救う」という概念を述べるのではありません。「親鸞一人がた あかし め」は、自分にその証を得た体験の表白にほかならないのです。 悪にも似た話があります。白隠は、江戸中期の著名な禅者です。 しゅじよ、つほんらいほとけ ざぜんわさん 彼に禅思想を平易に述べた『坐禅和讃』があります。彼はその冒頭で「衆生本来仏な みすなわほとけ り ( 人はみな仏になる可能性を持 3 」と概念的に述べ、結句を「この身即ち仏なりーと結 びます。 いかにも自分ひとり占めの思いあがりの 「親鸞一人がため」「この身即ち仏」というと、 めように響きますが、そうではありません。思想を学ぶときは、このように文法でいう第一 人称単数の「わたしーで受けとめることが肝要です。それは他を押しのけて、自分だけで 一仏や教えを占有するのではありません。自分に与えられた責任を自覚するとともに、体験 親のよろこびを発声していると解すべきです。 章 233

8. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

「もしも、わたしが仏となった後に、十方のあらゆる人びとが、真実の心をもって、深い 信心を起こして、わたしの国に生まれようと思って、十遍わたしの名前を念じたとしょ ちか う。それでも、人びとがわたしの国に生まれないようなら、わたしは誓ってさとりを開か ないであろう」 じようじゅ と誓い、その願いを成就して阿弥陀仏となり、現に西方の浄土にあって、人びとを救 ( 『浄土三部経・上』岩波文庫 済しておられる これでわかるように、法蔵菩薩は阿弥陀仏の修行中の名です。 仏・菩薩の名は、それぞれ釈尊の「さとりの内容」と、「修行の内容」の表象です。「阿 弥陀仏」は仏の名ですから釈尊の「さとりの内容」を、「法蔵菩薩ーは菩薩の名ですから 釈尊の「修行の内容」を表象します。 ノ ( 無量光 ) の二つ 漢訳の「阿弥陀」の原語にはアミターユス ( 無量寿 ) と、アミター くまらじゅ、つ があります。この両原語に共通するアミタ ( 無量 ) をとって、訳者の鳩摩羅什 ( 三四四 5 四一三年 ) が「阿弥陀」と音訳したのであろうといわれます。 無量は〈最れない〉の意味で、時間・空間など人知を超えて限りない事実を「無」と否 0

9. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

められている事実を知るべきです。 すずきだいせつ すると前に記した、鈴木大拙博士が禅を説くときに外人に与えたという「あなたの中に いるもう一人のあなた」という一言葉の意味もよくわかるようになるでしよう。つまり、 「もう一人の自分ーとは何か、との思索を煮つめていくと、こうなります。 ぶっしよう 「もう一人の自分」とは、つまり仏教語でいう「仏性 ( 仏心・仏の心とも、ほとけになれ る可能性 ) 」のことで、私はこれを「純粋な人間性」と申します。 しゅし 仏性の「性」は種子 ( たね ) のことで「仏性ーとはつまり、「仏になれるたね」のこと です。浄土門では、とくに阿弥陀仏から与えられた他力の信心が、仏性にあたります。 ・はレ」け ずれにしても、人間はみな仏 ( 人間性を完成した人 ) になれる可能性を与えられているの ぞういちあごん 釈尊は申されます、「私は人間に生まれ、人間に長じ、人間に仏を得た」 ( 『増一阿含 きよう 経』 ) と。 しやりし 人はみな仏性を具えている事実を、『法華経』において、釈尊は、舎利子に次のように 一 = しています

10. わたしの歎異抄入門 : こころ豊かに生きる知恵

ごう を、親鸞は「恥ずべし傷むべし」と自分の業に沈潜するのです。ベネディクトのいう罪悪 とは別次の罪業に思い悩む親鸞の告白を、私たちは、ベネディクトに代わって胸に留めて おきたいと思うのです。 よいよ罪悪は深まり、重くのしかかってまい 親鸞は「私のように禿しても禿しても、い ほんがんたりき ります。こんな私が阿弥陀仏の誓願の本願他カ ( 阿弥陀仏が、すべての人を救わずにはおか のないという誓願と、救おうというはたらき ) によって救われたのです」と喜びます。 ぶつおん きそしてこの仏恩 ( 仏の恩・阿弥陀仏の恩 ) に何としてでも報いたいと親鸞は願うのです。 彼のこの報恩の願いが、最後に禿の字にこめられていると思うのです。 人 禿 愚 133